五回目
一体どれぐらい放心していたのだろう。耳に入った到着のアナウンスで、僕はやっと自分が電車の中にいる事に気が付いた。
辺りを見ればもう電車は止まっていて。ホームに面した扉が開け放たれ、眩しい日差しが車内を照らしていた。
……降りなければ。緩慢にそう思う。僕は気怠い体に力を込めて立ち上がると、ふらふらと歩き出し熱気立つホームに降り立った。
まだ意識はふわふわとして、はっきりとは定まらない。それほどまでに酷い、恐ろしい光景だった。目の前で生きたまま無惨に解体されていく彼女を、僕はただ見ている事しか出来なかった。
「……っぐ、げえっ!」
思い返すと今更ながらに急激な吐き気が込み上げ、その場に膝を着き体を折り曲げると、胃液しかない腹の中身を上げられなかった悲鳴の代わりに遠慮なく地面にぶちまける。途端に胃液特有の据えた臭いが鼻につき、それが再度嘔吐を誘発する。
そうして胃液すらも空っぽになるほど吐いて、やっと僕の吐き気は治まった。胃液に曝された喉が、ひりひりと小さく痛む。
……落ち着け。幸い、僕はまた戻って来られたんだ。これからどうするかを、考えなきゃいけないんだ。
もうペンションには向かえない。向かってはいけない。老人とはとても思えなかった、僕を押さえ付けた時のオーナー夫妻の強い力を思い出す。あれを、それも二人分もどうにかして彼女を守りきる自信は、ない。
例え外に逃げたとしても、地の利は向こう側にある。更に外には二人だけじゃない、一体どんな危険が待っているか解らないのだ。そんな中で一夜を明かす。無謀としか思えない。
ならどうするか。ペンションに向かわず彼女の安全を確保する……。
「……そうか、来た道を戻ればいいんだ」
突如、天啓が降りた。そうだ。そうじゃないか。
僕は今まで、この高原で無事に一日を終わらせる事ばかりを考えていた。けど、よく考えればそんな必要は全くなかったのだ。
そもそも僕は元の世界から電車に乗ってここに来た。あの電車が黄泉への渡し舟だったとすれば……同じようにここから電車に乗れば、元の世界に帰れるかもしれない!
『だってねぇ。君が悪いんだよ。何も理解していないから』
『そうよ。だから私達がこんな事をしなくちゃならなくなったのよぉ』
思い出すのはオーナー夫妻の言った言葉。あれは今思えば、僕のやり方が間違っていたという遠回しなヒントだったのかもしれない。
この世界で彼女を守り抜くのではなく。この世界から彼女を連れ出す事こそが、僕の使命なのだとしたら。それを彼女が望んでいるのだとしたら。
巻き戻る前の出来事に折れかけていた心が、活力を取り戻していくのを感じる。元の世界に戻る事さえ出来れば、彼女にいつ理不尽な危機が降りかかるかと気を張り続ける必要ももうない。
きっとこれが正解だ。今度こそ……彼女を救ってみせる!
