side:Characters

ことりホープレス


 ※『別れ』まで物語を読んでから見ることをお勧めします。



______



 校舎裏。夕陽が世界を照らしているけれど、そこは暗く。

 その影の中に、二人の男女。金髪で、ピアスなどのアクセサリーをした男の子と、黒髪でポニーテールの清楚な少女。


 二人は向き合っていた。男は余裕そうに、少女は少しだけ暗い顔をしていた。


名々めめい。俺と付き合えよ」


 その男の子は、軽薄そうな笑みを浮かべながら、言った。

 少女は、それを聞いて更に暗い顔をした。


 少女は、ある程度このことを予想していた。彼に放課後、校舎裏でと呼び出された時点で、気分は鬱蒼としていた。だが、今それは確信に変わった。


 しかし、彼がそうする理由は周りにある。


 彼は、顔立ちが整っていた。毎日、男女関係なく人に囲まれ、学校内でも知らない人がいないほど有名になっていった。

 やがて、女子生徒に手を出し、アクセサリーなどを身につけるようになり、校則で禁止されている髪染めをした。


 学校側は、それを見ていながら、黙認していた。


 しかし、それにも理由がある。


 彼の父親は県議会の副議長。地方において絶大な権力を持つポストにいる男。学校はそれを知っていたし、その父親が直々に学校に来ることも多かった。


 その際、副議長は金一封と一緒に、こう言うのだ。



 それがどういったことを意味するのか、分からない学校ではない。


 ……彼が学校で幅を利かせる理由は、至るところに転がっているのだ。


 そして、彼の意思に逆らった女子生徒はいない。顔立ちは整っており、夜の遊びにも誘ってくれる彼のことを、本気で嫌う生徒はいなかった。


 中学二年生、夏。『大人』というものに憧れと劣等感を抱く、思春期の少年少女。


 好き勝手暴れることが青春だと疑わない彼らは、あらゆる初めての経験を、我が物としていた。それは、飲酒であったり、性交渉であったりするかもしれない。中には、軽犯罪に手を染める者もいるかもしれない。


 それに、彼は該当していた。


「なあ? どうなんだ? この俺がわざわざ告白してやってるんだぞ。ハイと答えることぐらいできるだろ」

「……」


 彼は確信していた。この女も、首を縦に振り、自分の物になると。

 今までの女はそうしてきた。中には、最初は嫌そうにする奴もいたが、クラブに誘ったりしているうちに、皆楽しみ始める。そして、男女入り乱れる。


 飛び交う嬌声、怒声。ダンスホールを照らす妖しい光が、彼らの所業を見せてくれる。


(その下劣な奴らのことを、上から見下すのが、たまらなく気持ちいい)


