第5話 思いはいつだって

「ケンちゃん。十四日少し出かけてきます。夜までには帰ると思いますので」

「行くってどこに?」

「それは内緒です。その日だけGPS機能は外させてもらいますので」

「行くのは構わないけど、一人で大丈夫? もしトラブルが起きた場合には……」

「安心して下さい。無茶をするようなことはしませんので。ケンちゃんも就活? で一日いないんですよね?」

「ん、あぁ、そうなんだ」

 僕は正社員の為の就活をすると伝えてある。しかし、実際はココアとのデートであるがそれは口が裂けても言えない。

 と、いう訳で、クレハには変に怪しまれることもなくココアとのデート当日を迎えていた。

 デートの詳細は場所と時間。それに動きやすい服装で来てほしいという指定のみでデートの内容は知らされていなかった。

 場所は勤めている居酒屋から数分の距離にある大きな噴水だ。目印にもなるし、待ち合わせの場所としては分かりやすい。

 そして、何より気になったのは時刻である。現在の時刻は朝の七時である。夜行性と化した僕にとっては厳しい時間である。おまけに昨日というよりも今日の深夜二時に仕事を終えたばかりであまり眠れずにきてしまったので正直、立っているだけでも辛いほどである。時間を少し遅くしてくれないかと相談を持ちかけてみるもそこだけは譲れないと拒否されてしまった。一体、どんなデートプランを用意してあるのか不満が募る。

 待ち合わせ時間ピッタリについてみるもココアの姿は見当たらない。自分から指定したにも関わらず遅刻だけは勘弁してほしい。

 到着から一分後、思ったより早くココアは手を振りながら現れた。

「おはよう。アザラシさん。今日は清々しい日になりましたね」

 ココアはうざいくらいに満面の笑みで言った。ちなみに僕の今の気分はココアと全くの正反対である。そのテンションはいつまで続くのか先が思い知らされる。

「さて、アザラシさん。行きましょうか」

「行くってどこへ?」

「着いてからのお楽しみです」

 会っても尚、ココアは行き先を教えてくれない。

「安心して下さい。遊園地に行こうだとか、観光地を連れ回すだとか、そんな野暮な真似しませんから」

 それを聞いて少し安心した。そんなデートなら僕は真っ先に倒れているだろう。

「では、これをどうぞ」

 ココアはアイマスクを僕に差し出す。

「これは?」

「アイマスクです。目的地に着くまでの間、これを付けて下さいね」

「なんで?」

「なんでもです」

 答えになっていない。しかし、ココアはしつこくアイマスクを付けるように説得する。これを付けない限りはデートが始まらないので僕は仕方がなくアイマスクを付けることにした。何も見えない。

「こっちです」

 僕は視界が真っ暗の為、ココアに手を引かれ誘導される形になる。

 少し歩くとココアは車に乗るように言う。僕は助手席に乗らされる。

「ココア、車なんて持っていたんだ」

「違うよ。これはレンタル。乗り心地良いでしょ?」

「うん。そうだね」

 そうこう言っている間に車は発進する。

 現代社会では車は全自動運転が一般的である。その為、誰でも乗ることができ、事故することなく目的地に着くことが可能だ。だが、それは絶対ではない。機械はいつか壊れるものとよく言ったものでトラブルが発生すれば事故に遭う可能性は0ではない。

 全自動運転は目的地を入力してスタートを押せば寝ていても問題はない。そう、まるでバスやタクシーに乗っている感覚とほぼ同じである。

「アザラシさん。寝ていても良いよ。後、三時間は掛かるから」

「三時間? 一体、どこに向かっているの?」

「それを言ったら面白くないでしょ。私も寝るからおやすみ」

 ココアは勝手に話を切って毛布を羽織る音がした。なんだか取り残された感覚であり、尺にならない。アイマスクを取って外の景色を眺めようと思ったが、眠気に負けてそのまま眠りについてしまった。


