re:wind

由希

プロローグ

 ――彼女が死んだのは、夏休みも終わりに近付こうとしていた八月のある日の事だった。



「家族旅行?」

「うん、ほら、お盆の時期はどこも人でいっぱいでしょ? だからずらして行こうって、前々から皆で話してたんだ」


 季節は夏。部活の練習の休憩中、湯だって温くなったペットボトルのお茶を片手に僕らはそんな話をした。

 僕らは吹奏楽部で、陽の光がさんさんと降り注ぐ屋外で動き回らなければいけない運動部と比べれば屋内にいられるだけマシなのかもしれないが、そこは貧乏県立校の悲しさ。部活中の冷房なんて許可されていない為、結局蒸し暑いのは変わらない。


「どこ行くの?」

葦原あしはら高原。ほら、昔は雅樹まさき君ちの家族ともよく一緒に行ったじゃない」

「ああ……」


 言われてぼんやりと思い出す。あれはまだ僕が小学生の頃だっただろうか。

 その頃僕と彼女の家族は家が隣同士だった事もあって仲が良く、長期の休みの時はよく合同で旅行に行ったものだった。

 中でも今話に出た葦原高原には毎年のように旅行に行っていて、特に仲が良かった僕と彼女は今思えばあまり遊ぶもののなかった高原で、そんな事も構わずに日が暮れるまで元気に遊び回った記憶がある。

 もっともその後、中学に上がる前に僕は父の転勤で他県に引っ越し、こうしてこの町に奇跡的に帰って来れたのはつい去年の事なのだが。


「懐かしいよね。あの頃私達、殆ど毎日一緒に遊んでたよね」

「うん」

「雅樹君が引っ越してった時、私、もうこれで雅樹君には会えないんだなってどこかで諦めてた。いくら仲が良くても、子供の私が会いに行くには遠すぎる距離だったから」

「……うん」

「……まさか、雅樹君がまたこの町に戻ってきてしかも、同じ高校の同じ部活になるなんて。そんな映画みたいな事、本当に起こるなんて思ってもみなかった」

「……しずく……」


 遠くを見つめるような彼女の横顔を、じっと見る。思い出の中の幼かった少女は今、あの頃の面影を残しながらも美しい大人の女性の姿へと変わろうとしていた。

 夏の日射しに少し小麦色を帯びた肌。白い半袖と紺のスカートからすらりと伸びた長い手足。

 特に、大きく手を加えていない長い黒髪をポニーテールにした、その下の後れ毛を覗かせたうなじが特に僕の目に印象的に焼き付いた。


「忘れた事、なかったよ。雅樹君の事」


 そのまま僕の方を向かずに彼女がぽつりと呟いた。そして飲みかけのペットボトルに口を付けると一気に飲み干す。

 ……僕だって、君を忘れた事なんて一度もなかった。だって、あの頃から僕はずっと君を……。

 そう返したいのに、意気地のない僕の唇は動かずに。ただ黙って、彼女を見つめ続ける事しか出来なかった。


「ねぇ、雅樹君には特別に何か個人的にお土産買ってきてあげる。何がいい?」

「え? あ、ああ、そうだな、それじゃ……」


 やがて彼女はこちらを振り返り、いつもの口調で話題を戻す。僕は胸の高鳴りを悟られないようにしながら、笑顔でそれに相槌を打った。

 ……もし、時をこの瞬間に戻せたなら。僕は彼女に、何を伝えただろうか。

 彼女にこの秘めた想いを告げ。家族よりも僕と過ごして欲しいと、そう伝えたら今と何かが変わっただろうか。

 だけど時は決して戻る事はなく。前へ前へ、ただ無慈悲に進んでいくばかり。

 僕は知らなかった。この甘酸っぱくて、穏やかで、これからの希望に満ち溢れていた一時が……。


 ――彼女と過ごす、最後の時間になる事を。



 彼女が旅行で部活を休んだその日、どこか空虚な一日をぼんやりと過ごしていると突然、顧問の先生が部員全員を召集した。

 パート練習を中断してまで先生が僕らを集める事などこれまで一度もなく、僕は友人達と共にどうしたんだろうと首を傾げた。……先生の口から、あの言葉を聞くまでは。


「皆、どうか落ち着いて聞いてくれ。今日休んでいる、トランペット担当の二年の小池こいけが……」


 小池。それは彼女の苗字だ。僕の胸に、急速に不安が広がっていく。

 先生はそこで一旦言葉を切り、いつも消える事のない眉間の皺をより一層深めた。そして大きく息を吸い、あの――残酷な言葉を口にした。


「……小池が、旅行先で事故に遭い、亡くなった」


 それを聞いた瞬間。僕の思考は完全に停止した。



 その後、どう時を過ごし、どのように家に帰ったか僕は覚えていない。

 気が付いた時には制服のままベッドに横たわり、ただぼんやりと見慣れた天井を眺めていた。

 ――即死、だったという。駅を出て歩いていた所を、信号無視のバイクに撥ねられて。

 それ以外の事はまるで覚えていないが、彼女のその死因だけはぐちゃぐちゃの記憶にはっきりと刻まれていた。

 彼女が、もういない。思考ではそう認識出来ても、心はまるでそれに付いていかない。

 涙は一滴も出なかった。実感がなくて。信じたくなくて。認めたくなくて。泣いてしまったら、彼女の死を完全に認めてしまうようなそんな気がして。

 脳裏に浮かぶのは、幼い頃からついこの間までの彼女と過ごした日々の思い出。とりとめなく、時系列もまるで出鱈目で、それでも絶える事なく繰り返し、それらが脳内に再生されていく。

