四回目

 電車の音が聞こえる。夢の中から、急に現実に引き戻される感覚。

 ――また、ここに戻ってきた。そう僕は思った。

 辺りを見回せば、そこは既に見慣れた電車の中。向かいの窓は、眩しい太陽に照らされた青と緑のコントラストを鮮やかに映し出していた。

 戻ってきた。戻ってきてしまった。また、戻る事が出来た。

 彼女の無惨な姿を思い出し、体が震える。守りきった、そう油断したのがいけなかった。

 まるで死神が彼女を逃がすまいとしているかのように、危険はどこまでも僕らにつきまとう。気分はまるで、冥府に妻を迎えに行ったギリシャ神話のオルフェウスだ。

 オルフェウスは結局妻を死の運命から救う事は出来なかった。けど、僕はそうならない。絶対に彼女の運命を変えてみせる。

 その為にも、疑問を一つ一つ拾っていこう。彼女の悲鳴が聞こえる直前に考えていた事。

 ここは過去の世界ではないかもしれない。過去の世界だとすると、噛み合わない部分が多すぎる。

 彼女の家族がいない事。それに誰も、何も言わない事。彼女だけじゃない、オーナーの奥さんもだ。

 家族旅行に行く、それは確かに彼女の口から聞いた事。仮に急に彼女しか来れなくなったとして、それならば他の家族が来れなくなった事を残念に思う会話ぐらいあってもいいのではないか。