 彼はもう、その少女が自分の物になったと確信していた。この女も、自分の手によって乱れ狂うのだと。


 そして、その手を少女に伸ばす。肩に触れようとする。



 そのときだった。


 ――――バシッ


「は……?」

「触らないでっ!」


 少女の手が少年の手を払った。下げていた顔を上げ、少年を見据える。暗い影に輝く、宝石のような瞳。


「私、あなたのこと好きじゃないから!」

「は、はあ?」


 少女は、少年を横切ってその場を去ろうとする。

 その少女の手を、少年は無理やりとった。そして強く握り締めて、言う。


「おい、冗談だろ?」

「……っ! やめて!」

「ふざけんな!」


 少女の手を引っ張って、無理やり抱こうとする少年。


 ――――パシン


 鳴り響く、肉を打つ音。


 少女の手は挙がっており、少年は虚をつかれたように横を向いていた。


 手が、離れる。


「あ……」

「……おい。お前、今俺の顔を叩いたのか? なあ、お前」

「……っ!」


 少女は身を翻して、駆け出した。夕陽に消える少女の後ろ姿に向かって、少年は怒りの声を上げる。


「――おいッ!! お前、絶対後悔させてやるからな!!」


 少女の目には涙が溜まっていた。その涙が、夕陽に輝いていた。



 翌日から、少女の地獄は始まった。


 下駄箱の上履きが、ない。

 しかし、少女は予想していたので、替えの上履きを持参していた。


 教室に行くと、いつもは挨拶をしてくれるクラスメイトたちが、遠巻きにひそひそと、こちらを見ながら何かを話していた。


「……」

 しかし、少女は予想していたことだったので、何も言わずに自分の机に向かった。

 窓際、一番後ろ。席替えのときは、当たりの席を引いたと喜んだものだ。


 机を見ると、黒いペンでたくさん落書きされていた。

 キモイ、とか。死ね、とか。調子乗るな、とか。御堂君泣かしたから次はお前の番、とか。


 自業自得だ、とか。


 何がだ。少女はそう思った。

 しかし、これも予想していたことだったので、黙して机に座る。


 机の中を見ると、教科書が全てぐしゃぐしゃにされていた。友達と一緒に表紙に落書きをした英語の教科書が、一番ズタボロになっていた。


「……これはちょっと予想外だったな……」

 少女は呟くように言う。その声は震えていた。


 こんなことになるなら、教科書とか全て持って帰るべきだった。

 少女は少しの後悔をしながら、リュックから時間割のプリントを出そうとする。


 そのとき、少女のリュックに足が突き刺さる。そして、その勢いのまま蹴りだされ、窓のガラスに向かって飛び、地面に落ちた。


 少女は右に立つ人物を見上げる。

 そこに立っていたのは、お調子者の男の子。普段、笑いの中心にいる男子だ。授業中の笑い声は、彼が生み出す。少女は状況を忘れて、冷静にそう思った。


「あ、ごめーん。ついつい蹴っちゃった」

「……いいよ。気にしてないから」

「あ、そう? じゃあ、もう一回やってもいいっしょ」


 そう言って、壁際に落ちたリュックを蹴る。蹴る。蹴る。ひたすら壁に向かって、リュックを蹴る。彼が蹴るたびに、リュックに上履きの跡が残る。砂が付く。

 少女は、それを黙ってみることしかできなかった。リュックが蹴られるたびに、自分が傷つけられている感覚がした。


 彼が蹴っている間、周りのクラスメイトの笑い声が響いていた。

 やっぱり、彼は笑いの中心だ。少女はそう思った。


 やがて、リュックに対しての暴力は止んだ。そして、彼がそのリュックを摘んで持ち上げる。そして、少女に振り返り、言う。


「いやーこれ蹴り心地いいわ! なあ、サッカーのボールにしていい?」

「え……っと……」

「オーケー? おい皆! 休み時間、これでサッカーしようぜ!」

「あはははははっ! 五木、やっぱ最高だわ! いいねいいね!」


 そして、彼はリュックを持って移動する。

 クラスの後ろにある、遊び道具が入った箱。サッカーボールやらが入ったそこに、リュックを放り込んだ。


 リュックの中の筆記用具などが、揺れて音を立てた。


「……」

「いやーやばくね? なんか急にボールが増えたんだけど」

「五木、センスありすぎ!! マジで腹筋痛いわー!」


 手持ち無沙汰になった少女は、何をすればいいのか分からなかった。

 泣けばいいのだろうか。謝ればいいのだろうか。そしたら、許してもらえるだろうか。許す……?


 私、何から許されなきゃいけないんだろう。



 そのとき、少女の中の感情が切れる。今にも泣きそうな感情の動きが、ピタリと止まった。心の中から、闇が体内に蔓延する。


 少女の目から輝きが消える。それはまるで、自分で自分を殺したようで。


 無言を貫く少女とは対照的に、楽しそうなクラスメイトたち。


 その空間に、笑い声だけが満ちていた。



______



「……ただいま」

「……」


 少女の声が室内に響く。けれど、リビングにいる少年は返事をしない。

 少年は、机に向かってペンを動かしていた。


 少女は、兄が自室だと勉強が捗らないからとリビングでやっているのを知っている。


「……」

 返事が来ないのは、集中しているからだ。たまに、返してくれるから。

 けれど、少女は思う。彼もまた、私のことを嫌っているのかもしれないと。


 今日、学校で起きたことが頭の中で再燃する。蹴られて倒された机、グシャグシャになった弁当箱。薄ら笑う人たち。その光景が、フラッシュバックする。


「……」

 階段を上る。その足に、やけに力が入る。音が鳴る。


 階段に、涙が落ちた。


「……? ことりか」

 少年は、音が鳴った階段を見て、その理由を察して、勉強に戻った。


 そのとき、少年の目に少女の涙が映っていたら、きっとそれだけで、結末は変わっただろうに。あんなことには、ならなかっただろうに。



______



 三ヵ月後。


 その日は、雨だった。全てを塗り替えるような、冷えた雨。


「……」


 その町は雨により色を変えた。全てが沈んでしまうような、灰色と透明の世界を、少女は見下ろしていた。


 雑居ビル、屋上。風と雨が吹き荒れるその場所に、少女は佇んでいた。


 制服。ポニーテール。少女のトレンドマーク。元気であるという象徴。


 少女は、その髪を纏めているゴムを解いて、肩まで降りるその黒髪を、雨にさらした。


 少しずつ、少しずつ、歩いていく。その足は、何も履いておらず、裸足だった。


 屋上の扉、その隅に置かれた女の子物のスニーカーと、その中に入った紙切れ。その紙切れには、『ごめんなさい』と書かれていた。


「……」


 ひた、ひた。白く細い足が、これまでの全てを振り返っているように、一歩一歩を重く踏みしめる。


 ひた、ひた。塀に手を伸ばす。力を入れて、その上に立ち、すぐに正面に下りる。


 ひた、ひた。縁に立つ。目の前は、淵。見上げていた空に近い場所。けれど、空はまだ上に広がっている。


 でも、十分。


「……」


 少女は、空を見上げた。

 曇った空の下。晴れ舞台とは言えないな。どこか現実離れした思考を少女はしていた。


 けれど、今から自分がすることが、現実のことだとは思えないから、それはそれでいいや。少女は自嘲気味に笑った。


「……」


 少女は、ゆっくりと体を前に倒す。



 そして、目を閉じた。



______



「――――ぁぁ?」


 少年は、少女から呼ばれていた。スマホに連絡があったのだ。

 内容は、ここの雑居ビルに来て欲しい、と。その一言だけだったので、異常事態だと察知して、少年は急いで駆けつけたのだ。


 しかし、急いでいた少年の足は、止まった。雑居ビルの下、手に持った傘を落としながら、少年はその場で動かない。


「――――」


 少年の双眸が揺れ動く。


 その視線の先には、飛び散った赤い液体と、肉片。


 その中に埋もれている、女の子用の制服。


「ぁぁ……あぁああぁああああぁあぁああ」


 声にならない声を上げる。少年は、物分りが良かった。状況を判断するのが、常に早かった。しかし、このときだけは、その才能が怨めしかった。


 何故なら、この人の原型をとどめていない、スーパーにでも売ってそうな、この雨水に沈む肉塊の正体を、瞬時に理解してしまったのだから。


「あああああああああああ!?」


 少年の足の力が抜け、前に倒れる。手足を無理やり動かして、そこに近づく。

 動くたびに、地面に溜まった赤色が混ざった雨水が揺れ動く。少年は服が汚れていることにも気づかず、夢中で近づいた。


「お、お、おい。おい。おい。おい。おい」


 声が震える。上擦って、仕方がない。手を伸ばして、制服に触れる。その中に感じる、肉と骨の硬い感触。しかし、ない。頭が、ない。


「う、ぉおぉ……ああ。ああああ」


 黒い髪が雨水に浸って、伸びている。滲んでいる。綺麗だった美しい髪が、今はこんなにも無惨で、無慈悲で、汚れていて、不気味だ。


「なん、なん……何でっ……こんな、こんな……!」


 少年は、瞬時に思い出を振り返る。けれど、どこにも、そのような気配はなかった。いつも、普通に笑い、普通に悲しんでいた。元気そうにしていた。


 あの少女のどこに、これほどの闇が潜んでいたのか。いや、きっと、ヒントはどこにでもあったのだ。アピールはされていたのだ。少年は、それをすぐに理解し、そして後悔する。


