赤黒い鬼はここにいる。


「次の組で最後だ!」


 里を流れる人たち。夕暮れ時になると、この里の者達は狩猟の場と里を行き交い、獲物や恵みを回収する。その中に、俺たちが仕留めた銀光熊シルバーベアもある。

 回収班の人と目が合うと、手を上げて挨拶をしてきたので、頭を下げておく。


 頭を上げ、なおもその光景を見続けていたそのとき。


「私たち、手伝わなくていいのかな」

 気づくと、隣に黒髪のポニーテールが揺れていた。

 下を見ると、柳のように揺れ動く黒髪の陰、長い睫の下、純粋で凛とした瞳がこちらを見上げていた。


 柔いベージュ色の唇に人差し指を当てて、自分たちがただ待機しているこの現状に、悩んでいるようなしぐさを見せている。


 まあ、傍目から見たら俺たち、サボって皆の作業を見ているだけだからな。工事現場で言うと監督の人。ただし本当に何もせずって感じだ。


 ただ、それにも理由がある。


「回収と狩猟で役割分かれてるし……それに、俺たちは迷子になっちまうからな……」

「ああ~なるほど。確かに、あの雪原をレイブさんたちの先導なしで歩くのは無理かも」

「誰かいりゃあいいけどな。彼らもこの仕事に誇りを持ってるし、邪魔する必要もない」

 ふ~ん、と得心するような声を出しつつ、両手を前で組んで体を捻ることり。

 手持ち無沙汰になったときの癖だ。ポニーテールが揺れて可愛いので、この状態になったことりを眺めるのも俺の癖になっている。


 しかし、この時間も悪くないが……ジヴェルさんのところに行かないとな。


「そろそろ行くか」

「うん」

 いつもの流れなので、特に疑問を挟むことなくついてくる。

 里から離れ、森に入る。肩を並べて、その開けた道を歩く。


 ジヴェルさんの家は、里の集落からほんのちょっと離れたところにある。何か、離れたところを住処にしている理由があるのか聞いたが、老い先短い老人の気まぐれ、と言っていた。