僕は立ち上がり、まずは彼女をここに連れてくる為駅を出た。彼女はいつも通り、出入口から少し離れた場所で僕を待っていた。
「遅いよ、雅樹く……」
「雫!」
明るく口を開く彼女との距離を、一気に詰める。そして、向けられる不思議そうな視線を受け止めながらその温かな手を握った。
「ま、雅樹君……?」
「帰ろう、雫」
「……え?」
訳が解らない。僕を見る瞬きを繰り返す目がそう言っていた。けれど僕は言葉を続ける。
「僕らはここにいちゃ駄目なんだ。来るべきじゃなかったんだよ」
「ち、ちょっと待って! どういう事なの!?」
混乱した様子で僕の腕を振り払おうとする彼女。僕と違い彼女には繰り返す世界の記憶がないのだから、それも当然の反応なのだろう。
そんな彼女に真実を告げるべきか迷う。自分が既に死んでいる事を自覚してしまえば、それこそ彼女は今度こそ消えてしまうのではないか。
僕は悩み、そして、少しだけ嘘を吐く事にした。
「……ここは現実の世界じゃない。きっと覚えていないだろうけど、君は今病院で意識不明の状態なんだ」
「え……雅樹君、何言って……」
「君は本当は、僕じゃなく家族と旅行に来たんだ。そして事故に遭った」
彼女の瞳が不安げに揺れる。心が痛む。それでも、彼女に解って貰わないといけないんだ。
「このままここにいると、本当に死んでしまう。だから迎えに来たんだ。君を助ける為に」
真剣に、真剣に僕の想いを乗せた言葉を伝える。果たして彼女は解ってくれるだろうか。
「頼む、僕を信じてくれ。そして一緒に帰ろう」
「……」
彼女は戸惑うように、迷うように、視線をさ迷わせながら何かを考えているようだった。どのくらいそうしていただろう。やがて彼女の手が、固く僕の手を握り返した。
「……信じるよ。ショックだけど。不安だけど。でも雅樹君はきっと、こんな嘘は言わない」
「雫……」
そう僕を見返した目にもう迷いはなく。嬉しかった。涙が出そうだった。けれど泣くのは総てが終わってからだと、必死に堪えた。
「じゃあ、僕についてきて。一緒に電車を待とう」
「……うん」
彼女が緊張した面持ちで、小さく頷き返す。僕は彼女の手を握る力を強めながら、今出てきたばかりの駅の構内へと踵を返した。
正直、電車が来るまでは気が気ではなかった。誰かが彼女を死に追いやろうと襲い掛かってくるのではないかと、そればかり気にして辺りを窺っていた。
そんな僕の様子に彼女も口には出さないが、不安げな顔をしながらジッと電車を待っていた。念には念を入れて、誰も彼女を線路に突き飛ばしたり出来ないよう彼女には駅の看板を背にして待って貰った。
そうしてどれくらいの時間が過ぎただろうか。今まで降り積もった危険からすれば実に呆気ないほどに何事もなく、やがて帰りの電車は到着したのだった。
「行こう」
電車の扉が開いたのを確認してから、僕は再び彼女の手を取り慎重に車内に足を踏み入れた。車内には、確認出来る限り人一人見当たらない。
「これで……助かるんだよね?」
「ああ、きっと」
問いかける彼女に笑い返すと、僕は彼女と共に扉に近い席に腰掛ける。目覚めた時と同じ、心地好い空調が外の熱に火照った体を鎮めた。
もうすっかり耳に慣れた蝉の声が、何だか少し遠くに聞こえる気がした。過ぎ行く夏への寂寥感にも似たその感覚を味わう僕の耳に、間もなく総ての音を覆い隠すような発車のジングルが聞こえた。
……ああ、今度こそ終わるのだ。今度こそ彼女との新しい人生が幕を開けるのだ。不安はまだ消えた訳ではなかったが、音を立てて閉まるホームへの扉を見てそんな思考が沸き上がってくるのを僕は隠せなかった。
軽い震動の後、ゆっくりと動き出す電車。徐々に加速を始める窓の外の流れる風景。僕らはずっと手を繋ぎ、それらに身を委ねていた。
「きっと私、退院、始業式に間に合わないね」
「かもね」
「お見舞い、来てくれる?」
「勿論」
僕らの口数は少なかった。時々そんな短い会話は交わしたが、すぐにどちらからともなく会話は途切れ、また緩やかな電車の音だけが辺りを支配した。
上手く言葉が出てこない。口を開く度、彼女がいない日々がどんなに辛かったか、目の前で繰り返し命を落とす彼女を見てどんなに苦しかったかを口にしてしまいそうになって曖昧な言葉しか彼女に返す事は出来なかった。
彼女を見る。今は会話もないからか固く口を引き結び、何だか泣きそうに瞳を潤ませて小さく俯いている。
そんな様子を見て、また昔を思い出した。本当の葦原高原で一緒に過ごした最後の夏。彼女は丁度こんな顔をしながら、帽子を探す僕についてきたのではなかったか。
今の彼女は本当に、あの夏の少女がそのまま大きくなったかのよう。あの頃と全く同じ服装が、僕にそう思わせるのか。
――全く、同じ?