 では仮に過去の世界じゃないとして。ここは一体何なのか。

 ……死後の世界。真っ先に思い付いたのはそれだ。

 さっきのオルフェウスの例え通り、ここが死後の世界だとしたら。だからあんなにも、総てが彼女の命を奪いに来るとしたら。

 この一日を無事に彼女に過ごさせる事で、彼女をこの世界から連れ出す事が可能なのだとしたら……。

 それは荒唐無稽な希望的観測で。けれど僕は、浮かんだその考えに縋る事を選んだ。

 だって、彼女のいない現実にはもう戻りたくないから。あの空っぽの毎日はもうごめんだから。

 僕の世界は彼女を必要としている。だから、僕は、挫けずに頑張ろうと思う。


「待っていて……雫。今度こそ、必ず、君を」


 取り出した、彼女から受け取った手紙を握り締め、僕は改めて心に誓った。



「遅いよ、雅樹君!」


 駅から出た僕を彼女が迎える。いつも通りの、光景。

 この瞬間からスタートする、僕の戦い。彼女に不審に思われないように、自然に……。


「ごめん、待たせちゃったね」

「いいよ、また会えたから」


 屈託なく微笑む彼女。悲惨な死の現場を何度も見てきたせいか、その笑顔が今まで以上に愛おしい。

 彼女は恐らく、自分の死を理解していないのだろう。だからこんなにも明るくいられる。

 これから続く危険の連続によって、それもすぐ曇ってしまう事は解っているのだけど。それでも彼女がこれからも笑っていられるようにしたいと、強くそう思った。


「じゃあ行こうか」

「え、場所知ってるの?」

「昔行ったあのペンション。違う?」

「当たり! よく解ったね!」


 驚いたような彼女に微笑み返す僕。何気なく辺りを見回すと、辺りには僕達以外誰もいなかった。

 そこで僕は前回の違和感の正体に気付く。……最初は、一緒に出てきた他の客がいた筈なんだ。けど今は、誰もいない。

 同じではなかったんだ。同じようで違う。僕が彼女に抱き付いた時、彼女が皆見てると言わなければきっとあの人達は現れなかった。

 オーナー夫妻もそう。彼女がいると言ったから、きっとそこにいたんだ。ここはそういう世界。

 そしてそうでないものは……きっと彼女の命を奪いに来るもの。そんな確信があった。


「……雅樹君? どうしたの?」


 思考の海に没頭しかけた意識を、彼女の声が引き戻す。視線を向けると、彼女は不思議そうな目で僕を見ていた。


「あ、ああ、何でもないよ。暑いなぁって、それだけ」

「そうだね。熱中症にならないように、途中でジュースでも買お!」


 誤魔化すように笑った僕を、彼女は疑っていないようだった。その事に、少しホッとする。

 ……この先、ただでさえ不安になる出来事が続くのだ。せめて今だけは、不安なくいて欲しい。

 そんな想いが行動に出たのだろうか。気づけば僕の手は、彼女の手に向けて伸びていた。

 彼女も、それに気付いたように僕の手を見る。そして微笑むと、無言で自分から手を握ってきた。

 何度目かの、暖かな手の温もり。確かに生きているという証。

 それを甘受しながら、僕は今度こそ、とまた強く願った。



「それにしても雫ちゃん大きくなったわねぇ。雅樹君も」

「そりゃあ、あれから何年も経ってますから」


 辿り着いたペンションで、結露の付いた冷たい麦茶を受け取りながら僕はオーナーの奥さんに笑い返す。朧気な記憶にあるそれと目の前の姿が全く変わらないのは、この人が本人ではないからか。

 いや、もしかしたら既に奥さんも亡くなっていて、それでこの試練に付き合わされているのかもしれない。僕が子供の頃には、もう結構な高齢だった筈だから。

 とにかく、奥さん自身には彼女に危害を加える気はなさそうでも、決して注意を怠ってはならない。それはもう、嫌と言う程身に染みた。

 彼女に視線を移す。この暑さにも拘わらず青ざめ、憔悴しきった顔。動き回って少し崩れたポニーテールが、疲れた様子を更に増長させる。

 危険がいつ、どこから来るか総て解っている分、前回よりは気持ち楽にここまで来れた。けれどそれは僕に限った話で。

 彼女にしてみれば、ただ歩くだけで姿の見えない理不尽な死が次から次へとやってきているのだ。心身共に疲れても無理はない。


「……雫、大丈夫だよ」


 僕の言葉に、微かに彼女が顔を上げる。生気に乏しい瞳。前より余裕がある分、そんな彼女の様子の一つ一つがよく目に入る。


「雫は僕が守る。絶対に」

「……でも……」

「今日はお互いが最高に運が悪いだけ。それだけだよ。それより疲れてるだろ? ちゃんと休まないと」

「うん……」

「あらあら、何だか解らないけど雅樹君たら随分頼もしくなって。……いえ、違うわね。昔からそうだった」

「昔?」


 そんな僕らのやり取りを何も知らず――本当に知らないのかは解らないが――微笑ましげに見ていた奥さんの発言に、僕は首を傾げる。確かに奥さんは昔馴染みだが、僕が今のような素振りを見せた事などあっただろうか。


「覚えてないかしらね。いつだったかしら、雫ちゃんが麦わら帽子を風に飛ばされてなくしてね。雅樹君、日が暮れるまで一生懸命探してあげたのよ。泣きじゃくる雫ちゃんを励ましながら」