 それが真実かどうかはともかく、ジヴェルさんは里の人たちからは少しだけ浮いているように見える。それは、嫌われているとかではなく……哀れむような感じだ。


 この地に生きる人々にも、人生がある。そこに、どんな事情があるのか……部外者の俺には、あまり踏み込めないもののように思える。

 お世話になった人だ。嫌な思いはさせたくない。今までそうやって、口を開くことはなかったが……。


 しかし、その話を聞くチャンスも、本当になくなりつつある。


「明日、ここを出るんだよな……」

「うん……」


 二人とも、白い息を吐く。

 その霧が消えた先に、茜色の太陽を見つけ、より一層感傷に浸る。


 明日、ここを出る。

 俺は、ここにかなり長く居た。約二ヶ月。この地の文化やマナー、それらを学ばせてもらい、理解できるようになった。


 朝、広場で集まり、皆でご飯を食べる。最初は誰も話しかけてこなかったが、レイブさんとターニャさんが同席するようになり、そして周囲の人とも打ち解けていった。

 その後、霊樹に長老たちが祈りに行く。厄除やら、安全やら。それを皆、里で帰りを待つ。

 そして、長老たちが帰ってくるのを見届けて、狩りに出かける。


 そのような、独特の流れ。暮らしの端々にある、異文化の香り。それらは新鮮な経験で……純粋に楽しめた。

 違えたときは、すげえ怒られるけど。それでも、客人だから、と許してくれる。もう、客人なんかじゃないのに。ここで暮らす一員だと言うのに。


 経験から学び、そしてそれを日常へと昇華した。後は実践して、恩返しに努める……これからだというのに、別れはやってくる。


 厳冬期が、終わるのだ。

 ここ、霊峰ノーエルに存在する雪の精霊たちは、冬に去ってしまう親精霊に悲しみ、涙する。その涙が吹雪となり、山に吹き荒れる。

 それが、厳冬期。山に生息する動物たちも、そのサイクルに従って冬眠する。


 俺は、宣言している。厳冬期が終わったとき、山を降りると。

 別に、いまさらこの地に残るなんていうつもりはない。思考は、ここを去るという選択を押している。


 だが、感情は……少し、悲しい。


「……」

「……」


 夕景に二人が入っている、この一分一秒を静寂で。

 少年は、思い出に刻んだ。



______



「少し、遅刻ですかな」


 その老人は、修練場の真ん中に立っていた。

 後光が差し、彼の表情は見えない。だが、その鋭い目が、俺を射抜いている……そう感じる。


 彼は普段、あんなところで突っ立って待つことなどしない。

 ……全身から出ているが、凄まじい。彼は今、剣を握っているときのように研ぎ澄まされている。


 背後に、赤黒い鬼を幻視する。まるで、戦場に立ち、全てを平伏した後、血に塗れ屍の上に立つ何者か。それは、この老人の今までの人生、その全てを表しているようだった。


「……ジヴェルさん」

「あ、こんにちは……こんばんわ? えへへ、ジヴェルさん、とにかくやっほー」

「ほほほ。陽がまだ見えます故、こんにちはですかな」

「そっか……その…………えっと、私、端っこに居ますね」

 ぴりぴりとした空気を感じたのか、ことりは自主的に修練場の端へと向かった。


 それを見届け終わって、ジヴェルさんに、なぜそこまで奮起しているのか聞こうと、口を開こうとしたそのとき。


 ――――ブォン


 正面から、凄まじい風圧が吹き荒れた。

 見ると、その老人は陽光に反射する剣を持っていた。それを振りかぶった姿勢で、俺を見つめている。



「――――真剣です。ラード殿、こちらへ」

「……」

 腰に、自分の剣があるのを確認する。大丈夫。ちゃんとあるさ。


 そして、両者は修練場に立った。


「私は、真剣による立会いを所望します」

「……同意、します」


 なぜ、こんなことを。そんな口を挟む暇すらなく、粛々と戦いの場が整っていく。


 俺はもう、思考するのはやめた。自身の中のスイッチを、切り替える。腰の剣を抜く。陽光すらも飲み込むような、黒い刀身が露になる。


 それを、構えた。


 そして、鬼を纏う老人が、口を動かした。


「――――いざ、尋常に」


 開戦。


「……勝負ッ!!」


 老人が、その場から消える。


 瞬間、左上。視界の端に剣光。老人は、剣を振りかぶっていた。両手で、全身のバネを使った、まるで獣のような動き。

 それは、今までの印象とはかけ離れた動作だった。高潔さを抜いた、泥臭く力強い剣。


 右手の剣で受ける。スローモーション。剣が、ぶつかる。

 そのとき、一瞬だけ剣を握る手を、緩めた。


 ――――ギィン


 剣戟が鳴る。凄まじい衝撃が、手に伝わってくる。