不意に僕の心がざわついた。まるで、開けてはいけないと言われた箱の蓋に手をかけてしまったような。
僕は、とても大事な事を考えないようにしている。頭の中でもう一人の僕がそう訴えかけてくる。
自分が死んだ事を知らない彼女が、迎えに来て欲しいと僕を呼んだ。無意識に? でもどうやって?
そうだ、そもそも最初の手紙はどうやって届いた? そういうものだから、そう納得していた心がだんだん揺れ動いていくのを感じる。
だから僕は気付くのが遅れた。周囲に起きていた異変に。
「……っ!?」
迷うように窓を見た僕の目に映ったのは、日差しの眩しい緑ののどかな風景ではなく何もない漆黒の闇だった。トンネルに入ったのかとも思ったが、この電車に乗っている間はトンネルは潜らない筈だ。
そして、電車が線路を走るその音もなくなっていた。体に感じる走行の重圧も、また。
「し、雫……」
沸き上がった強烈な不安に駆られるようにもう一度彼女を見る。彼女はさっき見た時の態勢のまま、その場から微動だにしなかった。
考え事をしているのだろうか。そう考えて僕は、彼女の肩を揺する。
――どさっ。
途端、下から鈍い音が響いた。何が起こったか解らず、僕は音がした方を見る。
「――え?」
そこには、まるで壊れたマネキンのような細い腕が落ちていた。継ぎ目と思われる部分はどろどろに溶けていて、表面の小麦色と合わさって、まるでチョコレートのように見えた。
恐る恐る彼女に向き直る。僕が掴んだ肩のその先には、あるべきものがなかった。まるで巻き戻す前の再現とでも言うように、彼女の右腕が、綺麗さっぱりなくなっていた。
「う……ぁ……!」
息が詰まる。上手く呼吸が出来ない。ガチガチと歯を震わせて僕が後ずさると、やっと彼女が僕の方を向いた。
「どうしたの? 雅樹君」
動いた唇が、その端から爛れてぼとぼとと溶けたように落ちた。まるで不出来な泥人形に水を浴びせたみたいに。
不意に、後ろに着いていた手が深く沈み込み、それによろめいた僕は床に倒れ込んだ。慌てて辺りを見回すと、電車の中が彼女の体同様にどろどろと溶け出している。
何だ。何なんだ、これは。彼女を電車で連れ出せばいいという、僕の考えは間違っていたのか?
混乱する僕に、彼女が残った手を伸ばす。真っ直ぐ伸ばされたそれはしかし途中で肘から溶け落ちて、僕まで届く事はなかった。
「雅樹君……ねぇ雅樹君」
唇も歯も抜け落ちただの空洞になった口が、以前と変わらぬ涼やかな彼女の声を発する。鼻は既になく小さな二つの穴が空くだけとなり、目玉は片方が眼孔からぶら下がり、もう片方は溶けた瞼の上の肉ですっかり塞がっていた。
僕の愛した彼女の面影は、もうそこには全くなかった。
「ひ、ひっ……」
「私達、ずっと一緒だよね……雅樹君……?」
天井から垂れた何かが、傍らに落ちる。彼女の体が、僕の上に覆い被さる位置に来た。
それを見ながら、僕は、やっと総てを理解した。
――この世界は過去でもなければ、死後の世界でもない。
そして、僕が救おうと必死になっていたこの彼女は――雫では、ない。
そこで、僕の意識はまた暗転した。
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