生命


「私はレイブ。よろしく頼む、ことり殿」

「うん。よろしくね!」

「後で、里の者たちも紹介しよう! 噂の眠り姫が目覚めたと聞けば、皆飛んでくるぞ! ははは!」

「ね、眠り姫?」

 ことりがきょとんとして、レイブさんは高笑い。


 里の皆には、世話をかけたからな……きっと、里のお母さん的存在のホリョウさんなんかはすぐに来てくれるだろうな。俺が留守の間は、あの人にことりを見てもらってたし……。


 しかし、うーん。色々と悩ましい。

 ことりがまた元気に喋っているところを見れて嬉しいが、この世界は、前の世界の日本よりも、もっともっと過酷だ。俺だって、最初の方は精神をやられていた。俺が守ると決意したからには、妹は何があっても守るが、この世界にことりは慣れてくれるだろうか。


 一度、ゆっくりと話したいものだ。話したいことがありすぎる。


「うーん……」

『どうしたんだい?』

 悩みの声が出ていたのか、スリューエルが心配したように話しかけてくる。

 滝つぼに身体を沈め、頭だけ出している。この龍は俺らと目線を合わせて会話するのが好きなようで、そのあまりにも大きい体でそれを実行するには、体を水に沈めなければならない。


 まあ、頭だけでも俺より視線が高いけどな……。


「いや、色々と考えることが多くてな……」

『君は忙しい人間だね』

「人間は大体忙しいんだよ……」

『ふふっ。そんなに悩まずとも、ここに来たときの様にすればいいさ』

「ここに来たとき……?」

 なんかあったっけ? 俺は常になにかに悩んでいる、常時ネガティブ属性の人間だが……。


『ほら、何も考えずに滝つぼに飛び込んだじゃないか。あれはさすがに驚いたよ』

「い、いやいや、あれは……なんつーか、しがらみから解放されたというか……元気になってテンション上がったというか」

『まあ、僕が言いたいのは、もっとあれこれ口に出していいんじゃない? ってことさ。別に、相手のことを常に考える必要はないんだ』

「……難しい注文だな。なんか、性分なんだよな。前の世界で生き抜くためには、相手に合わせなきゃいけなくってさ。まあ、俺はそういった面でいうと劣等生だったんだがな」


 人間社会。コミュニケーション。何よりも、他人の機微を読み取ることが最重要な世界。表面上は仲良くやってようが、水面下では互いを貶し合い、食い合い、やがて他人を騙すことでしか生き抜けなくなる。

 そして最終的に、優秀な者達は自分の精神を守るために、自分の感情すらも騙していく。俺は幸せなんだ。苦しいことはない。そういった言葉で自分を守らなければ、社会に潰される世界。


 そんな中で交友関係は広くなく、知り合いすらもほとんどいなかった俺は劣等生と言っていいだろう。といっても、誰からも認識されていないというのは、逆に言えば人生ノーリスクってことだ。孤独にさえ慣れれば、一人というのは気楽なものだしな。


 実際、俺の提出物の返却をするために、現国の教科担任がクラスに、「名々いるか~?」って来たときがあった。

 その時、クラスの奴らが、「名々……? そんな奴いたっけ?」という反応をしていた。


 認識されていないということの強さはここにある。いじめられることもないし、目立つこともないのだ。いや、そのとき俺が返事をしたらやけに目立ったけど。「え? あんな奴いたんだ……」みたいなざわめきがあったけど。


 ……非常にどうでもいい思考に陥っていた。くそどもが。俺もお前らの名前なんか覚えてないもん!


 スリューエルの返事を待つ間に、脳内で悲惨な思考が展開されてしまった。俺の心に罅が入ってしまった。自分でつけた傷だが。というより、スリューエルの返事が遅いのが悪い。


 見ると、龍は口を開く途中だった。



『前の世界で、か。それに、君が劣等生……? 君のいた世界は皆、心に悪魔でも飼っているのかい?』

 心に悪魔。確かに、現代社会に生まれる人間には常備搭載されているよ。


「まあ、似たようなものだな。あいつは……ことりはその悪魔に殺されたんだよ。心をな」


 ……原因は、社会なのだ。ことりは何も悪くない。自殺してしまうような精神状態にまで陥るのは、必ず周囲に原因がある。しかし……最後にその一押しをするのは、自分の心に巣食う悪魔なのだろう。全部全部諦めて……最後の最後に、悪魔が心を食らって、自分すらも諦めてしまう。


「だから、その……自殺なんてことをしたんだろう。分かるだろ? 生き物が自ら命を絶つってことの異常性というかさ……単純に、おかしいだろ」

『……』

「そこには、誰にも想像もつかないほどの苦悩とか、葛藤とか……決意とかがあったんだろうな。それでさ……もしかしたら、俺がこの世界にあいつを引っ張ってきたことも、あいつにとって苦しいだけなのかもしれないなってさ。あいつは、死ぬことを決意したのに、俺がそれを踏みにじったんじゃないかって思って」