「アザラシさん。アザラシさんってば。起きて下さいよ」

 ココアに身体を揺さ振られて僕は目を覚ます。

「よく眠れましたか?」

「んん。ここは?」

「目的地に着きました。どうぞ、外をご覧になって下さい」

 着いたということは三時間も熟睡してしまったことになる。

 アイマスクを脱ぎ去って僕はゆっくりと瞼を開ける。

「ここは……?」

 僕の視界に飛び込んできたのは真っさらな森林であった。大自然に覆われた環境にタイムマシンで過去に来てしまったような感覚である。ここは一体どこなのだろうか。

「ふ、ふ〜ん。驚いた? ちょっと街外れに出るとこんな大自然なところに出るんだよ」

 ココアは自慢げにそう言った。

「驚いた。でも、なんでこんな田舎に来たの?」

「ここは私の生まれ故郷なの。この大自然で私は育った」

「そうなんだ」と意外な視線をココアに向ける。派手な見た目に周りから注目を浴びないと気が済まない彼女にとっては意外な事実であった。

「と、言っても私がここに住んでいたのは十二歳まで。中学に上がると同時に今のところに住み始めた」

「と、なればあのお姉さんもここに住んでいた訳か」

「当たり前でしょ? 一足先に都会の学校の寮に入ってそこから一人で生活している。自立するのは一段と早かったと思う。私も寮に入ろうと思ったけど、定員オーバーで入れなかったから従姉妹がいる家庭に住まわせてもらったんだけど、色々あって追い出されて結局お姉ちゃんの家に転がり込んだ訳」

 その色々と言うのが借金や男を騙してきたことを物語っているのだと僕は納得する。

「それで、なんで僕が君の実家に訪れる必要があるの?」

「あーそれはね、結婚相手を紹介する為だよ」

「ふーん。そうなんだ。…………はい?」

「私の結婚相手を紹介する為に連れて来たんだよ?」

 僕はその意味を受け止めるのに時間を費やした。


 この場から逃げることも考えたが、何と言ってもここは僕が知らない田舎の地。おまけに行きの間、ずっと目隠しをされていたのでどのような道のりで来たのか全く分からない。よって逃げ出すことは不可能である。おまけに今日一日はデートをすると約束をしてしまった以上、逃げればさらなる追い討ちが待っていることは覆いに予想がついた。

「アザラシさんはもう逃げられません。私の術中にはまってしまったと言う訳です。状況を理解して頂けましたか?」

 敬語で、笑顔で言うココアは仮面を被った悪魔に見えていた。僕はまんまと騙されたと言うことになる。

「どういうつもりだ? 事情を聞く権利くらい僕にあるはずだ」

「ごもっともです。アザラシさんなら話が分かる人だと思っていました。実は私、実家の農家の跡継ぎをさせられそうなんです。田舎だから代わりの人がなかなかいなくて私に回って来た。しかし、私は断固として跡継ぎなんて真っ平ごめんです。汗臭いし疲れるし何と言っても私が輝ける場所じゃないと思いませんか? そこで考えたのです。結婚して都会から離れられない理由作ろうと考えました」

「それで僕を連れて来たのか。なんでそれが僕になる訳だ?」

「勿論、アザラシさんじゃなくても代わりの男なんていくらでも連れてこようと思えば連れて来られますが、どうせなら本命を連れて来た方が後々楽じゃありませんか。だから今回はアザラシさんを連れて来ました。それだけです」

「それだけって僕が本命なのか?」

「? そう言いましたよね?」

 どうやらココアは本気で僕のことが好きなようだ。嬉しくないといえば嘘になるが複雑な心境である。

「安心して下さい。アザラシさんは私のことは完全に好きではないことは分かっています。だから、今回は人助けだと思って私のお婿さんのフリをしてくれればそれでいいです。ね? 簡単でしょ?」

 僕にとってはかなりの難題である。そんな演技を僕ができるのだろうか。ただでさえ僕は正直なところがあるので変に嘘がつけない人間である。そこをココアは理解しているのだろうか。