 しかし、遅いのだ。全てが遅かった。気づくのも、後悔するのも。あの少女の笑顔がどこかぎこちなかったことに今更気づいたところで、もう手遅れでしかなかった。


 なぜなら、今少年の前に転がっているのは、飛び散っているのは、ただの肉片なのだから。もう、生きていないのだから。


「――――」


 無常。無情。


 少年は、警察がその場に到着するまで、ずっと動かずに震えていた。



______



「そら、来なさい。ちゃんとことりに顔を見せるのよ」

「……」


 少年は、暗い自室で、背後の扉越しに聞こえてくる母親の声を聞いて、奥歯を噛み締めた。


「悲しいのは分かる。ママも本当に悲しい……でも、それは皆同じでしょう? ほら、出てきなさい!」

「……」

「――いい加減にして!! もう、嫌!! なんで私がこんなことしなきゃいけないの!! なんでことりが死ぬの!! ソラも、こんなときに勝手なことしないでよっ!!」

「……」


 少年は、母親のヒステリーを、どこか冷めた感情を持って、聞いていた。

 ああ、勝手な人だ。勝手に悲しみ、勝手に他人にもそれを共有して、押し付ける。


 母は、こんなにもくだらない人だったのか。こんなにもしょうもない、浅い人間だったのか。


 そのとき、少年の耳に少しだけしわがれた声が届く。


「……母さん。やめなさい」

「うるさい!! あなたが、あなたがもう少しことりを見ていれば!! こんなことにならなかったのに!!」

「……すまない。母さん、先に車に行っていてくれないか? 染楽そらくと話したいんだ」

「……みんな、みんな!! 勝手なことばっか言って!! 私がどれだけ頑張って!! ことりが、ことりが!!」

「誠子ちゃん。落ち着いて」


 次いで、女性の声。どれもこれも、聞きなれた声だ。どいつもこいつも、俺と、同罪のくそ野郎共。


「お、お母さん……」

「皆、辛いのよ。こういうときだからこそ、母親はしっかりしないといけないの」

「清子さん。妻を頼みます」

「任せてくださいな。ほら、誠子ちゃん、車に行こう……」

「うぅ……うぁぁぁあああ……」


 声が遠ざかる。

 くだらない人間と、そいつを生み出したババアが消えたのだろう。少年はそう思った。


 そして、扉越しに聞こえてくる父の声を、待った。聞きたくもない、戯言を言うであろうそれを、少年は冷めた目で自室の虚空を見つめながら待った。


「……染楽。聞いてるよな」

「……」

「お通夜、行かないのか? もしかして、葬式とかも、出ないつもりか?」

「……」

「お前の数珠も買ったんだ」

「……」

「ことりは、お前に会いたがってるよ」

「……おい」

「な? 一度だけでも、顔を見せに行こう」

「――おいッ!!」


 少年は、耐え切れず叫ぶ。扉越しの声が、そこで止まる。もう、聞きたくもない。何も言いたくない。けれど、ここで何か言わないと、またゴミが喋りだす。だから、何かを言わないといけない。


 少年は、きつく閉じたその口を開け、言う。


「俺は、行かない。残った奴が勝手に悲しんだり、後悔したり。もうあいつにはできない事をやるのを黙ってみてることができない。もし俺を連れて行くってんなら、あんたら全員今すぐ俺がぶっ殺してやる」

