三回目
――気が付けば、僕は電車の座席に一人座っていた。
さっきまで見ていたあの悪夢の光景が、本当に夢だったかのよう。地面に流れる赤黒い液体も、その色に染まったワンピースも、僕の掌を焼き続けるアスファルトの熱も、色々なものが入り交じったむせるような不快な臭いも。総てがあんなにリアルだったのに。
今辺りにあるのは空調の聞いた心地好い車内の空気、そして規則正しい電車の音。眠気すら催しそうなほど、穏やかで静かな光景。
『巻き戻った』。今度こそ僕は確信した。同じ事を何度も繰り返す夢というのは、ある。だがそれは何もかも、僕の取る行動とその結果以外の何もかもが同じ、なんて事にはならないものだ。必ずどこかで展開がずれ、予想外の事態が起こる。……夢であるのに。いや夢だからこそ。
きっとあと少しすればこの電車は駅に着いて、駅の外では麦わら帽子に水色のワンピースの彼女が待っていて。遅いよ、と僕に笑いかけるのだろう。
もしかして、僕に届いた手紙はあの夏への招待状だったのだろうか。最初に彼女を失った、過ぎ去った筈のあの夏への。
現に彼女は事故に遭った。あの日先生に聞いていた通りに。そして一度は僕が救い、その油断から再びやってきた危険からは救う事は出来なかった。
「……もしかしたら」
そう、きっとこれは最初で最後のチャンス。迫りくる危険の総てから、彼女を守り抜く事が出来たなら。
彼女は、これからもずっと生き続ける。そんな希望を僕は抱いた。
そうと決まれば、もうただボーッとしてなんていられない。今までの経験から、彼女を守る為には何をすべきか考えなくてはならない。
僕は決して良くはない頭を十七年間の人生の中で最もフル回転させながら、電車が到着するまでの間これからの事を考え始めた。
「遅いよ、雅樹君!」
もう味わうのも慣れてきたうだるような暑い空気を掻き分け駅を出ると、やはり彼女はそこにいた。さっきと同じ服装で。さっきと同じ笑顔で。さっきと同じ言葉を口にしながら。
「ごめん、色々あって」
「そっか、でもまた会えて嬉しいよ」
そう言いたいのはこっちだよと、言いかけて飲み込んだ。彼女には訳が解らない事だろうから。
……次もまた同じように、時間が巻き戻る保障はない。だから今度こそ絶対に、僕が彼女を守り抜かねばならない。
その為に僕は今ここにいるのだ。最悪の未来を変える為に。
「じゃあ、行こっか」
「あのペンション?」
「当たり。よく解ったね」
「何となく。オーナーさん達元気だといいな」
そう口にしてから、僕は何か違和感を覚えた。何かを見落としているような、いや本当は気付いているのに気付かない振りをしているような、そんな気分になった。
「ね、昔みたいに手を繋いでこうよ」
けれど、微かに浮かんだそれは。差し出された細い手の小麦色に掻き消されて。
「……うん」
今は彼女を守るのが最優先だと、僕はそれ以上を考える事はしなかった。
彼女と手と手を繋ぎ歩いていくと、まず見えたのはあの交差点。彼女を二度、目の前で死なせたその場所。
「ねぇ、ゆっくりでいいから。急いで信号を渡るのは止めておこう」
「? うん」
あらかじめそう忠告をすると、彼女は不思議そうな顔をしながら頷いた。繋いだ手も、決して離すまいと僕は力を籠める。
やがて歩行者用の信号の、青い光が瞬く。それでも僕の忠告を守ってくれたのか、今までのように彼女が駆け出す事はなかった。
だから信号が赤に変わる直前、猛スピードで横断歩道を横切った大型バイクも僕達はただ何気なく見つめるだけだった。……これで、第一の危機は去った。
問題は次だ。確かあのトラックは、記憶が確かなら次に信号が青になった時に突っ込んできた筈だ。
もたもたしてはいられない。信号が変わると同時に、急いでこの場を離れなくてはならない。
けれどさっき焦るなと言った手前、急に急いで渡ろうとすれば彼女は不審に思うだろう。それは駄目だ。何も知らない彼女を不安にさせたくない。
大丈夫。電車で考えた、その通りに振る舞えばいい。これで、きっと大丈夫な筈だ。
「ねぇ、向こう側まで競走しようか? あの頃みたいにさ」
「え?」
僕の提案に、彼女は一瞬きょとんとした顔になる。けれど、すぐに子供のように目を輝かせると大きく頷いた。
「いいね! じゃあ負けた方が勝った方にジュース奢りね!」
「オーケー。信号が青になったらスタートだよ」
僕がそう言うと彼女は信号に目を向け、色の変化に神経を集中させ始めたようだった。これでいい。トラックに注意を引かせてしまえば、逆に動けなくなるかもしれない。
視線だけを動かし、今来た方を確認する。確かトラックはあちらから突っ込んできた筈だ。彼女を助ける事だけに気を取られ、代わりに僕が死んではどうにもならない。二人で、生き延びなければならないのだ。
陽炎の揺らめく空気の中、次第に響くエンジン音。ちらりと彼女を窺うが、気にしている様子はない。やがて視界に、怪しく蛇行する大型トラックの姿が目に入った。あの時は混乱していたから本当に同じものかどうかの確信はないが、きっとあれがこれから突っ込んでくるトラックなのだろう。
視線を信号に移す。斜め向こうの歩行者用の青色が丁度赤に変わった。トラックを見る。だんだんこっちに近付いているのが解る。
青、黄色、赤。その色の移り変わりがまるでスローモーションのよう。あと少し。あと少しで……。
「どんっ!」
彼女がそう言って駆け出すのと、信号が青に変わるのとは同時だった。僕もそれに遅れるまいと、全力で足を動かす。
かけっこなんて、本当に小学生の時以来で。昔から僕より彼女の方が足が早かったな、なんて緊張感のない考えが浮かぶのは、ほぼ同時に駆け出した筈の彼女の姿がもう僕の体一つ前にあるからか。
――ドガッ!