 その後、話は終わり、車で徐行をしながら道ではない道を走ることになる。

「実家はどこにあるの? さっきから同じ景色が続いているようだけど」

「敷地内にはもう入っているよ。実家は……そうですね、後十分くらいは掛かるんじゃないかな?」

「え? ここがもう敷地内なの?」

「うん。敷地内はそうね……東京ドーム三つ分くらいはあるんじゃないかしら?」

「そんなに?」

 流石、田舎という感じである。土地が少ない都会に対して田舎では土地は有り余るようにあることを思い知らされる。

「あれを見て」

 ココアが指した方向に目を向けるとそこにはビニールハウスがあった。

「あそこで野菜を育てているの。キャベツとか白菜とか。それとその隣には鶏舎があるんだよ」

「へ、へー。凄いね」

「あれが実家だよ」

 見えて来たのは一戸建ての古い家であった。

 車を停めて降りる。

「はー。ここには正直、来たくないんだよね」

 ココアは大きな溜め息をしながら言った。それに比べて僕はココア以上に来たくなかった。

「ちょっと待っていて。中の様子を見てくるから」

 そう言ってココアは僕を取り残して家の中に入っている。鍵は掛かっておらず、普通に出入りができる状態だ。都会ではまずありえない現状である。

 ガサガサと茂みの方に音がする。何かいるのか。じっとその茂みを見つめていると中から鹿が顔を覗かせていた。あれもこの家で飼っている動物なのだろうか。しばらくすると奥の方へ走り出してしまった。

「おーい! アザラシさん」

 ココアはスライド式のドアから顔を覗かせ、こちらへ手招きをする。

「話はまとまった訳?」と僕が聞くと「微妙」と返されてしまった。

「今、お母さんと話して来たけどどうやらお父さんとしては納得していないみたい。でも、一回会って見ないと分からないから会った方がいいって」

「で、そのお父さんはどこにいるの?」

「あっち」

 ココアはビニールハウスを指で示した。

 僕たちはココアの父がいるというビニールハウスに足を踏み入れる。ココアが前に中へ入っていく。僕もそれに続く形になる。

「とーちゃん。帰って来たぞ!」

 中でキャベツの収穫をしている男性。ココアの呼びかけで振り向いたその男性は無精髭に強面の中年で身体つきもガッチリしており怖い印象だった。

「沙彩か? あれ? 今日来るんだっけ?」

「惚けた? 昨日、行くって言ったじゃん」

「そうだった。で、そちらの青年が例の人か?」

 ココアのお父さんは僕に険しい視線を送りながら言った。

 僕がビビっていると横からココアに「挨拶」と言われ、小突かれた。

「は、初めまして。九石賢人と言います。ココアさん……じゃなくて沙彩さんとは真剣にお付き合いさせて頂いております。今日はその、ご挨拶と言いますか、なんと言いますか」

 と、僕はココアに視線を送り、早くも助け舟を求めるが、ココアはそれに気づいていない。

「さざらし? 変わった名前ですな。娘と結婚するというのは本当ですかな?」

 嘘ですと即答してしまいたいところであるが、ここはココアの為に「本当です」と嘘をつくことを選んだ。

「まぁ、いい。話は後だ。今は仕事中だ。その後でゆっくり話を聞こう」

 ココアのお父さんは再び手を動かした。

「自分も手伝います。一人でこの量の収穫は大変でしょう」

「問題ない。どうしてもと言うのであれば手伝ってもらっても構わないぞ」

「素直に手伝って欲しいってお願いすればいいのに」と、ココアは呆れた様子で言う。

 素直じゃないところはココアと同じである。やはりこの二人は親子である。

 数時間程、農家の仕事を手伝っただけで普段では掻かないほどの汗が流れた。ココアはこのような仕事は拒否かと思いきや、意外にも率先的に手伝いをした。僕にアドバイスをしながらリードするようにココアは仕事をした。意外な一面を見られたことに感動する。ココアの印象がガラリと変わるほどに。しかし、出来て当たり前なのだ。ココアは小学校を卒業するまでは毎日のように農家の手伝いをしていたのだから。

 一日の仕事を全て終わった訳ではないが、お昼休憩の際に少し話す時間ができた。

「ありがとう。お陰様で仕事が少し早く終わった。せっかくだからご飯でも食べていきなさい」

 用意されていたのは先ほど収穫した野菜などのよりどりみどりのご馳走であった。

 作ってくれたのはココアのお母さん。ココアと似ているが、農家のせいもあるのか、ノーメイクに髪が乱れていて少し老けて見える。化粧をして整えたらそれなりの美人ママになっているであろうに勿体無かった。