 握る手を緩めたことによって衝撃を緩和できたが、剣が下方向に弾かれた。


 老人は、空中で身を捻ると、もう一度同じ方向から剣を振るった。


「ずああああああッ!!」


 凄まじいほどの、怒号。勢い、力強さ。


「――ッ!」


 剣を振るえる状態ではない。上体を反らして、剣を回避する。

 揺れる髪先を、容赦なく切断していく剣の閃き。


 本気だ。今、避けなければ殺されていた。

 上体を反らしたまま、左腕を突き出す。老人は、空中で無防備だ。このまま行けば、横っ腹に拳が突き刺さる。


「ぬんッ!!」


 老人は更にその場で回転し、俺の拳を肩で受けて反らした。


 あり得ない。空中で、こんな機動、できるわけない。

 しかし、目の前で実際に起こっている。疑問など、戦いに不要だ。瞬時に疑問を捨て、次の手を考える。


 上体を反らした影響で、地面に倒れそうになっている。このままだと、老人に上をとられ、体を拘束されてしまう。


 咄嗟に、右手の剣を握った拳を地面に突ける。

 そして、それを軸に足を右方向へずらす。


 水平に、体が回転する。その途中で、老人の左足を狙って蹴りを入れる。


「くぁっ!?」


 一か八かの蹴りは命中した。空中で足を蹴られ、体勢が右回転となり、崩れる老人。


 俺は回転の勢いのままに、右方向へ体を転がして立ち上がる。

 老人は、体勢を崩した影響で、受身が取れずに落下するだろう……と思っていた。


「かぁーーッ!!」


 老人の右肩が地面に触れると同時に、凄まじい勢いで右肘を地面へとたたきつけた。

 地面が爆発し、その運動エネルギーは老人へと反発して、老人は力の勢いに任せて飛んだ。


 その先は、俺。まるで、ボールが跳ねるような急な挙動に、準備ができていない。

 迫ってくる老人は、剣を振りかぶっている。敵への執着、気転の利かせ方、体のコントロール、全てが高次元。


 狙いは、足だ。剣で防げるが、手を逆さにして防ぐことになるので、力が入らなくなってしまう。そのまま剣は弾かれて、更に手が骨折する可能性がある。


 瞬時に判断し、上へ跳ぶ。


 砂が舞う。自分の足があったところを、横一文字。次いで、老人が高速で飛んでいく。


 着地して、背後を振り返ったそのとき。

 もう既に、再度老人は斬りかかって来ていた。


 ――――永遠だ。


 このまま老人を矢のように動き回らせていると、そのうち速度についていけなくなる。

 そう判断し、剣を両手で持つ。


「「ハァッ!!」」


 お互いの剣が、ぶつかり合う。

 中央で、弾かれたように剣が飛び退る。しかし、もう既に次の斬り合いは始まっている。


 右。上。左。右下。左下。右。上。左。左に見せかけた左下。


 火花が散る。剣戟が鳴る。腕が悲鳴を上げる。その度に、速度は増していく。


「「ああああああッッ!!!」」


 相手の顔は、目と鼻の先。なのに、間の空間は、悠遠を思わせるほどに、開いている。

 技の壁を感じる。相手は、剣の振り、力の方向、弾かれたことすら利用し、より強い斬撃へと昇華していく。


 ――――だけど。だけど、この斬り合いの間にも、自分の力が、限界を超えて発揮されている。


 下。右。上。左。右下。右上。左。上。上。左下。左上。


 耳に響く剣戟。それの、斬撃ごとの区別がつかなくなる。

 とてつもない速さ。この斬り合いに、腕がみしみしと鳴る。一撃一撃の衝撃の重さが、全力でないと防げない。


 全身の力を振るっている。思わず、笑みを浮かべる。俺は今、俺史上で一番強い。


 実際には、数瞬の斬り合い。しかし、脳が覚醒し、思考が加速している今、これは無限にも思えた。



 ――――だが、相手は、剣を持ち続けた存在だ。


「……ッ!」

「ハアアアアアアッッ!!」


 あまりの手数に、押し潰されそうになる。

 必死に、必死に。抗い続ける。剣を振るい続ける。


 だが、打ち止めになった。もう、これ以上の速度、力は、出せない。


「かあああああッ!!」


 老人は、なおも加速していく。


 均衡が崩れる。そして、綻びは生まれるのだ。


 ――――ガキィン


 それは、剣同士が勢いよくぶつかるときの音ではなかった。



「――――ぁ」


 手元から、剣が弾き飛ばされた。握りこぶしじゃなくなった右手は、感覚がないほどに痺れている。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。


 なぜなら、目の前に剣の閃きが迫っているのだから。赤黒い鬼が、その拳を振り下ろしているのだから。



(死ぬ)


 そう思ったときに、気づいた。



 ――――まだ死んでもいないのに、諦めるのか?