「あ……」


 言われて、ゆっくりと記憶の海から過去の光景が浮かび上がってくる。そう、あれは僕が転校してしまうその前の年の事。

 新しく買って貰った帽子だと嬉しそうに言っていた。清潔感のあるノースリーブの水色のワンピースに、とてもよく似合っていた。

 風の強い日だった。その時僕らは雑木林に虫取りに行く途中だった。

 吹いてきた、突然の強風。ゴム紐を嫌って首にかけていなかった彼女の麦わら帽子は、呆気なく空中へと舞い雑木林の向こうに消えていった。

 その様子を呆然と見ていた彼女の目に、一気に涙が溜まっていくのが見えて、だから僕は……。


「……そんな事もありましたね。懐かしいな」

「そうね。あの頃からずっと、雅樹君は雫ちゃんのナイトなのね」


 くすくすと笑う奥さんに、何だか気恥ずかしくなる。見ると、彼女も少し恥ずかしそうにしていた。


「からかわないで下さいよ。雫も困ってるじゃないですか」

「あら、ごめんなさいね。それじゃ二人とも、ごゆっくり」

「あ、待って、おばさん。今日の……」


 立ち去ろうとする奥さんを、彼女が顔を上げ制止しようとする。そんな彼女を、逆に僕は手で制した。


「休もう、雫」

「でも……」

「疲れてるのに無理に手伝っても、逆に気を遣わせちゃうよ。ゆっくり休んで、明日元気になったらまた手伝おう」

「……そう、だね」


 彼女はまだ何か言いたそうではあったが、一応は納得したようにソファーに身を横たえた。そして、ゆっくりと目を閉じる。


「雅樹君、雫ちゃんをちゃんと見てあげてね」

「はい」


 そう言って今度こそキッチンに向かった奥さんに頷き返し、再び彼女に視線を遣る。やはり相当気疲れしていたようで、力の抜けた体はもう舟を漕ぎ始めていた。

 ……ああ、そうだ。あの日も、彼女は帰ってきてすぐ、こんな風に疲れて寝てしまったのだった。

 結局、あの帽子は見つからなくて。心配して探しに来た親達に説得され、僕らは渋々ペンションに戻ったのだ。

 本当に懐かしい。どうして今まで忘れていたのだろう。彼女と最後に思い出の高原で過ごしたあの夏を。

 かつての彼女と、目の前の彼女を重ねてみる。あの日の幼いシルエットがそのまま大きくなったようなその姿。


「……いい夢を、雫」


 どうやら本当に寝入ってしまったらしい彼女に手を伸ばし、髪をそっと撫でながら、僕の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。



 ……意識が、急浮上した。いつもと違うようで、似てる。けど同じかと言われれば、違う。

 浮上したばかりの意識はまだ少し夢見心地で、まさしく今自分が眠りから覚めたのだと教えてくれる。怠い瞼をゆっくりと起こすと、見慣れない景色がぼんやりと映った。

 壁紙のない素の木目調の壁と、カーテンの開いたままの小さめの窓。そして白い清潔なシーツのかけられた二つのベッド。それらが蛍光灯の淡い光に照らされている。

 ……いつの間にか、テーブルに凭れて眠ってしまっていたらしい。今夜は徹夜するつもりだったのに、初めて無事に迎えた夜に緊張の糸が切れてしまっていたのか。

 僕と、彼女と、オーナー夫妻。四人で迎えたささやかな夕食を思い出す。

 これだけしかこの場にいない事に、誰も疑問を口にしたりしなかった。オーナーは奥さん同様僕の記憶にあるのと同じ、額の広い白髪頭を掻きながらかつての思い出話を繰り返し僕らに語って聞かせた。

 僕らだけの世界。彼女の為の世界。それまでが嘘のように、夜は静かに更けていって。

 幸い、僕と彼女の部屋は一緒だった。その事に彼女は少し落ち着かなげにしていたが、疲れが勝ったのか夕食前に少し寝たにも拘わらずすぐに寝息を立ててしまった。

 その事に僕も安心して……。


「……!?」


 そこまで記憶を再生した所で、すっと体の芯が冷えた。


 ――目の前のベッドに、彼女がいない。


 慌てて立ち上がり、部屋中を見回す。あまり広いとは言えない室内は、すぐにここには僕しかいないのだと教えてくれた。

 急激に早さを増す鼓動を聞きながら、一縷の望みをかけてユニットバスの扉を開く。……やはり、誰もいない。

 何て事だ。意地でも起きているべきだった。もし彼女の身に何か起きたら……。

 部屋を飛び出す。廊下に明かりはなく、明るさに慣れた目は真っ暗な空間を認識するのに時間がかかる。

 その時間すらも惜しみ、手探りで近くの扉を開いては明かりを点け、中を探す。……いない。

 いなければ次。またいなければ次。何度も何度も繰り返す。……いない。

 個室にいないのであれば談話室や食堂か。そう思い焦りに縺れる足を懸命に動かし一階をくまなく探す。……いない。

 一階には彼女はいない。念の為玄関の扉も調べたが、鍵はかかったままだった。ならば外には出ていない。何より外で遭った危険に怯えていた彼女が、自分から外に出たがるとも思えない。