「いただきます」

 手を合わせてご馳走を口いっぱいに放り込む。採りたてというのはどうしてこうも美味しいのだろうか。幸せであった。

「時に九石君。話の続きだが」とココアのお父さんは本題に入る。

 僕は箸を止めて聞き耳を立てる。

「君は今、いくつだ」

「今年、二十六です」

「職は?」

「居酒屋です」

「何だと?」

 突如、ココアのお父さんは険しい顔で迫って来た。ただでさえ怖い顔なのに目を細められたら迫力があった。

「まさか、アルバイトなんて言うんじゃないだろうな?」

「違うよ」と、ココアは間に入って来た。

「彼は居酒屋のオーナーをしているの。今は五号店まで進出させているんだよ。ね?」

 ココアはウインクをして話を合わせるように求めて来た。

「そ、そうなんです。居酒屋のオーナーをやらせてもらっています。はい」

 こんなにハッキリした大嘘を付くのに抵抗を感じたが押し切るしかないとヤケになっていた。

「ほう、その歳で居酒屋のオーナーに。それは対したものですな」

 ココアのお父さんは無精髭をワサワサさせながら言った。

「だからね、とーちゃん。私もその店の手伝いがあるから跡継ぎは出来ないの。分かってくれた?」

「一切分からん」

「え?」

 ココアは拍子抜けした。それは僕も同じ反応であった。

「沙彩。家族の約束はどうなった?」

 その問いかけに対してココアは顔をしかめた。

「約束って?」

 僕はココアに聞くがココアは答えようとしない。

「学生を卒業したら実家の後を継ぐ。そう約束をして都会の寮に入ることを認めたはずだ。結婚することに関しては認める。しかし、結婚するのであれば婿と共に実家の跡継ぎをしてもらうのが筋だと私は思う」

 そういうことか。大元の事情は把握できた。その約束を誤魔化す為に結婚の話を持ち出したが予想は大きく変わってしまった。

「それで? 九石君は本気で沙彩と結婚したいと思うのかね?」

「それは、はい。そうですけど」

「なら、仕事を辞めてここで働く覚悟はあるのかな?」

「えっと、それは……」

 正直、そんな覚悟は初めからない。そもそも、ココアと結婚すること自体偽りなのだ。そんな状態で、ここで働くなんて考えられない。

「二択だ。結婚を諦めるか、結婚して農家の後を継ぐか。どちらかを選んでくれ。もしも後を継ぐのであれば当然、住む場所も働く場所も変えてもらうことになるが、食べ物に困ることはないし住む場所だって一生確保される。収入も一般的な手取りがある。条件としては整っている環境だと私は思うが、どうだろう? それでも断るかね?」

 ココアのお父さんは圧をかけるように問い掛けてきた。

「それは……その……」

「あーあ。辞めた、辞めた」

 突如、ココアは伸びをして勝負を捨てたかのように言った。

「とーちゃん、ごめん。結婚するって話は嘘なんだ」

「え? ちょ……ココア。なんでバラすんだよ」

「ごめんね、アザラシさん。親にもあなたにも騙し続けていくのが心苦しくなっちゃって耐えられなくなったの」

「沙彩。お前……」

「うん。約束は約束だよね。荷物まとめて後を継ぐよ」

「ココア。それでいいの? あれほど嫌だったのにそんなあっさり諦めていいの?」

「よくはないけど仕方がないよ。そういう決まりだから」

 この間に僕は考えた。そして。

「あの、お父さん。ココアには……じゃなくて沙彩さんにはまだ今のところでやりたいことがたくさんあるんです。だから、今すぐに後を継ぐというのは難しいんです。考え直して頂けませんか? お願いします」

 僕は頭を深く下げた。

「やりたいこととは?」

 ココアのお父さんは睨むように問う。

「それは」

「待って」

 僕が答えようとした時、ココアはそれを止めた。どうやら自分の口から答えるつもりだ。

「私、借金があるって言ったでしょ? まずはそれを返すこと。その後は土地の経営者になりたい。その為には大金が必要になってくる。何年、何十年かかるかわからないけど、でも絶対に叶えたいです」

 ココアが言い切ってからココアのお父さんは更に険しい表情になる。

「なら、うちの有り余っている土地を使えばいい。場所は悪いが少しずつ広げていけば人も集まってくる」

「え、それって」

「農家を手放すのですか」と、僕は言った。

「村の者も手伝いに来ると言えど、我々だけでは支えていくのは厳しい。だったら何か形として残るのであれば喜んであげよう」

 僕とココアは顔を合わせて「やったー」と、飛び跳ねようとしたその時だった。

「但し、本気でやるのであれば親には相談すること。そして、くだらない理由で作った借金は即返すこと」

「はい。わかりました」

 ココアは素直に返事をした。

 結局、結婚するということも、農家の後を継ぐということもなくなった訳であるが、この先のココアの目標は定まった。僕はただ振り回されただけであるが、結果が良ければそれでよしとしておこう。