「……」

「クソが。俺に喋らせやがって。畜生共はわいわい経済まわす為に騒いで来い。二度と俺に口聞くな。もうあんたらのことは親とは思わない」

「……染楽。言い訳に聞こえるかもしれないが、大人はこういうときには、やらなきゃいけないことがあるんだ」

「知るかよ。大人大人って、そんなの全員死んじまえよ。全員……さっさと死ね。なあ、今すぐどっか行ってくれよ。じゃないと、あんたのことを殺したくて仕方ないんだ」

「……染楽。ごめんな」

「……ッ! 行けってんだよッ!!」


 少年は扉を全力で殴りつける。凄まじい音が鳴り、扉がへこむ。少年の手に、ずきずきと痛みが滲んだ。

 けれど、少年は苦しくなかった。もっと苦しい思いをしたであろう少女のことを思うと、何もかもがどうでもよくなってしまう。


 しかし、その思考すらもおこがましいものだと考える。少女に関すること全部を、シャットアウトしたかった。


 その為に、何度も扉に拳を当て続ける。痛みが増して、骨が割れるような感覚と、皮膚から滲み出る血を見て、少しだけ、少女のことを忘れられる気がした。


 殴るのを止めたとき、扉越しに声が聞こえてきた。


「……父さん、行くな」

「――――」


 まだ、喋るのか。少年は声にならない怒りを感じ、今すぐにこの声の主をあらゆる手段で殺したくなった。


 だが、ようやく遠ざかる足音が聞こえて、その怒りが少しずつ消えていく。


 家の中から、音が消える。


 ――本当は、この家にも居たくないのに。


 外から聞こえる雨音を聞きながら、少年は独り暗闇を見つめ続けた。


 この日から、少年は笑うことを忘れた。



______



「……」


 少年が家に着く。玄関に雑多に置かれた靴。

 廊下やリビング、全ての部屋が暗い。けれど、中に二人、ゴミがいることを知っている。


 少年は靴を脱いで、隅の空いている場所に丁寧に並べた。

 そして廊下に踏み出し、リビングへ向かう。


「……お、おかえりなさい……」

「……」


 ソファーから聞こえてくる震えた声を無視して、少年は行動を開始する。


 机に置かれた食器、お茶の入れ物を手にとって、台所に運ぶ。次いで、お酒の缶を持って、缶のゴミ箱に入れる。そのときに、液体洗剤で洗っておいた雑巾を手に取る。

 それで、食べかすが飛び散った机を拭く。色の付いたご飯粒。冷凍の炒飯だ。まあ、ゴミ共が何を食おうが俺には関係ない。


 雑巾を台所に持っていき、水でささっと洗う。絞って隅に置いたら、スポンジを手に取る。洗剤をつけて、運んでおいた食器やお茶の容器を洗っていく。


「あ……で、電気……点け……」

「……」


 聞こえてくる雑音を無視して、洗い物を続ける。

 やがて、全ての洗い物を終えて、水切り籠に食器を入れた。


 近くのタオルで手を拭く。あまり水分が取れなかったので近づいて匂いを嗅ぐと、生臭かったので、それを手に取る。


「……あ、ありがとうね……」

「……」


 リビングの扉は、ソファーが近いからイライラする。少年はそう思った。


 リビングの扉を開けて、風呂場へ向かう。扉を開けて、手に持った汚れたタオルを洗濯機の中に放り、洗面台で、手を洗う。

 そして、洗濯機に洗剤などを入れて、スイッチを押す。ゴウンゴウンと豪快な音を立てて、洗濯機は稼動を開始する。


 それを見届けて、洗面台の上に置かれたタオルを一枚取って、台所へ戻る。


「……」

「……」


 このゴミはテレビも点けずに何をしてるんだ。少年は母を一瞥して、そう思った。


 少年は、手に持った新しいタオルを台所の横の壁に掛けた。

 そして振り返り、炊飯器の蓋を開ける。中から内釜を取り出す。米もこびりついていない、何もない状態。


 その炊飯器の机の下、空いてるスペースに置かれたお米の袋を引っ張り出し、中に手を突っ込む。


 袋の中に入れてあった計量カップを手にして、内釜に3回、お米を入れた。


 お米の袋を雑に奥にしまって、内釜を台所に置く。

 蛇口から水を出しながら、お米を研いでいく。冷たい冬の水が、心地よかった。


「……」

「……」


 リビングに流れる、水と、それを切る音。それ以外は一切物音がしない、静かな空間。それは、良い空気とは言えないものだった。しかし、少年はそれでよかった。


 やがて、少年はお米を研ぎ終わった。三合と書かれた線に水を合わせて、内釜を炊飯器の中に入れて、炊飯のスイッチを入れた。


 ピーピーと機械音が鳴り、炊飯開始の合図を鳴らす。それを聞いて、少し疲れたように息を吐いて、少年は自室に向かうために、扉へ向かう。


 リビングの窓から差し込む光は、ほとんどない。冬になると、学校から帰ってくるこの時間ですら、もう夜に差し掛かるところだ。


 その暗闇に独り佇む母を、少年は一瞥して扉を開けた。


「……そら、その……学校、どうだった?」

「……」


 その声には答えず、少年はリビングを後にした。


「……」


 独り、ソファーに座る女性は、涙を流した。

 もう、何度も流した涙。あの日からどんどん離れていく家族との心の距離に、悲しみの感情を抱くことしかできない。



 そして、精神が弱い彼女は、狂うのだ。


「――あああああああああ!!」


 自身の髪を握り締め、天井に向かって叫び声をあげる。


「……」


 少年は、階段の手前で足を止めて、母の狂ったような声を聞いていた。


 そのとき、玄関が開く。

 スーツ姿に鞄を持ち、髪の毛が薄くなって、見るからにやつれた男性。なんだ、ゴミは今帰ってきたのか。少年は冷めた心で、目でその光景を見つめた。


「……おお、染楽。おかえり……っと、母さんが……!」

「……」


 その男性は、家の中から聞こえる叫び声を聞いて、焦ったような表情を浮かべる。


「おい、染楽。なんで母さんを助けてやらないんだ!」

「……」


 急いで靴を脱いでいる父の様子を、少年はどこか他人事のように見つめていた。

 やがて、興味を失って、階段を上って自室に向かっていった。


「……染楽……」

「あああああああああ私が全部悪い! 私が私が私が!」

「か、母さん!」


 暗い家に響く女性の叫び声。慰めるような男性。そして、暗闇で虚空を見つめ続ける少年。


 同じ家にいても、彼らはそれぞれが独りぼっちだった。

 たった一人、少女が繋いでいたものが、今は無くなっていた。



 そして、一年後。ある日、少年も消えた。



______



 ……暗い。暗闇にいる。それしか分からない。何があるのか、意識があるのかも、曖昧。


『……あら、可愛いお嬢さん』


 誰かがいる。暗闇……この人から出てるのかもしれない。だって、私の心と一緒だもん。


『そうね。私たちは同じ、闇を知った者だもの』


 闇。私は、何かに呑まれた。それで……死んだのに。せっかく死ねたのに。なんでまだ、こんなことが続いてるんだろう。


『生きるのは、嫌?』


 嫌だ。もう、全部嫌だ。投げ出したのに。世界を嫌いになって、憎悪して、絶望して、心を殺して、やっと自分にとどめをさせたのに。優しさを騙るゴミ平和を演じる全てを、壊したくて、壊せなくて、だから自分を壊したのに。生きたくない。死にたいとも思わない。ただ、無になりたい。