 という事は、後は二階だけ。僕はこのペンションに一つしかない階段の前に立つと、真っ暗なその先を見上げた。

 階段に足をかける。微かに軋む足元。静かな空間に、ギィ、という小さな音が響く。

 一歩一歩、足元を確かめながら階段を上っていく。途中狭い踊り場を経由し、更に上に。


「……?」


 その時、不意に扉が開くような音が聞こえた。耳を澄ますと、それは二階の方からしたようだった。

 足を止め、階段を上りきらずに顔だけを廊下に出す。すると右側の部屋の扉の一つが少しだけ開いて、隙間から明かりが漏れ出していた。

 口の中に溜まっていた唾を飲み下す。……彼女がいるのだろうか。

 彼女だとしたら何故こんな所に。いや、他の誰でもわざわざこんな所に来る理由はない筈なのに。

 足音を立てないように気を遣いながら、慎重に歩を進める。そして、永遠と感じられるような時間をかけて、やっと明かりの漏れる部屋の前まで辿り着いた。


「……雫?」


 そう口に出したつもりが、掠れて声にならない。僕は呼び掛けを止め、扉の隙間をそっと覗き込んだ。


「!!」


 隙間から、小麦色に焼けた細い腕が見えた。ベッドに横たえられたその腕に、丈夫そうな縄が絡み付いているのが見える。


「っ雫!」


 慌てて扉を全開にし、部屋に飛び込む。広がった視界に、ベッドに大の字に縛り付けられた彼女がハッキリと映る。

 こんな事、自分一人で出来る筈がない。誰がやったんだ。まさか、まさか……。


「アハハハハハハハ!」


 動揺していた僕は、後ろに隠れていた気配に気付かなかった。その笑い声に気付いた時には、僕は背中から急激にかかった力によって床へと叩き付けられていた。


「やっと来たわねぇ、雅樹君!」

「いやぁ、待ちくたびれてしまったよ!」


 立ち上がろうとする僕を強い力で押さえ付ける、誰かの声。この声は……!


「オーナー! 奥さん!」

「なぁに? 雅樹君」


 僕の声に反応したそれは、確かに奥さんの声で。けれどその声はいつもの優しげなそれとは違い、酷く狂気を孕んでいた。

 信じられなかった。二人はただの、彼女の記憶が呼び寄せた存在だと思っていたのに。あんなに楽しく話をしたのに。

 何て事だ。この世界に、彼女以外味方なんて誰一人いなかったんだ。


「雅樹君、信じられないかい? 悪夢のようかい?」


 オーナーが僕の目の前に回り込み、顔を覗き込む。温厚そうだったかつての面影は、その不気味で下品な笑顔のどこにもない。


「だってねえ。君が悪いんだよ。何も理解していないから」

「そうよ。だから私達がこんな事をしなくちゃならなくなったのよぉ」

「何の……むぐっ!」


 問い返そうとした僕の口に、柔らかい物が噛まされた。タオルのような物で口を塞がれたのだと、混乱した僕が気付くまでに少しの時間がかかった。

 その少しの時間の間に手早く僕の両手を後ろ手に縄で縛った二人は僕を無理矢理立たせ、ベッドの正面に用意された椅子に座らせた。その上で更に縄で体を椅子に固定し、両足も椅子の足に縛り付ける。