「ところで沙彩と九石君は結婚をしないということだが、二人は付き合っているのかな?」

「えっと、それは……」

 ココアのお父さんに問われ、僕はココアに助け舟を求めるが、当のココアは無表情でどこを見ているのか視線が合わなかった。

「まさか、付き合っていないとか」

 その通りです。と、答えたいところであるが、果たしてどう答えた方が正解なのか悩まされた。二人とも黙りであった。それを見たココアのお父さんは悟ったのか「そうか」と呟いて席を立って仕事に戻って行った。

「帰ろうか。アザラシさん」

「うん」

 そこからココアの実家を離れて車に戻り、来た道を再び走らせたのであった。

 しかし、その帰りの車内ではお互いが無言であった。ココアは僕と目を合わせようとせず、僕もそれを察して遠くを見つめていた。しかし、不思議と気まずさはなかった。

 僕たちの街に着いたのが二十一時を過ぎた頃だった。

「この車さ、レンタルだから返すの付き合ってもらっていい?」

「うん」

 車はレンタルした店に返してひと段落した時だった。

「実家の件、大丈夫なの?」

 ふと、僕はココアに聞いていた。

「時間はかかるかもしれないけど、なんとかするよ。私、二十一歳だからまだまだ充分時間あるから」

「二十一だったんだ」

「知らなかった?」

「うん。初めて知った」

「今日は変な事に付き合わせてごめんね」

「やけに素直だね」

「私だってそういう時はあるの!」

 ココアは少しムキになって言った。

「僕もごめん。事情もあまり分かっていないのに勝手な事を言って」

「私が言わなかっただけだからいいのよ。気にしないで。ありがとう」

 今のココアは素直に感謝の気持ちを伝えた。

「アザラシさん。何、顔赤くしているの?」

「え?」

 僕は頬に手を当てて隠した。

「ふふ。可愛い」

 そう言ってココアは僕の目をじっくりと見た。僕は恥ずかしさのあまり目を逸らそうとするが、身体が思うように動かなかった。まるで金縛りにかけられているかのように。

「ココア。僕はそろそろ帰るよ。もうこんな時間だし」

 それにクレハが僕の帰りを待っているのだからと心の中で呟く。

「ちょっと!」

「ん?」

「まだデートは終わっていないわよ」

「え? でも、もう夜も遅いし」

「私は一日デートをしてってお願いしたんだよ?」

「だから、今日一日デートした訳であって……」

「アザラシさん。一日って二十四時間あるんだよ?」

「それくらい知っているよ……まさか」

「そう、デートを始めたのは朝の七時。つまり」

「明日の朝七時まで拘束時間って事?」

「拘束時間って失礼ね。私と過ごす時間が不満?」

「ごめん。そういうつもりじゃないけど、そういう意味だったなんて知らなかったし」

「だって、言ったら来てくれないでしょ?」

 確かにそうだ。一日デートと聞けば誰だって朝から夜までだと思い込む。朝から朝までなんて無理がある。完全に騙された。

「悪いけど、デートはここまでだ。僕は帰らせてもらうよ」

 ココアを無視してその場を去ろうとしたその時、僕の左手が掴まれた。

「はい?」

「行かせない」

 ココアに冷たくそう言われた。次第に僕の左手は強く締め付けられた。痛い。

 逃げられない状況に陥り僕は冷静さを取り戻す為に語りかける。

「ま、待ってくれよ。仮に今からデートを続けるにしてもお互い今までのデートで体力は消耗して辛い状態だと思うんだ。それにもう二十一時を回っていて今から遊ぶ場所はほとんどない。どこも閉店だ。よってここで解散した方が得策だと思うんだ」

 間違いは言っていない。むしろ全て真実のみ語っている。これ以上遊ぶのは難しい。

「確かにそうね」

 思いの他、ココアも納得の様子である。これならうまく解散にこぎつけられそうである。

「そういう訳だ。だから今日はもう、解散ということで」

 今度こそ去ろうとするも左手は握り絞められたままに疑問を抱く。

「あ、あの、ココアさん?」

「じゃ、お互いの身体が休められて尚且つ、行く場所があれば問題ないってことだよね?」

「それはそうかもしれないけど」

「なら、名案があるよ」

「は、はい?」

 名案とはなんなのか。僕はココアから解放されず再び付き合わされる形になる。ついて来てと言われるがままにココアの後をついて行くことに。その先には一体何があるのだろうか、僕はココアが足を止めた場所に困惑する。