しかしそんな思考も、すぐ背後に響いた派手な衝突音に掻き消される。まず彼女が振り返り、そして僕もつられるように振り返った。
見えたのは、少し前に見たばかりの光景。信号の柱に運転席をめり込ませたさっきのトラックが、ぶすぶすと黒い煙を上げている。
漏れ出たガソリンの嫌な臭いが鼻につく。その臭いにあの恐怖が蘇る。顔の半分ない姿で倒れる彼女。あの地獄のような光景。
「何……あれ……」
「!!」
けれど間近に聞こえた彼女の声が、僕を現実へと引き戻した。そうだ。彼女はあそこにいない。
振り返る。映ったのは、青ざめ立ち竦む彼女の姿。大丈夫。彼女は無事だ。
「っ雫、早く離れよう」
胸に拡がる安堵と共に冷静さを取り戻した僕は、彼女の手を引き横断歩道を渡り切った。思ったより長く歩道の上にいたのか、到着と同時に真上の信号が点滅しだす。
「はぁ。……危ない所だったね」
「……」
一息吐いて、彼女の方を振り返る。彼女はまだ青い顔をしながら、きゅっと強く唇を噛み締めている。
「……雫」
小刻みに震える彼女の肩に触れると、彼女は緩慢な動作で僕の顔を見た。そして、噛み締めすぎて微かに血の滲んだ唇を漸く開く。
「……雅樹君が」
彼女の目が微かに潤む。やっと感情が現実に追い付いた、そんな風に見えた。
「雅樹君が……あの時、競争しようって言わなかったら今頃、私」
「大丈夫だ」
そんな彼女に、僕は力強い笑みを返す。今彼女を支えられるのは僕しかいない。僕が、しっかりしなければいけないのだ。
「今、僕らが無事でいる。……それでいいじゃないか」
「でも……」
「行こう。もしかしたら爆発するかも」
まだ何か言いたげな彼女の手を強引に引き、僕はその場を離れた。彼女は大人しく、黙ってついてきた。
辺りには、蝉の声だけがただ五月蝿く鳴り響いていた。
「それにしても雫ちゃん大きくなったわねぇ。雅樹君も」
すっかり白くなった短い髪に緩くパーマをかけたお婆さんが、談話室のソファーで一息吐く僕らに冷たい麦茶を運んでくれる。この人はこのペンションのオーナーの奥さんで、人当たりの良さそうな柔和な笑顔は僕の記憶にあるそれと全く変わらない。
「あ、ありがとうございます」
僕はそれを受け取り、一口口にする。心地好いエアコンの冷房と合わせて、外の熱気にすっかり湯だった体を冷ましてくれるかのような冷たさに思わず目を細めた。
僕は何とか彼女を守り抜き、遂にここまで来る事が出来た。
途中で出会った危険はもう思い出したくもない。暴走車両、途中にあった工事現場で起きた事故。まるで総てが彼女の命を奪いに来ているようで。
実際は偶然に過ぎないのだろう、そう思いたい。けど今の僕には、その偶然総てが敵だった。
「……やっと、ゆっくり出来るね?」
僕以上に憔悴し、疲れた様子の彼女が麦茶を啜りながら、それでも懸命に弱々しい笑顔を作る。自分が前に三度、死んだ事など知る由もない彼女からすれば今の状況などただいたずらに不安を膨らませるばかりなのだろう。
「うん、暑い中ずっと歩いてきたしね」
「そうじゃなくて……」
「……たまたま、今日はどっちかの運が最高に悪い。それだけだよ。それももうおしまい」
「……うん」
僕の励ましに彼女は頷くけれど、その表情は変わらず晴れないまま。そして僕自身もまだ、不安が消えた訳じゃない。
ひとまず今日は乗り切ったと考えていいだろう。僕達の泊まる部屋は一階で、ならば階段を踏み外すような心配をする事もない。
問題は明日以降で。今日で彼女の危機が終わるならいい、けれどもしこれからもずっとこれが続くとしたら?
