二回目

 ガタン、ゴトン、という規則正しい音が聞こえる。

 同時に視界が、体中の感覚が、急速に戻ってくるのを感じた。


「――え?」


 気が付けば、僕は電車の座席に一人座っていた。

 急いで辺りを見回す。人の疎らな車内は、空調の効いた心地好い空気に満たされている。

 ……夢、だったのだろうか。顧問の先生から彼女の死因を聞いていたから、あんな夢を見たのか。

 それにしてはいやにリアルだった。季節外れの日差しの眩しさ、繋いだ彼女の手の柔らかな感触、そして倒れた彼女を覆う鼻につくガソリンの臭い……。

 不安に駆られ、バッグを開けてみる。中には財布と、一通の手紙。彼女の筆跡の残る、あの手紙。

 ……良かった。手紙の存在は夢ではなかった。それもそうだ。でなければ、今僕がこうして電車に乗っている説明がつかない。

 混乱の残る僕の耳に、葦原高原へと到着するアナウンスが響く。……そうだ、降りなければ。あれが夢だったのか、彼女は本当にいるのか……それを確かめる為に。

 緊張に溢れる唾を飲み込みながら、僕は電車が停止するのを待った。



 電車を降りた僕の身を包むのは真夏の蒸し暑い空気。その感覚に僕は、嫌が応にでもさっきの夢を思い出す。

 ……いや、あれは夢だ、ただの夢だ。けど、十月なのにこの熱気は……。

 心中を不安に満たされながら改札を抜ける。駅から出ると、僕はすぐに彼女を探すように辺りを見回した。


「遅いよ、雅樹君!」


 ――いた。ポニーテールにした髪に被せた麦わら帽子。水色のノースリーブのワンピース。それら総てが、さっきのあの夢のままで。

 自然と目頭が熱くなっていくのが解った。良かった。生きていた。生きていてくれた――。


「……雅樹君? どうしたの、ぼーっとして。熱中症?」

「っ、雫……」


 いつまでも動き出さない僕に、笑顔で呼び掛ける彼女。総てが夢のまま、けど、もうそんな事はどうでもいい。

 気付けば僕は彼女に駆け寄っていた。あっという間に近付く彼女の姿。僕の様子を察してか、その瞳に不思議の色が浮かぶ。


「雅樹く……きゃあ!?」


 再度呼び掛けようとする、その声を遮って僕は彼女を抱き締めた。拍子にずれた麦わら帽子が、そのままぱさりと地面に落ちるのが視界の端に映る。


「良かった、生きてた、雫……」

「……雅樹君……」


 腕の中に、ダイレクトに感じる温かな体温。夢じゃない。これは夢じゃない。確かに今、彼女はここにいる――。


「……あの、皆、見てるよ」

「え? あ……」


 恥ずかしそうな声に、ふと我に返る。辺りを見回すと、駅から出てきたのだろう何人かの通行人が怪訝そうにこちらを見ている。その視線に、僕は反射的に彼女を腕から解放した。


「ご、ごめん!」

「だ……大丈夫……」


 今頬が熱いのは、きっと気温のせいだけじゃない。彼女の顔を見れば、日に焼けた顔がほんのり赤く染まっているのが見えた。

 そうだ。他の人だけじゃない、彼女だって、いきなり白昼堂々抱き締められたら訳が解らないのは当然じゃないか。彼女が生きていた喜びに胸が一杯で、そこまで頭が回らなかった。


「あ、あの! ……嫌な、夢を見たんだ。……それで」

「そうなの? 子供みたいだね」

「うん……本当にごめん……」

「気にしてないよ。それに……」

「それに?」


 そこで彼女は言葉を切り、僕の目をジッと見た。……嫌でも、心臓が高鳴るのが解る。


「……」

「雫?」

「……鈍感」

「え?」


 暫く見つめ合う僕達。先に拗ねたように目を逸らしたのは、彼女の方だった。


「さ、いいから早くペンションに行こ!」


 落ちた麦わら帽子を被り直すと、彼女が強引に僕の手を取る。僕は首を傾げながら、ただ黙って頷き彼女に連れられるまま歩き出した。



 少し歩くと道は交差点へ。歩行者用の信号は、今は青く点灯している。

 急に、胸に不安が蘇るのが解った。夢では、この交差点で彼女は……。

 ……いや、あれは夢だ。夢なんだ。そう必死で自分を納得させようとしても、不安は消える事はない。


「あ、信号変わっちゃう!」


 僕の不安を更に煽るように、目の前に来た途端に点滅し始める信号。繋いだ手の感触が離れていく。彼女が走っていってしまう……。


「駄目だ!」

「え?」


 気がつけば、僕は反射的に彼女の腕を掴んで自分の方に引き寄せていた。彼女は僕を振り返り、きょとんとした顔をする。


 ――その次の瞬間だった。信号無視の大型バイクが、目の前を猛スピードで走り抜けていったのは。


「きゃっ! 危ないなぁ、もう……」


 今見たものに思わず放心した僕を余所に、彼女が当たり前の文句を呟く。それから僕を振り返り、爽やかな笑顔を浮かべてみせた。


「雅樹君、ありがと! 雅樹君が引き止めてくれてなかったら、私、轢かれてたかも」

「い、いや……」


 何とか返事を返すけれど、彼女が守れた喜びよりも、僕は今見たものが恐ろしくて仕方がなかった。

 ……総てが、さっきの夢の通りだ。咄嗟に僕が引き止めなければ、きっとあの夢の通りに、彼女は。

 いや、あれは本当に夢だったのか。夏の空気も彼女の手のぬくもりも、鼻につくガソリンの臭いも。今でも鮮明に思い出せるほど、総てがリアルだった。

 巻き戻ったのか。不意にその考えに至る。理由も解らないし根拠もまるでない。けれどもし、彼女が轢かれた所から僕が電車に乗っていた所まで一気に時間が巻き戻ったのだとしたら……。