「あの、ココアさん? ここって」

「身体を休めることも出来るし、夜でも営業している場所としても問題ないわよね?」

「いや、確かに条件としては何も問題ないけど」

「けど?」

「ここはまずいんじゃないかと」

「なんで?」

「だって……ここ、ラブホだよ?」

 そう、ココアが連れて来た場所は都内にあるラブホテルである。

「それがどうしたの?」

 ココアは眉も潜めず平常心である。

「どうしたって」

「もしかしてアザラシさん、ビビっているんですか?」

 ココアは目を細めながら嘲笑った。ひょっとして僕は試されているのだろうか。怖じ気ついた反応を見せれば年上の男性として立場がない。どのような反応を見せれば正解なのだろうか。ただ、一つだけ言えることはというとココアはこのような場を何度も潜り抜け慣れているということである。ならば、僕がとる行動といえば。

「ビビる? 冗談はやめてくれよ。この僕がこんなんでビビる訳がないだろう。ふふふ。むしろココアの方が内心ビビっているんじゃないの? 実は!」

 この場の主導権を握ることだった。優位に立つことができれば驚いて逃げてしまうと踏んでいた。だからそれっぽいことを口にする。

「なら問題ないわね。じゃ、行きましょうか」

ーーえ?

 ココアは強気の僕に対して全く動じることなくラブホの入り口に向かって歩み出した。予想外とまでは言わないが、ここまで平常心でいられるのに軽くショックだった。

「何やってんの? 早く行こうよ」

 ココアは手を振って僕を呼ぶ。

 行くしかないのか。いいのか。本当に行ってもいいのだろうか。

 そんなことを考えているうちにいつの間にか部屋の中に入っていた。部屋の空きがないことを祈ったが、何部屋か空いていた。残念なことに。受付は人と会うこともなく部屋のカードを抜くだけという簡単なもの。

 ガッチャと扉が施錠する音が響き渡る。内側にドアノブはなく押しても開かなくなってしまった。

「あれ? 扉、開かなくなっちゃったよ? もしかして閉じ込められた?」

「はー」

 ココアはジト目をしながら大きな溜息を吐いた。

「何?」

「アザラシさん。やっぱり強がっていた割には何も知らないんですね」

「どういうこと?」

「ラブホは基本、入ったら退出するまで途中退出はできないんですよ。出るなら内線で電話する。当然ですよ?」

「何で?」

「何でって、無銭宿泊させないようにじゃないんですか? 基本、ホテルの人と顔を合わさないシステムだろうし。てか、本当に何も知らないんですね」

「うっ!」

 恥をかいてしまった。自分が情けない。

「ねぇ、こっち来て」

 ココアはベッドに腰を下ろした。誘っている?

 僕はとりあえずココアと正反対の位置に腰がけた。

「何でそんなところに座るの? 隣に座ればいいのに」

「いや、でも……」

「怖いの?」

 ココアは揺すった。

「そりゃ、怖いよ」

「何で?」

「だって、こんな展開は今までになかった。こんな日が来るとは思いもしなかったわけであって……なんていうか、その」

「ねぇ、もしも私が、今日が初めてだって言ったらどうする?」

「それはありえないだろ。数々の噂があるのに犯ってない訳がない。仮に犯っていないのなら何の噂だよってなるよ」

「…………」

 ココアの反応はなかった。自分から聞いといてそれはないだろう。いや、待てよ…。

「ココア。もしかして……いや、いくら何でもそれはないよな。冗談はやめてくれよ。て、ココアさん?」

 ココアは顔が赤かった。それに微動しない。これはひょっとしてひょっとするのか。

「ふふ、あははは。何マジになってんのよ。超ウケる!」

 まるでギャルのような反応であった。またしても僕は騙されたのだろうか。

「またやられた!」

 僕は手を額に当てて嘆く。

 その時だった。

「え?」

 ココアは頬にキスをしたのだ。全く気配を感じることもなく気づいたら唇がそこにあった。

「ごめんね。弄ってばかりで。でも、そんなアザラシさんを私は愛しています」

 冗談なんかではない。ココアの素の気持ちが表れていた。

「今日は楽しい夜にしましょう。アザラシさん」

「……うん」

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