ここにいる間なら僕が守ればいい。けれど帰ってしまえば四六時中共にいて守るなんて事は常識的に考えて出来やしない。
彼女の両親に話してみる? だが果たして信じてくれるだろうか。彼女を失った後の二人なら協力してくれるかもしれないが、僕が彼女と共に帰れたとして時間は夏のままなのか、それとも僕の来た秋に戻るのか……。
「……ん?」
そこまで考えた時、また僕の脳裏に小さな違和感がよぎる。……まただ。
何がそんなに気になるんだ? タイムスリップや巻き戻しの理由? ……いや違う。そうじゃない。
「そうだ。おばさん、今日の夕飯は私に手伝わせて」
「あらあら悪いわ。お客様にそんな事……」
「私、料理上手くなったのよ。それに……何かして気をまぎらわせたいの」
「……そう? それじゃあお願いしようかしら」
「じゃあ雅樹君、行ってくるね」
「……うん。気を付けてね」
立ち上がり奥さんと一緒に厨房へ向かう彼女を横目で見ながら、僕はまた思考に没頭する。何か、何かを忘れている気がする。大事な何かを……。
もう一度、手紙が届いてから今までの経緯を思い返してみる。思い出したくない、彼女の死に様まで総てを何度も脳内で再生させる。
「……あ……」
考えて、考えて、どれくらいそうしていただろう。漸く僕は、その疑問に辿り着いた。
――彼女の両親は、一体どこにいるんだ?
そう、彼女は一人でこの高原に来た訳じゃない。ここには家族旅行で来た筈なんだ。
今までは彼女に会えた嬉しさで、彼女が生きていた安心感で、そんな事思い出しもしなかった。でも思い返せば、僕は二人を一度も見ていないし彼女も話題にすらしていない。
これが彼女が死んだ夏の再現ならば、時間が過去に戻っているならば二人はいないとおかしい筈だ。けれど、いない。
いや、そもそも本当に過去にタイムスリップしているとしたなら。彼女が、あんな風に僕を待っている筈すらないのだ。
「じゃあ、ここは、一体、何だ……?」
「きゃああああああああっ!!」
僕がその疑問を口にした時。それ以上の思考を遮るかのような、大きな悲鳴が響いた。
「!!」
慌てて立ち上がる。今のは女性の悲鳴。まさか……まさか。
「……雫!」
悲鳴の意味を、深く考えるより前に。僕は既に、キッチンへと向けて走り出していた。
「雫! どうし……」
キッチンに飛び込んだ僕は、思わず息を飲んだ。
彼女が踊っていた。いや、そう見えた。その体を、炎に包まれながら。
「ああああっ、いやああああああああっ!!」
ここに来るまでの間ずっと聞こえていた苦悶の悲鳴は今も止まらない。僕はやっと我に返ると、来ていたシャツを脱いで彼女を取り巻く火を払おうとした。
「あ、あわわ……」
奥さんを見ると、すっかり腰を抜かしてただ僕らを眺めている。目は恐怖に見開かれ、体育座りの形になった足は大きくガクガクと震えていた。
「何があったんですか!」
火を払う手は止めずに奥さんに声をかける。奥さんは暫く口をパクパクと金魚のように動かした後、やっと声を発した。
「料理を……していたの……そうしたら……フライパンから炎が……消そうとした雫ちゃんの体に、あっという間に広がって……」
「そうだ、消火器! 消火器はないんですか!」
「そ、そうだわ、消火器……」
僕の呼び掛けに奥さんは、腰が抜けたままなのか四つん這いになって消火器を探し回り始めた。……駄目だ、奥さんには悪いがとても間に合うとは思えない。
「……ぐ、が……」
声帯をやられてしまったのか、最早彼女の口からは潰れたような呻き声しか出てこない。勿論手を止める事はなかったが、彼女を取り巻く炎の勢いは布を被せてどうにかなる範疇をとっくに超えていた。
「雫! 雫っ……!」
それでも僕は必死に彼女の名を呼び、手を動かし続けた。シャツに火が燃え移ってもなお、それしか僕に出来る事はないから。例えその先に見えているのが絶望だけでも。
視界に映る彼女の姿は、目を覆いたくなるようなものだった。小麦色の肌はすっかり爛れて赤黒い肉をちらつかせ、それもまた炎に焼かれ色を失っていく。
瞼は肉が焼けて張り付いたのか開く事はなく、唇を失った口は酸素を求めて今も緩慢に開閉するが、入り込むのは熱気だけであるようで苦しげに掻きむしられた首筋には火傷の他に、爪で皮を剥いだ無数の痕が残されていた。
「雫、もう少しだから! すぐに奥さんが消火器を持ってきてくれるから!」
気が付くと涙で視界が滲んでいた。解っている。今更炎が消えたって、例え命が助かったってこれじゃもう彼女は……。
力を使い果たしたのだろうか、いつしか彼女は動くのを止めていた。肉と髪が焼ける不快な臭いが鼻につく。シャツに移った炎は指に届く所まで広がり、僕は遂にシャツを持てなくなり手を離した。
肩を落とし、膝を床に着く。また彼女を救えなかった。また……。
ぐるり、回転する世界。また巻き戻るのだ、と僕が理解すると同時に、一気に意識が暗転した。
「次こそ……死なせないから」
その一言を残して、暗転した意識は完全にぷつりと途切れた。
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