『そう……なら、私が使ってあげるわ』


 何かが流れ込んでくる。闇から、深淵が流れてくる。私の中の何かが、変わっていく。

 でも、もうどうでもいい。利用された果てに、殺してくれるなら……。


『今から、ここに貴方のお兄さんが来るわ。その子を殺せたら……私が、貴方の魂を食べてあげる』


 極上の蜜のような囁き。私の中の常識が、無理やり変えられていくような感覚。

 中で、感情が塗り変わる。グシャグシャになって、めちゃくちゃになって。


 そして、感じる。この悪魔の力を。


『うふふ……可愛いわぁ……さ、お兄さんが来るわよ。頑張ってね……』

「――はい」




 そして、目が覚めたら、家の前の桜並木。夕暮れ。手に感覚があって、隣を見たら、兄がいた。


 正面、信号が変わろうとしている。

 ここで、車が来る。そしたら、一緒に死ねる。なんだ、簡単なことだ。お兄ちゃんと一緒に――――


「――ちょっと! お兄ちゃん、大丈夫!?」

「――――は?」

 半分無意識に、声が出た。そのことに、自分でもびっくりしながら、とりあえず言葉を紡ぐ。


「信号、点滅してるよ! ほら急いで」

「お、おぉ……」

 兄の手を引っ張って、横断歩道を渡りきる。

 停車した車のクラクションが、どこか私が兄を助けたことを非難しているように聞こえた。


(なんで助けたの?)


 頭に、声が響く。それは、あの悪魔のものなのか、自分の心の声なのか、よく分からないけど。


 振り返って、呆然としている兄の顔を見る。

 ……背が高くなって、顔つきがちょっと大人びてる。でも、どこかやつれているような。


 兄の成長を感じて、そして対象的に、自殺という逃げをして、そこで止まってしまった自分自身を振り返って、なぜだか心が高ぶって、泣きたくなった。


 けれど、それを抑えて、話しかける。


「お兄ちゃん、いきなりどうしたの? 急に横断歩道の真ん中で立ち止まるとか、頭おかしいんじゃない?」

 変じゃないかな。私、こんな感じで喋ってたっけ。お兄ちゃんと話すとき、いつも元気に振舞っていたから、演技してたから、よく分からないや。


「……ことり?」

 名前。それを呼ばれたことすら、どこか懐かしいような気がして。本当に泣きたくなる。

 グッとこらえる。私が今から、この人を殺すんだ……。


(そうだよ。今すぐ、車に突き出そう)


 ……でも、もう少し、話しても。


「え、何で急に妹の名前をそんな深刻そうに呼ぶのさ。まるで、「今まで異世界に飛ばされてましたー!」って感じだよ。冗談でもきついよ。痛い人だよお兄ちゃん。本気で頭おかしいよ」

「ん……そう、だよな。お兄ちゃん今、愛する妹と買い物に向かってるんだったな」

「うわ、公衆の面前で変なこと言わないでよ。愛するとかお兄ちゃんに言われても、もう既に貰ったチラシをもう一回貰うみたいな感じだよ。一石二鳥だよ」

「それ一石二鳥とは言わなくない……?」


 ああ。兄だ。そうだ、これが、いつも兄としていた会話だ。

 私が冗談を言えば、必ず拾ってくれる。唯一、私の心の救いになってくれていたお兄ちゃん。心配をかけたくなくて、無理に振舞っていたけど、それでもお兄ちゃんとの会話はいつも心が暖まるものだった。


「何が足りないんだっけ」

 ああ、今、良い兄をやろうとしている。こういうところあるんだから。しょうがない人だな。


(早く殺そうよ)


 そう……じゃない。もう少し……。


「もぉ~お兄ちゃんの頭は何世代前の脳みそを使っているのさ! お米と、牛乳と……」

 適当に言葉を羅列して、時間を延ばす。まだ、まだこの人と話していたい。

 ああ、この人は、今話を聞いていない。そうだ、自分から聞いておいて、話を最後まで聞かない、勝手な兄だ。


「……後は液体洗剤も! って、お兄ちゃん聞いてるの!」

「ああすまん。実を言うと全く聞いてなかった。どうせ買うのはことりだしな。俺は荷物もちだし……」

 やっぱり。そうだと思った。


(なに喜んでるのさ)


 ……。


「なら聞かないでよーっ! ほんとお兄ちゃんはクソカスノロマゴミニートなんだから」

「おぅ……そんな?」

 歩き出す。夕暮れの桜並木。私が一番好きな思い出の一つだ。


「ふんふ~ん~この世界、全部私のもの~」

 思わず、鼻歌が出てしまった。私、結構浮かれてるのかも。


(殺せ殺せ殺せ殺せ)


「ことり、背伸びたなぁ……」

 適当言っちゃって。私は変わってないよ。


「ん? 成長期だからね! お兄ちゃんこそ、伸びてるじゃん。今いくつ?」

「174。でももう伸びないと思う」

 174。私が生きてたときより、3cm伸びてる。成長が、目に見える。

 目頭が熱いな。


「いいな~私もそれくらい欲しい~」

「ことりは今ぐらいがちょうどいいよ」

 お兄ちゃん。それ、私以外に言ったらセクハラだよ。


(殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ)


