一回目

 電車を乗り継ぎ片道一時間半。それがこの街から葦原高原までの距離。

 平日、しかも昼過ぎの車内には人影もまばらで。短い椅子が二つ向かい合う形の席に座りながら、僕はぼんやりと目まぐるしく流れ行く風景を眺めた。

 ――あの手紙が本当に彼女からのものである保証など、どこにもなかった。

 彼女の文字は確かに特徴的であったがそれ故に真似るのは容易いし、何より普通死者から手紙が来るなど有り得ない。そんな思考が浮かぶ程度には、僕は自分を見失ってはいなかった。

 それでもこうして電車に乗ったのは、縋りたかったからだ。何でも良かった。彼女にもう一度会えると、僅かでもそう思わせてくれるなら何でも。

 何度か電車を乗り継ぐ度に、コンクリートの灰色ばかりだった景色に徐々に緑が混じり始める。十月の澄んだ青空に照らされた自然の風景は、もし僕の心に何の重しもなかったならば素直に美しいと、のどかだと思えただろう。

 最後の電車に乗ると、自然と動悸が早まるのを感じた。果たして本当に彼女はいるのか。それともただの悪戯なのか。

 もうすぐそれがはっきりする。確かめたい、けど怖い。相反する二つの感情を抱える僕を乗せ、やがて電車は葦原高原へと到着するアナウンスを告げた。



 電車を降りてすぐ、違和感に気付いた。

 蝉が鳴いていた。いくらまだ本格的に冷えていないとはいえ今は十月で。それも一匹ではなく、複数の蝉が合唱しているのだ。

 そして体にまとわりつくようなこの熱気。電車に乗る前は、涼しいぐらいだった筈なのに。

 降り注ぐ強い日差しに戸惑いながら、僕は改札を抜ける。そして駅を出るとすぐに、誰かから声をかけられた。


「遅いよ、雅樹君!」


 ――時が、止まったかと思った。

 大きく手を入れていない長い黒髪をポニーテールにし、その上から麦わら帽子を被り。清潔感のある水色のノースリーブのワンピースに身を包んで。

 誰よりも、何よりも、会いたいと思っていたその人が、振り返ったその先に。


「……雅樹君? どうしたの、ぼーっとして。熱中症?」


 再度、声をかけられて意識が現実に戻る。……彼女、だ。間違いなく彼女が目の前にいる。

 亡霊、にしては酷く健康的で。ワンピースの形に小麦色に焼けた素肌が瑞々しく、浮かぶ笑顔はまるで太陽みたいに眩しかった。


「あ、ああ、いや、大丈夫」

「そう? ならいいけど」


 やっとそれだけ言葉を絞り出すと、僕は恐る恐る彼女に歩み寄る。近付けば、幻のように消えてしまうのではないか……そんな事を思いながら。


「やっと来てくれたね。ずっと待ってたんだよ」

「え……?」


 微笑み首を傾げる彼女。その言葉に違和感を感じつつも、僕の足は止まらない。

 待つ、とはどういう意味なのか。まさかここはあの世なのか。あの思い出の場所によく似た。

 ……いや、それでもいい。彼女のいない世界よりはずっといい。

 気が付けば彼女との距離は間近。手を伸ばせば、簡単にその肌に触れる事の出来る位置に僕はいた。


「じゃあ、行こっか」

「どこへ?」

「決まってるでしょ。あのペンションだよ」


 あのペンション。思い出すのは、小さい頃に泊まったあの白い小さなペンション。年配の夫婦が二人で切り盛りしていて、子供好きなのか僕達にとても優しくしてくれた。


「……まだあったんだね」

「当たり前でしょ。失礼だよ雅樹君」


 窘めるように言いながら小さく笑う、その仕草一つ一つが愛おしい。もしかしたら、彼女が旅行に行ってからの日々の方が夢だったのではないか。そんな事すら思えてくる。


「ね、行こ?」


 急かすように彼女が僕の手を取る。その感触はとても柔らかで、温かくて。

 それを感じた瞬間、僕はもう些細な疑問など総てどうでも良くなった。


「……うん」


 そして僕らは熱気に汗ばむ手を繋ぎ。車通りの少ない道路を歩き始めた。


 ――その、ほんの僅か後の事だった。


 歩いた先にあったのは信号機。青を示していた歩行者用の信号は、チカチカと点滅し変わりかけていて。


「あ、変わっちゃう!」


 繋いでいた彼女の手がするりと抜けたのが解った。彼女はポニーテールを揺らしながら、横断歩道へと駆け出していき。


「あ……」


 危ないよ、そう声をかけようとした次の瞬間。


 ――彼女の体は、ゴム毬のように軽々と左に吹き飛んでいた。



 白い雲が模様を作る青空に、麦わら帽子が高々と舞った。


 ゴロゴロと地面を転がる彼女の横を、大型のバイクが逃げるように通り過ぎていく。


 水色のワンピースが、血と砂で見る間に薄汚れていく。


 そして、漸く回転を止めた、目を見開いたままの彼女の体の上に麦わら帽子がぱさりと落ちた。



 何だ、これは。僕は悪夢を見ているのか。

 だってさっきまで、僕らは笑い合って。繋いだ手の温もりや感触だってまだ残って。

 こちらを見たまま瞬き一つしない彼女の目はまるでガラス玉で。頭から流れた血がその中に入り、白目を赤に染めていく。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。彼女が、こんな、こんな……。

 真っ白になった思考のまま、僕の視界は急激に暗転した。

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