第六十六話 これからのこと
ふて腐れる樹下の機嫌を窺いながら、猿渡さんは倒れた椅子を直していた。
お尻が打って痛いだの、肩が引っ張られて痛いだの、樹下はすっかりクレーマーになってしまっていた。
猿渡さんの勢いから察するに、どうやら相当樹下犬飼の二者との学力の差がある様だ。
ボクの中では、三人で一番成績が悪そうなのは犬飼君だったんだが。
「イヌっちのとこ、教育ママなんですよ。文武両道ってやつですね。だから、イヌっちは運動もできて勉強もできる、実はモテ要素たっぷりなんです」
「それで、これまたネコがヒデちゃんに気を使いまして勉強の話題も同じ様にできる様になってやろうと勉強をしちゃいまして。運動は私が担当みたいになってまして」
何故か二人してボクに耳打ちする様に囁いてきた。
犬飼君の設定を頭に刷り込まれても困るんだが。
それにしても、樹下桜音己の気遣いという合わせる能力は少し異常な気がする。
「結局、私の方が成績勝っちゃいましたけどね」
両手を腰に当て樹下はここに居ない犬飼君に勝ち誇る。隣では成績で大きく負けてしまっているのであろう猿渡さんが溜め息をついて、椅子にもたれかかっていた。
「そういえば、志望する大学は決めたのかい?」
仁王立ちで勝ち誇ったままの樹下も、椅子にもたれかかってうなだれている猿渡さんも首を横に振った。
高校二年生の夏とはいえ、進学校であるならば早すぎるというわけではないだろうに。
むしろ、高校を進学校に進んできた割には志望校を決めていないのは遅すぎるぐらいなのかもしれない。
「三人同じ大学に行くのか、別々の大学に行くのか。そこが今私達女子の最大の議題です」
樹下の言葉に猿渡さんも、そうなんです、と力なく呟き続く。
「ヒデちゃんは今成績で大学を選ぶか、水泳で大学を選ぶかに悩んでる最中でして。それ次第では三人一緒というのは成績面で私には高い壁になってまして……」
言葉の最後に近づくにつれ猿渡さんの覇気が無くなっていく。
「別に大学まで三人一緒にってわけじゃなくてもいいんじゃないかな? それぞれやりたい事は違うだろうし、プライベートで三人仲良くしてたらいいわけだし」
ボクの言葉にまた二人揃って首を横に振る。
仁王立ちしていた樹下も猿渡さんと同じようにうなだれて椅子に座り込んだ。
「いや、あの、そのやりたい事ってのが無いんですよね」
樹下の言葉に猿渡さんも二回程頷いていた。
「周りに合わせてきたもんですから、こう、自分のしたいことが見当たらないというか。したいことなんて引きこもりぐらいというか」
後半部分は悩める女子高生というより増殖するニートの発言だ。
「やりたい事、全部我慢して野球に没頭してたもので何にも思いつかなくなっちゃいました。強いてあげるなら今やりたい事は、恋ぐらいです」
悩める女子高生の発言であったが、これから先の話をしている段階でそんな事を言ってる場合じゃないだろう、とツッコミを入れたかったのだが猿渡さんは秒単位でうなだれ方が酷くなっていたので触れないでおくことにした。
恋、頑張ったらいいじゃないか。
せめて心の中でだけでも応援しておくことにしよう。
「もういっそ、先生のとこにしようかな。先生、改め、先輩! ほら、ドキドキしませんか?」
樹下は上目遣いに少し声色を変えて、先輩、と繰り返してきた。
少しずつ近づいてきていたので、ボクは思わず脳天目掛けてチョップしてしまった。
「ドキドキしないし、そんな事の為に受けるなら色々と勿体無いだろ。これまでの勉強もそうだけど、学費もタダじゃないんだしさ」
ごもっとも、と頭を押さえながら涙目の樹下は頷いていた。
それから、ボク達三人は将来の事や恋愛の事を色々と話し合った。
本日もいつも通りに二時過ぎに訪れたのだが、時刻はいつの間にか五時を過ぎていた。
窓の外がほんのりオレンジがかっている様に見える。それでも、夕方と言える程暮れてもいなかった。
「少し長居しすぎたかな。そろそろ、ボクは帰るとするよ」
よく考えたら、新しい椅子が用意されなかった為にボクは三時間近く立ちっぱなしだった。でもよく考えてみないと気づかない程、話に夢中になっていたのでそれほど苦でもなかったのだが。
気づいてみると気づいてみるで、少しばかり足に疲労がある。最近は鍛え直しているはずだというのに、この調子ではまだまだ本調子では無い様だ。
え?、と驚いた表情を見せる猿渡美里と、えー、とふて腐れる樹下桜音己。
「私、まだボケ足りませんよ」
「私、まだボケ切れてませんよ」
「樹下さんのボケ足りない発言は、悪夢の再来が怖いので却下。猿渡さんのボケ切れてない発言は、天然成分でお腹一杯なので却下」
軽くあしらってみると、今度は二人して、ぶーぶー、と頬を膨らませてブーイングを鳴らす。
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