 ああ……。


「嫌だよ。お兄ちゃんをいつまで経っても見下ろせないじゃん。私は物理的に見下したいの!」

「強欲かつ我儘とか、完全に暴君じゃねえか……」

「ディオニス?」

「メロスなそれ。一瞬、分からないことを言うんじゃない」

「クソカスノロマゴミニートのお兄ちゃんなら分かってくれると思って……」

「それ、全然嬉しくねえから。むしろ後半の萌え妹ポイントを上回る勢いで前半の罵倒がやべえから。差し引きマイナスだから」

「私の伝えたいことが伝わってるみたいでよかった」

「罵倒は本心だった!?」


 楽しいな。お兄ちゃんとのやり取りって、こんなにも輝いてるものだっけ。


 


 ――――ガチッ


 音が鳴った。世界が、強制的に悪魔によって、変えられた。


 私の心に、闇が巣食う。あの時と同じような……闇が。


「――――?」

「どうしたのお兄ちゃん。また変な風になるのやめてよ。私が恥ずかしいから。お兄ちゃんはどうでもいいけど、私が嫌なんだからね! 勘違いしないでよね! 別にお兄ちゃんのことが心配でもなんでもないんだからね!」

「……急に方向転換してツンデレになっても、誤魔化せてないからな」

「両方本心なのっ!」

「あ、そう……」


 ああ。私が侵食されていく。きっと、こんな状況で少しの希望を抱いてしまった、私への罰なんだ。


 涙が、止まらない。私はまた、兄を悲しませるんだなぁ。


 前に躍り出て、涙を拭う。ああ、私の体は、私の魂は、もう私のものじゃない。


 振り返って、言う。


「一緒に死のうよ!」


(私の本心じゃない)


「いや、まあいいけど……」

「おお~! お兄ちゃんならそう言ってくれると思ったよ!」


(気づいて)


「まあ、ことりのお願いだしな。聞かなきゃ、お兄ちゃんの名が廃るってもんだ」

「さすが、クソカスノロマゴミニートのお兄ちゃん! ちっぽけな自尊心のために良いお兄ちゃんになろうとするところがニートっぽいね!」

「さっきから思ってたけど、俺別にニートじゃないよね? そこ分かってるよね?」

「もちろん。でもクソカスノロマゴミだと語感悪くない?」

「語感と俺の名誉を天秤にかけたら語感が選ばれるのか……」


 目の前に、横断歩道がある。車がギュンギュン飛び交っている。


「……あれ、ここってこんなに車が通るところだったっけ」

「何言ってるのお兄ちゃん! まずは死んで、そっからでしょ! むしろ都合いいじゃん!」


(死なないで)


「いや、そうなんだけどさ……」

「へぇ~? びびってるんだ。妹の前なのにびびっちゃってる?」

「……」


 ……私は、結局、生きたかったのかもしれない。

 でも、もう遅いかな。お兄ちゃんも巻き込んで、地獄に行くのかな。


 ああ、でも、あの悪魔が食べてくれるんだっけ……。なんか、嫌だなあ……。


 お兄ちゃんには、生きていて欲しかったなぁ……。



「……やっぱさ、今日はやめ――「お兄ちゃん」


 私の体。だけどもう、私のじゃない。

 兄の手をとって、横断歩道へ引っ張っていく。


 世界が曲がっている。夕陽が、縦に長くなっている。桜並木が、笑っている気がする。建物が、こちらを見つめている気がする。


「早く行こうよ」

 兄の手を引っ張って、急かす。


「怖いの?」

 振り返って、言う。


「死のうよ」

「……」

 ああ。お兄ちゃんが死んでしまう。


 お願いだから、気づいて。


 そして、兄の足が止まった。


「ことり、赤信号だよ……」

「死ぬときはいいんだよ」


 そうだね。赤信号だよ。


「なんか、おかしいんだよ」

「気にしなくていいよ」


 おかしいよね。だって、こんなの、普通じゃないよ。


「お前の手、冷たいよ」

「気のせいだよ」


 そうだよ。だって私、死んでるもん。


「この点字ブロック、平らなんだよ」

「そういうものだよ」


 おかしいよね。笑えちゃうよ。


「……スーパー、こっちじゃないよ」

「……」


 うん、知ってる。


「……なんか、もやもやするんだ」

「行くよ」


 それでも、悪魔は私の体を動かして、兄もろとも横断歩道へと身を投げ出した。



 そのときだった。


「――――危ねえ!」


 兄が腕を引っ張り、私を横断歩道から引っ張った。



 ――――ガチッ


 また、変わった。体が、動く。悪魔がどこかへ消えた。

 心の闇が、どこかへ消え去った。


 頭の上から、兄の声が聞こえる。


「……危ないよ、ことり」

「……」

「買い物、行こう」

「……うん」


 その温もりを確かめるように、その胸に抱きついた。



______



「いやーマジで重い。身長縮んでるわ」

「……」

「その内ことりに抜かれるなーこれ続けてたら。母さんはいっつもこんな重いもの持って帰ってんだな」

「……」

「……」


 なんでだろう。体の自由が戻って、いっぱい話せるはずなのに、さっきのことがあったからかな。話すことが何も思いつかないや。


 買い物の最中、買い物客の顔、なにも付いてなかったな。鼻も、口も、目も。


「ことり」

「……」

「どこに向かってるんだろうな、俺たち」

「……」


 辺りが急に暗くなってく。きっと、夜が訪れて、それが明けたとき、この世界は太陽に照らされることなく闇に沈むんだろうな。なんとなく、分かる。


 世界を変えていく。私は、話さなきゃいけないんだ。兄と。


 目を閉じて、あの日を思い出す。学校が終わって、家に帰らず、そのまま町外れの雑居ビルに向かった。

 そして、中に入って、ひたすら階段を上って……。


 目を開けると、最上階。その廊下に立っていた。


 前に進む。兄はちゃんと、付いてきてくれている。優しいな。


 扉に触れる。

 そのとき、脇に靴が置いてあった。中に、紙が入っている。『ごめんなさい』とだけ書いた、私の唯一の、残る言葉。馬鹿みたいだ。皆を気遣わせたくなくて、その一言だけを書いた。なんなら、書かなくても良かったのに。