『……』


 胸の何かを搾り出すように、左手を握り締め、それを抱くように、言う。


「俺は、間違ったんじゃないかって」


 龍がだんまりを決め込んで、こちらを見つめている。なんとなく恥ずかしくなって、目を逸らして髪の毛先を弄る。


「その……あれだな。今結構楽になったかも。気持ちが。お前の言うとおり、何も考えずに悩みを吐露したんだが……」

『それでいいじゃないか』

「え?」


『君一人悩んでいても、解決しないさ。僕みたいな龍でも、誰でもいいから、君はもっと話して良いんだよ。楽になって良いんだ』

「……ああ」

『それに、見てみなよ』


 スリューエルが視線をずらした。その先には、二人のダークエルフと肩を並べる少女。そのものたちの背中。陽光に照らされた、三つの影。


「わああ……すごい綺麗……こんな一面、雪景色、見たことないよ!」

「そうか! 森も美しいぞ。はやく見せたいな!」

「……」


 生きとし生けるもの。そのやり取り。どこにでも溢れている、会話だ。けれど、そこには命がある。強さがある。死とは、無だ。何も感じなくなってしまうものだ。だから、命とは、存在しているだけで美しい。


『僕は、この光景が間違ったものだとは思わないよ』

「……ああ、俺もだ」


 三つの影が振り向いて、こちらを見る。


「お兄ちゃーん! そろそろ行くってー!」

「ラード殿! そろそろ日が落ちます!」

「……」


 その光景に、三人の並び立つその姿に。こちらに向けられた瞳に、何故だか、写真に収めたくなるような美しさを感じて、情動する。少しだけ、涙が出てきた。


『ほら、呼んでいるよ?』

「……なあ、ありがとな、スリューエル。全部、さ」

 振り返り、見上げて言う。この地に来て、この龍には一番助けられたかもしれない。


『ははっ。僕たちは友達だよ? 友達が困っていたら、助けるのは当たり前だろう』

「……ああ。今度は、俺の番だからな? せいぜい、困ってろよ。そのときは助けてやる」

『楽しみにしてるよ』


 足を前に出す。滝の壁に囲まれた聖殿を背に、歩く。

 厳冬期の終わりまで、後半月ほど。その時、俺は山を下る。きっと、この龍とはもう会わない。でも、俺は友達だからな。友達と別れるときに言うことなんざ、決まってる。


 三人と合流する。階段が下まで続いている。このサンゴに、滝に、森に、自然に囲まれた聖殿は、ここを下れば抜けられる。ここを下れば、もう二度とこの地を踏まない。龍は見えなくなる。


「スリューエルちゃん! ばいばーい!」

「スリューエル様! 明けの季節にまた会いましょう!」

「……」


 俺は、振り返り言う。



「――――スリューエル! また会おうぜ!」


 龍は、驚いたように目を何度か瞬きさせると、口を開いた。


『……うん。またね、刹那の生き物たちよ。儚き願いを永久へと結ぶよう、僕も祈ろう』


 龍の言葉を聞き届け、俺たちは聖殿を後にした。



______



「お兄ちゃん」


 四つの足跡が雪原に刻まれてしばらく、ことりが話しかけてきた。

 今、ターニャさんが周囲を警戒し、レイブさんが駕籠を持っていてくれている。話す余裕ぐらいはある。


 ことりがエスキモー服のフードを取り、その黒髪を露にする。長い睫、柔い唇。雪のように白い肌に、少し赤く見える頬。

 それなりに異世界で暮らしていたからか、日本人の容貌を改めて見直すと、どこか特別なもののように見える。なるほど、黒髪が珍しいということは、知識としては学んでいたけれど、傍目から見ると確かに目立つ。


 そのことりは、話しかけたのはいいものの、どうやって言葉を紡ごうか悩んでいる。俺に触れようとした右手が、宙で彷徨っている。

 そりゃ、どう接すればいいかとか分かんないよな。俺も、全然分からないし。でも、妹の勇気を無駄にしたくはないな。



「どうした?」


 そう促すと、右手と左手を背後にしまって、俺と並ぶように前に小走りで来た。

 左に、ことりが並ぶ。そのまま、歩き続ける。少しの静寂が流れる。


 やがて、ことりは口を開いた。


「……なんかさ、すっごい世界に来ちゃったね……」

「……ああ。本当にとんでもないファンタジー世界だ。しかも、リアルな……嫌か?」


 この世界は、常に死と隣りあわせだ。危険はどこにでも潜み、命を虎視眈々と狙っている。それに、魔法の存在があるので、前の世界との科学文明の差が著しい。その他、衛生観念やら治安やら、目に付くところはいくらでもある。

