第六十三話 自由形

 犬飼君の赤面告白の通り、幼なじみ二人、樹下桜音己と猿渡美里は可愛い。可愛いと一言に言ってみても、また別々の可愛さなのだけど。


 これはボクの個人的意見なのではなくて、各々から聞く“実績”に基づくものだ。


 この間の花火大会で、地元の人間しか知らないビルの屋上という場所に樹下達三人がいたのは猿渡さんの功績だと言える。


 樹下から聞いた話によると、あの場所は猿渡さんが野球部の主将から教えてもらったのだとか。


 教えてもらった、というのはもちろん猿渡さんの弁で、ボクも樹下もそれは誘われたんだろうと推測する。


 甲子園に行けなかった夏、主将にとっては高校最後の夏。


 野球で残せなかった思い出を、恋愛にかけようとするのは青春時代としては当たり前の発想だ。


 その誰しもが理解できる情熱を、幼なじみに恋する少女は気にも止めなかった。主将、残念ッス。


 同様な件が猿渡美里には結構多いらしい。


 花火がよく見える穴場を筆頭に、美味しいクレープの店、美味しいパスタの店、可愛い服屋、可愛い靴屋、貴重な古書なども扱う本屋、激安スポーツ用品店、等々。


 教えてもらった、というデートスポットは数知れないらしい。デートスポットかどうか危ういところも何ヵ所かあったりするが。


 下駄箱を開ければラブレターが入っているのは、樹下桜音己の日常らしい。もちろん、毎日違う人物からだ。


 上級生同級生下級生、つまり学校全体からラブレターが届いているらしい。


 モテモテである、というか進学校は恋にお盛んである。


 猿渡美里曰く、たまに他の学校の生徒からも届いているらしい。他の学校の生徒が樹下の下駄箱の位置を知っている事が驚きである。


 樹下桜音己は成績優秀である。黙っているとお人形みたいな整えられた様な可愛さがある。


 そして、本人曰く人見知りが激しく仲の良い人間としか話せれないらしい。


 そんな様々な要因が複雑に絡み合い、樹下桜音己を高嶺の花扱いにしてしまっているらしい。


 成績優秀な美人、あまりつれない態度なのは気が弱く心を開けない為、ただ友人達と話してる際の笑顔は可愛い。などと進学校男子生徒達は考えてしまったのか、樹下桜音己の中身も知らずに惚れ込んでしまった様だ。


 因みにラブレターは全部読まれた後に破棄された様だ。


 理由は猿渡美里の片思いの様な恋愛的なものとは違う。


「私のツボにハマる様な面白いのが無かったんです」


 あまりにもな理由にボクはラブレターの送り主達に同情した。


「今、水泳で言えばメドレーの自由形、ってとこじゃないかな?」


 硬直したまま動かない犬飼君をこのまま待ってやってもいい気はしたのだが、今日ここに訪れた理由は他にあるのでボクは待たない事にした。


 樹下家へと硬直した犬飼君の横を通りすぎる際に、犬飼君の肩に手をやり声をかけた。


「自由形?」


 僅かに気を取り戻した様な犬飼君は小さな声でそう問い返した。


「そ、自由形。自由と言ってもその前の三種の泳ぎはできない。個人メドレーだろうが、団体メドレーだろうが、決着は最後に泳ぐ君次第。自由なんて程遠い状況で、でも自由を許されてる」


「……何が言いたいんだよ」


「悩むのも答えも自由だけど、制限はあるよって事。女心と秋の空、って言うしね」


「わ、わかってるよ。お、俺はきっと多分……」


 犬飼君が言い切る前にボクはその背中を押した。力を込めて押したので、いつしかこの廊下で見た様に犬飼君はエレベーターの方へとつまづきつつ向かっていく。


 今回は誰もボタンを押してないのでエレベーターのドアが開く事はもちろん無く、犬飼君は大きな音をたててぶつかった。


 押されたとはいえどうにか回避すればいいものを、水泳部な割には反射神経がよろしく無いのだろうか。


「な、何すんだよアンタっ!!」


 犬飼君は鼻を押さえながら大声をあげている。近所迷惑なヤツだ。


「多分? 多分じゃダメだろ。メドレーの自由形だって言っただろ? 悔いの無いように全力を尽くせよ。多分、なんて曖昧な形で君は二人に向かいあえるのか?」


「あ……」


 人と向き合う事、想いと向き合う事。


 ボクがこの夏に学んだ事。


 背中は押してやった。


 あとは犬飼君次第だ。


「あ、ありがとうとか言わねぇからな!」


 振り返り樹下家に向かうボクの背中に犬飼君の言葉がかかる。最後の言葉がそれとはつくづく恥ずかしいヤツだ。


 今度はボクの頬が紅潮しそうだったので、歩を早めた。

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