 ――初恋、だった。初めて他の誰とも違う存在と思った、それが彼女だった。まだ世の中の道理なんて理解していない頃から、ずっと抱き続けていた想い。

 それが、もう叶わない。永遠に。そんな事がすぐに認められる強い人間が、果たして世界にどれぐらいいるだろう。少なくとも、僕には無理だった。


「雅樹、晩ご飯は……?」


 不意に部屋をノックする音と共に、母親の声が響く。ふと窓を見ると、カーテンが開いたままのそこからオレンジ色の弱い光が差し込んでいた。


「……今日は、いらない」

「そう……解った」


 母親はそれ以上は何も言わず、すぐに足音が遠ざかっていくのが聞こえた。家にも連絡がいっていたのか、それとも僕の様子から何かあった事を察したのか。それを気にする余裕は、この時の僕にはなかったが。

 それからも、僕は眠るのも忘れ、耐えかねた体が自然に意識を失うまで、ずっと彼女の事ばかりを考え続けていた。



 ――彼女の死を聞いてから、どれほどの月日が流れただろう。

 彼女の葬式には出なかった。その後も用を足す以外で部屋から出る事はなくなり、会話も部屋の外からの両親の呼び掛けに簡単な応答を返すだけで。

 出たくなかった。馴染みたくなかった。彼女がいなくなった世界に。

 彼女のいない部活。彼女のいない教室。彼女の、どこにもいない日常。

 見てしまえば、いつか受け入れてしまう。馴染んでしまう。それが嫌で。どうしても、嫌で。

 無理矢理にでも僕を外に出そうとしない、両親の気遣いがありがたかった。最初の転勤で僕を一緒に転校させた事を悔いているのだろうか、余程無茶な我が儘でない限り両親はいつもなるべく僕の願いを聞き入れてくれようとしていた。

 部屋に引きこもり始めた頃は、放置していたスマートフォンが何度も鳴った。通話なのかメールなのか確認もしなかったが、やがてその音すらも煩わしくなった僕はスマートフォンの電源を落として机の上に放置した。

 こうして僕は、彼女との甘い記憶に浸るだけの狭い世界を手に入れた。外の世界に未練はなかった。彼女のいない世界なんかに。

 そうやって一人の世界に閉じ籠り続け、次第に残暑が弱まり、冷えた空気が夜の部屋に混じり始めた頃……あの、出来事は起こったのだった。



「……ん……」


 その日も僕は、いつの間にか落ちていた意識をゆっくりと浮上させた。

 これも不眠と呼ぶのだろうか。どうしても眠る気になれず、体が限界を迎えるまで起きて彼女を想い続ける日々。

 不意に腹が空腹を訴える。食欲はないし、このまま何も食べなければ彼女の元へ行けるだろうかとも思うが、その思考自体が彼女のいない世界を認めてしまうようで、結局食事は必ず一回は摂るようにしていた。


「……起きようか」


 ろくに食事も睡眠も摂らず運動もせず、体力の落ちきった体をのろのろと起こす。目に入った置き時計は、十四時少し過ぎを示していた。


「……あれ?」


 扉を開けて気付く。いつも通り、ラップをかけてある作り置きの食事の横に、真っ白な封筒が置かれている事に。

 深く考えずにそれを拾い上げる。差出人の名前はなかったが、僕の住所と名が書かれた表面を見た瞬間どくり、と心臓が大きく跳ねるのを感じた。


「……雫?」


 彼女の、筆跡だった。あまり達筆とはいえない、癖のある独特な字。見間違える筈もなかった。

 封筒を持つ手が微かに震える。今になって届く、彼女の手紙。カレンダーは見ていないが、あれからもう一月以上は確実に経っている筈だった。

 何故。彼女は実は生きているのか。それとも、これは、いわゆるあの世からの……。

 震える手で、綺麗に糊付けされた封を開ける。中には、封筒と同じく真っ白な便箋が一枚。

 心臓の音がますます早まる。三つ折りにされた便箋を、僕は溢れた唾を飲み込みながら広げた。


『思い出のあの場所で、待っています』


 便箋にはたったそれだけ。彼女の字で、その一文だけが書いてあった。

 思い出の場所。嫌が応にでも思い出すのはあの葦原高原。子供の頃の輝かしい思い出の残る、そして……彼女の死んだ、あの場所。

 夢を見ているのだろうか。彼女に会いたいという僕の願望が、今この手紙を見せているのだろうか。

 解らなかった。だが、やる事は決まっていた。

 僕は急いで身支度を整えると、手紙となけなしの小遣いを持って、彼女が死んだ日以来となる外の世界へと飛び出していったのだった。

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