 そこまで考えて僕は首を小さく横に振った。……あまりにも馬鹿げている。それなら予知夢を見たと考えたがまだ現実味がある。そうだ、やはり理由は解らないが僕は彼女の危機を夢に見て、そして現実でそれを救った。……それでいいじゃないか。

 そう自分を無理矢理納得させながら、僕はもう一度首を小さく横に振る。彼女が一度でも死んだのだという、その可能性を必死で頭の隅に追いやった。

 そう……そうだ。どっちみち彼女は今生きていて、これから楽しい一日が始まるのだ。……切り替えよう。折角二ヶ月ぶりに彼女に会えたのに。

 ふと彼女を見れば、心配そうな不審そうな、そんな目で僕を見ている。総て言ってしまおうかとも思ったが、やはりそれは躊躇われた。……自分が死んだと聞かされて、いい思いをする人間などいる筈もない。


「……雫が今のバイクに撥ねられていたらと思うと、怖くなったんだ。ごめん」

「そっか。……大丈夫だよ、雅樹君。雅樹君が助けてくれたから、ほら、私怪我も何もないよ」


 とりあえず誤魔化しの、けれど嘘でもない言葉を告げると彼女は小麦色の両手を広げ、くるりと一回転してみせた。その仕草に、心の中の不安が溶けていくのが解る。

 ただ、目の前の彼女が愛おしい。その想いだけが僕を満たしていった。

 自然と僕の手が彼女に伸びていく。彼女もそれを掴もうと手を伸ばし……。


「! 雅樹君っ!」


 突然、彼女の顔色が変わった。その目は僕ではなく、その後ろを見ている。


「え?」


 僕が確認しようと振り返るより早く、僕の腕を掴んだ彼女が僕を横断歩道へと強く押しやった。急な事に対応出来なかった僕の体はよろけながら焼けたアスファルトの上に投げ出され、尻餅を突く。視界の端に映った歩行者用の信号は、いつの間にかまた青く光っていた。


「しず……」


 口に出しかけた言葉は気付かなかったエンジン音に掻き消された。膝の曲がった足の先すれすれに、巨大な車が飛び込んで視界を覆う。そして、その覆われた視界の先には……どこか諦めたように笑う、彼女がいた。

 ブレーキ音は、なかった。空気を切り裂く激しい衝突音、それで漸く景色は静止しそのまま動かなくなった。


「……え……」


 何が起こったのか、全く理解出来なかった。彼女が僕を突き飛ばした、その直後にこの……大型のトラックが視界に飛び込んできた。

 衝突音がした。ああ、トラックの運転席が信号機にぶつかってめちゃくちゃに壊れている。そういえば彼女はどうしたろう。最後に見た時は確か……。


「――――!!」


 そこまで考えて、やっと思考が現実に追い付いた。立ち上がって彼女の元に駆け付けようとするも、腰が抜けてしまったのか上手く足に力が入らない。

 仕方なく僕は、地面に四つん這いになってまるで生まれたての仔馬のような動きで前に進んだ。鉄板のように熱いアスファルトが掌を軽く焼いたが、痛みは全く気にならなかった。

 少しずつ、トラックの反対側の様子が見えてくる。細かいガラス片が辺り一面に散らばり、エンジンが傷付いたのだろうか、それを覆うようにガソリンが広く地面に流れ出ている。


「!!」


 彼女は、その更に向こう側に倒れていた。スニーカーの片方脱げた、擦過傷だらけの足が力なく横たわるのだけが見える。


「雫っ……雫!」


 這いずり回る手足にガソリン塗れのガラス片がめり込む。アスファルトの熱以上のその痛みも、僕の歩みを止めるには至らない。固い欠片に切れた掌から血を流しながらも僕は、何とか彼女の全身が見える場所まで移動した。


「雫、しず……く……」


 必死に名を呼びながら近付いた僕の目に、赤黒い水溜まりが飛び込む。先程の夢にはなかった情景。ああ、だってあれはただ撥ね飛ばされただけだったから。

 血液として見るには黒く。ガソリンとして見るには赤く。そうか、二つが混ざってこの色なのだとやけに冷静にそんな事を納得したりした。

 清潔感を覚える水色のワンピースは水溜まりにどんどん染まり色を変え。麦わら帽子はどこへいってしまったのか全く見当たらない。

 こんな益体もない事ばかり考えてしまうのは認めたくないから。目の前にあるものを。

 そう、僕の目に映る、その身をトラックの真横に横たえた彼女には――。


 ――顔が、右半分、なかった。


 そこで、僕の意識はまた途切れた。

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