 私がいた証なんて、全部消せばよかった。


 扉を開ける。重厚なはずの扉は、片手で簡単に開いた。


「――――さむ」

「……」

 あの日の屋上。今は夜だけど、あの日は……曇ってて、それなりに明るくて、雨が降ってて、寒くて……独りだった。


 あの場所に行きたくて、歩を進める。

 塀を登って、その上に立つ。町が見える。ここはこんなに高くはなかったけれど……でも、あの日の私には、こんな風に見えていたのかもしれない。


 夜の街明かりが、目に入る。嘘のような輝きだ。けれど、確かに私たちの町だった。現実じゃないのに、まるで現実のよう。

 夜空は綺麗だけど……でも、この世界の夜空じゃないや。


 振り返る。ポニーテールの髪が、風になびいて横に揺れる。


「こっち来てよ。お兄ちゃん」

「……」

 さっきまでの私の様子を見て、来ないかと思ったけれど、兄は迷うことなく来てくれた。

 そして、パーカーのポケットに手を入れながら、足だけで塀に登る。


「綺麗でしょ。ここ」

「……あぁ……」

 私と、お兄ちゃんが生まれ育った町……それを、二人、肩を並べて見下ろしている。

 まるで、もう私たちがあの町には戻れないみたい。それぐらいに、距離を感じちゃうな。ここ、何百mあるんだろう。雲の方が近いかもしれないや。


 塀を降りて、あの場所に行く。


 縁に、立った。大きく息を吸って、そこから足を投げ出すように座った。

 少しすると、お兄ちゃんも隣に座ってきた。


「ことり」

「……」

 ああ、分かるな。お兄ちゃんが次に、何を言うか。


 感じる。世界の崩壊を。さっきから感じていたこと。さっきから、この世界に入ろうとしてる存在がいる。そこに一番近いのが、私が飛んだこの場所だなんて、皮肉な世界だ。


「――なんで、自殺したんだ?」

「……」

 この兄は、本物で。きっと、私が死んだ後に、生き続けた存在なんだろうな。


 だから、聞きたいのかもしれない。私が、お兄ちゃんに一番にを見せたこととか……色々。


「――なんでって言われても、困るなぁ……」

 言葉が詰まる。言いたいことがありすぎて、何から言えばいいのか。

 なんで死んだのか……そんなの、一生語れないことだと思うな。


「なんでだろうね……」

 足を動かす。ぷらぷらと、膝から下が宙で揺れ動く。風を感じれて、少し気持ちいいな。

 お兄ちゃんは、少しだけ間を置いて、言った。


「お前が分かんないなら、俺も分からないな……」

「……えへへ」

「……なあ」

「なに?」

「この世界は、あの悪魔が見せている幻想みたいなもんなんだろ?」

「……」

「お前は、俺の妄想みたいなもんじゃないのか」

「……なにそれ。今は、そんなのどうでもいいよ。もう少し、このままでいいじゃん」

 本当に。もう少しだけ、このままでいれたら、私は……。

 勇気を出して、お兄ちゃんの肩に頭を預けてみる。暖かいな……。


「……俺は、死ねない」

「……うん、知ってた。絶対無理だろうなって」

 悪魔に言われてたけれど、私は無理だって……最初から、分かってたもん。


「戻らなきゃいけない」

「知ってるよ。お兄ちゃんはいつも自分の道を往くんだもん」

 お兄ちゃんを見れば分かる。気づいたら、変なコートみたいのに身を包んで、薄汚れた格好をしていた。腕に弓みたいのが付いてて、剣も持ってる。お兄ちゃんは、きっとあの悪魔と戦っていたんだ。


「……ことりに構ってる暇なんて、ない」

「……知ってる」

 あの悪魔は放置しちゃいけない奴だ。私が一番、分かる。心の闇を伝播させる。それは、きっと……誰かの心を殺してしまうから。


「どうすればいい」

「……」


 私は、どうすればいいか、分かっている。

 私が、お兄ちゃんと離れる決意をすればいいんだ。こんな偽りの安寧に甘えて、自分の欲を満たすだけの、この世界を……私の手で、壊せばいい。


 けど……何でだろうな。死んでからのほうが、お兄ちゃんに救いを求めてるや……こんなことなら、自殺する前に全部打ち明けて、それで、甘えまくればよかった。


 涙が出てくる。ずっと堪えていたものが、心から溢れてくる。

 今まで、私が殺していたもの。感情の塊。それが、ぼろぼろと溢れて止まらない。


 声を殺して泣いていると、手が伸びてきた。


「……お前はしょうがない妹だよ、ほんと」

「――――」

 目から、涙が拭き取られる。

 暖かい……暖かいな。


 ああ、そっか。単純なことだったんだな。

 私って、こうされたかったんだ。ずーっと、こう。なんで、死んでから気づいてしまうんだろう。


「……私が欲しかったもの。これなんだ」

「え?」

 お兄ちゃんの方を向く。後ろ髪がなびいているのを感じる。涙が止まらないけど、でも、もうすぐお別れだから。私はもう決意したから。


 だから、最後ぐらいは笑顔で、本心を語ろう。それが、拙いものでも。


 涙は出ても、嗚咽はない。息を、吸う。


「私は誰かに期待されたかったわけじゃない。恨まれたかったわけじゃない。嫌われたかったわけじゃない。人よりちょっと勉強ができるぐらいで、褒められたかったわけじゃない。人よりちょっと異質だからって、馬鹿にされたかったわけじゃない。気遣われたかったわけじゃない。殺したくもなかった。殺されたくもなかった」