 でも、良いところもある。その一例が、この美しい自然の世界と、そこに生きる者達。


 そこで、ふと思う。俺はどっちだろうか、と。好きか嫌いか、という単純な問い。それにも答えられないぐらい、俺もまだこの世界を理解してないのかもしれない。

 でも、仲間たちは好きだな。


 ことりが下を向く。雪を踏む自分の足を見て、少し悩んだ後に言う。


「……よく分かんない。でも、綺麗な世界だなって」

「そっか。実は俺もまだ、よく分かってないんだ」

「お兄ちゃんも?」

 ことりがこちらを向く。目が合って、恥ずかしそうに目を逸らした。

 それを気にせず、声を出す。


「ははは、そうだぜ? 俺だって、この世界でまだ二ヶ月半ぐらいしか暮らしてない。つまり、二人揃って、何も知らないんだ」

「そう、なんだ……」

「……なあ、手、繋いでいいか」

「……いきなりなに。クソカスノロマゴミニートのくせに」


 左手を差し出す。平手で、待つ。

 そこに、恐る恐るといった様子で、ことりの右手が伸びてくる。


 やがて、手が重なった。手袋越しに、暖かいぬくもりを感じる。少し力を入れると、向こうも少しだけ、握ってきた。


「こうするのも、いつぶりだろうな」

「……私が小学3年生のときの、夏以来だよ」

「なんで覚えてんだよ。あ、俺も思い出したわ」

 ははっと笑うと、ことりも、にししと笑った。


 小学3年生。俺が当時、小学4年生の時か。確か、田んぼの畦道で迷子になった時、ことりが泣いてしまったんだ。それを慰めるために、必死に考えて、それで手を繋いだんだった。

 あの時の、夏の蒸し暑さと、田んぼに流れる水。手の中に滲む汗を覚えている。


「お兄ちゃん、大きくなったね」

「そりゃ、お前がいない間に一年経ってるからな。俺ら、二歳差になっちまったよ」

「……そっか、そんなに経ったんだ」

「ああ、その一年は本当に酷いもんだったぜ。母さんも父さんも泣いてばっかでよ。特に、母さんなんかはお前がいなくなってから、ショックでろくに家事もやらねえんだ」

「……ごめん」

「ヒステリーを起こして、家中の皿を全部壁に投げつけてよ。掃除が大変だったぜ。それに、周囲の人間は口々に俺の心配をするんだ。大丈夫か? 辛くないか? ってな。葬式で親戚の奴らもおいおい泣いててよ。勝手な奴らだぜ全く。ま、俺もちょっとショックを受けたのと、家事に時間を取られてよ。勉強が身に入らなくて、志望校も一つランク下げちまったよ」

「ごめん」

「父さんも仕事に身が入らなくて、ある日、ぱぱっと辞めちまってさ。まあ、今は新しく就職してるけど、お前がいなくなってから二ヶ月は、母さん父さん両方とも家に引きこもっててさ。マジで、生気がなくなっててよ。貯金を切り崩して、何とか食いつないでよ。いやーあの時は大変だったぜ。なんか、俺が葬式とか出なかったから、そのことでずっと責めてきたんだよ。何でお前は妹の死を軽く受け止められるんだって。軽く受け止めてるわけなくね? 反抗期なのも相まって、母さんも父さんも嫌いになっちまった。これ、お前のせいな」

「ごめんっていってるじゃん! もー!!」


 我慢できなくなったのか、繋いだ手をぶんぶんと振り回される。喋りが中断された。

 そして、こっちを向いてふくれっ面で言う。


「普通、こういうときは妹に優しくするんだよ! お兄ちゃんのクソカスノロマゴミニート!」

「ははは。すまん、つい話したくなってさ。お前だって気になってただろ?」

「そんな悲惨な話は聞きたくなかったよ!」

 ぶーぶーと、アヒル唇になりながら、地面の雪を蹴り上げる。全身で不満を露にしてらっしゃる。


 だが、俺は踏み込む。別に、今全部を話したいわけじゃない。けれど、俺とことりの間にあるわだかまりみたいなものを、少しでも取り除きたい。


「まあ、そういうわけだ。お前が死んで、悲しくなる奴がいっぱいいたんだよ」

「……」


 死んだ人を、悲しむなど傲慢だと思う。けれど、それは、その感情があるのは事実だ。俺も、抑え切れない思いが爆発したこともある。家事をしなくなった母や、自室に篭りきりの父を見て、心の中に負の感情が積もって……学校の屋上に立ったことは、一度だけじゃない。けれど、その度に、怖かった。これが、ことりの見た景色なのかと思うと、飛び降りれなかった。


「な。もう二度とするなよ。お兄ちゃん、死にたくなるから。苦しかったら、俺に何でも言えよ。もしあれだったら、お兄ちゃんをサンドバッグの代わりにしてもいいぞ」

「……ふんっ!」

 早速、体をよじって左ストレートが飛んでくる。それを避けることなく、横腹に貰う。突き刺さる拳、しかしそれほど痛くない。


「……痛い。硬い。殴った方が痛いじゃん。お兄ちゃんのバカ。バカバカ。アホブタ。ヘタレ。ノロマ」

「お、おう……」

「……ありがとう」

「……」


 再び、静寂。けれど、それは居心地の悪いものじゃない。流れる無言の時間が、先ほどよりも強く握られたこの手が、暖かかった。


「里はもうすぐです!」

 レイブさんの声が響いた。それに手を上げて返事をしながら、歩を進める。



 足跡は四つ。雪原の一筋を描くその足跡内の二つは、近かった。

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