勿論抵抗はした。けれど二人とも老人とは思えない凄い力で、全力の抵抗だったにも拘わらずそれは全くの徒労に終わった。


「いいかい雅樹君。ちゃんと見てなきゃ駄目だよぉ」

「そうよぉ。これは必要な事なんだからぁ」


 拘束された僕に丁度足を向ける彼女を挟むようにし、二人がベッドの下から何かを取り出す。それを目にした瞬間、僕の全身から血の気が引いた。


「……!」


 それは、真新しい新品のノコギリと、同じく新品の出刃包丁だった。この状況でそれを使い何をするかなど……想像出来すぎて、想像したくない。


「……ん……」


 その時、眠る彼女が微かに声を漏らした。そして閉じられていた瞼が、ゆっくりと開いていく。


「あれ……私……」

「おはよう雫ちゃん。丁度いいタイミングで目が覚めたねぇ」

「そうねぇ。丁度良かったわ」

「え……?」


 目覚めたばかりの彼女は、まだ状況が解らないらしい。光る凶器を手に自分を左右に取り囲む二人の顔をぐるりと見比べ、起き上がろうとしたのだろう、体を動かそうとした。

 もっとも、それは彼女を拘束する縄にあっさりと阻まれてしまったのだけど。


「!? 何これっ…!」

「ほらほら、あんまり動くと手元が狂って余計痛くなる」

「でもその方が雅樹君も気付くかしら? 自分のしている事に」

「雅樹君? ねぇ、おじさん、おばさん、何の事!?」


 二人はそれ以上は何も答えない。ただニタニタと笑って、オーナーがノコギリを彼女の右腕の付け根に宛がった。


「なっ……! 何するの!? 冗談は止めて……!」


 それを見た彼女の顔が、一瞬で青ざめる。いやいやをするように首を振り、懸命に体を動かそうとするが余程きつく縛られているのだろう、縄が解ける気配はない。

 それはこちらも同じ事。彼女を救おうと、同じく体をめちゃくちゃに動かす僕を嘲笑うように、縄も椅子もまるでびくともしなかった。

 僕の暴れる、その音を聞いたのだろうか、焦る彼女の視線が漸く僕を捉えた。そして見る間に、瞳が絶望の色に染まっていく。


「雅樹君……何でっ……!」

「さ、あなた」

「そうだな。始めよう」


 動揺からか抵抗を止めた彼女の肌に、不揃いの細かい刃が食い込んだ。肌はあっさりと裂け、柔らかな肉の中を走る血管が傷付き血がぷくりと溢れ出す。


「い、いやあああああっ! 助け、助けて、雅樹く……」

「そおれっ!」

「――っ!!」


 恐怖と痛みに涙を浮かべ、助けを求める彼女を嘲笑うかのように、ついにノコギリが勢い良く引かれた。彼女が上げた絶叫は、もう言葉になっていない。僕はそれを見たくないのに、目を閉じる事も出来なくて、彼女と同じように涙を浮かばせながら首を振る事しか出来なかった。


「えいやーとっと、えいやーとっと」

「それじゃあ、私は……」


 彼女の返り血を浴びながら、鼻歌混じりにノコギリを動かし続けるオーナーを尻目に、奥さんもまた包丁を振り上げる。そして何の躊躇いもなく、それを彼女の腹に思い切り突き刺した。


「げぼっ!!」


 その一撃で内臓が傷付いたのだろう、滲む視界の中彼女が口から血を吐くのが見える。それを意に介さず、奥さんはまるで魚をおろすみたいにそのままぐちゃぐちゃと腹を縦に裂いていく。


「あが、ぐが、げぼ」


 異なる場所からの二つの痛みから来る悲鳴は押し寄せる血流に阻まれ、代わりにまるで溺れたような湿った咳が彼女の唇から漏れる。僕はそれに喚きたいのに、叫びたいのに口に突っ込まれた塊のせいでくぐもった音しか発する事は出来なかった。


「そら、そら、もうすぐ一本目が終わるぞぉ」

「まぁ、じゃあ私も早く綿抜きを終わらせなくちゃあ」


 彼女から噴き出した鮮やかな血に服を染めた二人は、ホラー映画の殺人鬼そのもので。その口元に絶えず笑顔が浮かんでいるのが、余計に恐怖を増長させた。


「よいしょおっ!」


間もなく一際気合いの乗った声を上げたオーナーの体が小さく下に沈んだ。そして深く息を吐き、まるで僕に見せ付けるように体を横にどけた。


「……っ!」


彼女の腕は、根元から完全に切断されていた。ノコギリを使ったからか断面は醜くぐちゃぐちゃで、関節ではなく骨を無理矢理切ったらしく斜めに尖った骨の先が肉と血の中から飛び出していた。

 それを見た瞬間、僕は恐怖と絶望と虚無感に敢えなく失禁していた。


「こっちも見て、雅樹君。このピンク色の綺麗な胃。ちょっと深く刺しすぎて傷付けちゃったけどねぇ」


 続けて奥さんが彼女の腹に突っ込んでいた手を取り出し、持っていた塊を僕に手を広げて見せた。真っ赤な血に濡れた、鮮やかなサーモンピンクの楕円形。

 自らも傷口から新鮮な血を吐き出すそれは、いつか生物の授業で見た胃袋の形に他ならなかった。


「さぁ、次はどの内臓にしようかしら」

「こっちは時計回りに次は右脚にするぞぉ」


 右腕と胃袋をベッドから退け、楽しそうに続きに取り掛かる二人の下で、彼女はもう虫の息なのだろう、悲鳴も上げずにただ痙攣を繰り返していた。あまりにも凄惨な、想像し得る地獄というものを遥かに超えた光景。

 不思議と吐き気は起きなかった。いや、もう吐く気力すらも失われたのか。

 真っ白な思考。混濁した意識。その二つがいつ暗転したのかも気付けないまま、僕の四回目の挑戦は終わった。

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