「――――ぁぁあああああッッ!!」


 左上、迫りくる刀身に向かって、左腕を当てに行く。


 急所を斬られるぐらいなら、左腕一本、くれてやる。


 そして、痛みを覚悟し、相手を見たとき。



 ――――老人は、優しい目でこちらを見ていた。


 痛みは、来なかった。何も、来なかった。

 やけにうるさい心臓の鼓動だけが、響いている。


 正面の老人は、剣を手元へ抑えていく。


 それが鞘に収まるのを、見届けた。


「――終わりです。お見事」

「…………ぁ、ああ…………はぁぁぁあああ~~……」


 全身の力が一気に抜ける。瞬時に活発化した体の機能たちが、一気に休まっていくのを感じる。

 新鮮な空気を取り込んで、筋肉やら、体の緊張を解していく。


 気がつくと、全身に嫌な汗をかいていた。体が冷える。


「……ジヴェルさん。なんですかこれは」

「いや、はっはっは! 急で申し訳ありません。ラード殿がもうすぐここを発たれるということを耳に挟みまして。ですが、私はもてなすというのがどうにも不得手で。ならいっそ、剣で語ることを手向けとしようかと」

「何を語ったんですか……俺、マジで死ぬと思いましたよ。めっちゃ怖かったです」

「――――お二人さ~~ん!!」


 溌剌とした声が聞こえてくる。

 見ると、ことりが髪を揺らしながら、走ってきていた。両手にそれぞれ、タオルを持っている。


「っとと……ふぃ~。はい、タオル。ジヴェルさんも」

「お、おお。さんきゅ」

「ありがとうございます。ことり殿」

 受け取り、とりあえず顔の汗を拭いていく。

 恐らく、短い時間の戦いだっただろう。それなのに、やたら濃密だった。気分的には、三時間ぐらいやりあってたな……。


「いやいや。二人とも、お疲れ様。いつになく真剣だったね」

「ていうか、正しく真剣だったな……」

「うわ、まじつまんない。変なダジャレ言わないでよ。余計寒くなるじゃん」

「ほほほ……」

 酷い。俺はただ事実を言っただけなのに。この場合、ダジャレと捉えたことりのほうに責任があるんじゃないですかね。どうですか?


 ……まあ、戯言は置いといて。


「ジヴェルさん。俺、少しはジヴェルさんのこと満足させれましたかね」

「……」


 そう聞くと、ジヴェルさんは下を向いて黙り込んでしまった。

 あれ、全然だめって感じか? 結構頑張ってたと思うけど、ショック。


 まあ、ジヴェルさんの本気の10分の3ぐらいしか引き出せてなさそうだ。いや、もっと低いか……?


 そう思っていると、ジヴェルさんが顔を上げた。

 その顔は、喜びの笑み。戦いに生きる者が、強者を見つけたときの、挑戦的で、なおかつ嬉しさが混じったときの笑みだった。



「――――久しぶりに、血沸きましたぞ」


 血沸いた。圧倒的な格上。加えて、お世辞など一切言わないジヴェルさんが、そう言ったのだ。

 それを理解して、途端、顔がにやける。


「……やべえ、めっちゃ嬉しい」

「わあ。お兄ちゃん、よかったね。最高のほめ言葉だよ」

「ほほほ。二人とも、冷えたでしょう。一度中に入りましょう。温かいお茶を入れますぞ」

「お、嬉しいな~! ありがとう、ジヴェルさん!」

「ほほほ……お口に合えばよいですが」

「……オレメチャウレシイ」

「お兄ちゃん。機械になってないで、ほら行くよ!」

「オレメチャウレシイ」

「だめだこりゃ」



 こうして、三人は小屋に消えた。

 少年は、手に宿った確かな力を実感していた。

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