「……」

「私の思いの欠片も知らずに、「辛かったよね、分かるよ」なんて分かったようなことを言って欲しいわけじゃなかった。救いも求めてない。絶望も求めてない。ただ、普通でいたかった……私は」


 私は。



「――優しくされたかった」



 言い終わって、また、情動。涙が溢れて、もう拭くことすらも面倒だ。


 涙が、夜の町に降って消えていく。それを見ることもせず、網膜に兄の姿を焼き付ける。

 これが、最後だから。


 私はもう、この世界に終わりを告げるから。


「……」


 ねえ、本当に。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 迷うような表情をする兄を、見る。きっと、全てを疑っている。偏屈で、意固地な兄だから、しょうがない。でも、私は全てを伝えた。


 もう、満足だ。


 終わろう。


 ――――ガチッ


 世界が、終わりの音を奏でる。

 この世界に入ろうとしていた存在が、ついに現れる。


 空間が割れて、暗い穴が広がる。その中から、純白の精霊が現れた。

 この子が、ずっと入ろうとしてた……お兄ちゃんの、仲間。


『ソラク! こっち!』

「リーフ!?」


 私はそれを見て、立ち上がる。そして、兄の背後に回った。


「な、なんでここに――」


 喋っている途中の兄の背中を、両手で優しく押し出す。

 兄の足はこの雑居ビルの屋上を離れ、宙に浮く。けれど、落ちることはなく、空間の穴に吸い込まれていく。


「え……」


 吸い寄せられながら、こちらを向く兄。その表情は、驚きに染まっていたけれど、でも、いい。


 手の震えが止まらない。だから、背中で両手を組んで、隠して……笑顔。笑顔で、言うんだ。お別れだから。


「――ばいばい、お兄ちゃん」

「……ああ、さよならだな」


 ……。手、振ろう。いつも、そうしていたから。


 右手を出して、胸の前で手を振る。震えが止まらないけど、しっかり振れてるかな。


 最後に、応援しよう。


「あの悪魔に、絶対勝ってね」

「――!!」


 私の言葉を聞いて、兄の顔が驚き、戸惑い、そして後悔……色々な表情に染まり、涙を流し始めた。


「――――ことり! 俺は、俺は! お前に何も言いたくなかった! 死んだ奴に何言っても、全部無意味だって!! そう思って!!」

「……うん」

 お兄ちゃんがそういう人だから、私は、私は……お兄ちゃんに、最後の最後で頼っちゃった。私を最初に見つけてくれるよう、言ってしまった。


「なあ!! 俺はお前に何かしてやれてたか!!」

「たくさん貰ったよ」

 小さい頃からずっと、憧れの兄だった。かっこよかった。ずっと優しかった。


「なんて言えばいいか、分かんねえよ!! どうして急に、現れんだよ!!」

「私、も、知ら、ないよ」

 最後は笑顔でと決めていたのに、涙が出てくる。呼吸が乱れる。

 夜の町が、輝きを増している。もうすぐ、消失するんだ。


 ああ、ああ。これで、ここで、終わりなんだ。私がしてしまったことの、大きさが、今分かってしまう。私は、私は。どれだけの人を傷つけてしまったんだろう。私自身が、心の痛みを一番に分かっていたのに。


「なあ! 俺、本当に!! ごめんっていうかさ!! 本当、一生後悔してるんだ!!」

「知っ、てるぅ……」

 そういう人だもん。だから、好きなんだ。


「なんで、もう! 時間がねえよ! 早く言えよ! 本当は、もっとお前と話したかったよ!! ああ!! くそ!!」

「えへへ……私、わが、ままだから……」

 勝手だな。私。


 空間の穴が閉じていく。兄がどんどん、遠くなっていく。

 町の明かりが増すのと同時に、夜空が降ってきている。触れ合ったとき、私は消える。この世界は消える。


「おい!!」


 そのときだ。兄が、空間の穴から手をこちらに突き出した。

 もう、顔もよく見えない。けれど、声は聞こえる。


「――来い!!」

「え――――」

 来い。そんなこと……許されない。私は、私は……。


「時間がねえなら!! 俺と生きろ!!」

「で、でも、わた、し、死んでる、し……」

 口がうまく動かない。もっと、喋りたい。お兄ちゃんと、話したいよ。


「生きるぞ!!」

「――――」

 その声を聞いて、私は飛び出した。


 同じ場所だ。私が自殺した、この場所から、また飛ぶ。


 死んだ場所から、今度は生きるために、飛ぶんだ。


 二回目のそれは、背中を押されたように軽くて……。


 手を伸ばして、兄の手を掴む。その瞬間、強引に引っ張られて、空間の穴に入り込む。


『ソラク!』



 精霊の声と、確かな兄の暖かさを感じながら、私は意識を落とした。



______



 暗い。私の意識の底は、いつも暗い。

 巣食っていた闇はもういないけど、それでも、常闇は広がっている。


 そのとき、上から光が舞い降りてきた。

 そして、暗いここを、明るく照らしていく。


『え……』


 まだ。まだまだ。光の粒たちはどんどん上から舞い降りてくる。

 そして、私の体に纏わり付いた。


『わわ……』


 光の粒に持ち上げられて、私は――――




「――――ぅ……んん……?」

「――ことり!!」

「……ぇえ? あれ、何で? どうしてお兄ちゃんが見えるの? な、なんでぇ……」




 こうして、一度希望を捨て、絶望を見た少女は、異世界にて目覚めたのだった。


 少女は、兄と再会し、また話せることを、心から嬉しく思うようになった。

 やがて、もう一度、希望を持っていく――――。

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異世界で生きてみた。 二一人 @tamatama114514

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