第6話 人間とロボット

十五日の朝七時、僕は自宅までの道のりを歩いていた。一日の長いデートを終え、ココアのことをより一層知れたような気がした。それと同時に僕にとって一生忘れることのない経験が昨日に蓄積された。一方で、僕はある存在が引っかかっていた。忘れていた訳ではない。むしろ、ずっと頭の片隅には居続けていた。それなのに僕はもみ消してしまった。分かっていたのに止められなかった。僕は自分が許せない気持ちでいた。

 どうしてこうなってしまったのか自分の置かれた状況を見直してもいい訳が思いつかなかった。定まっていない自分の気持ちは最低だ。僕は情けない生き物だ。

 いざ、自宅の前に辿り着くとその先の一歩がなかなか踏み出せない。まるで足が石のように重い。

 まずは謝ろう。話はそれからである。

「ただいま!」

 元気よく扉を開けて中に入る。いつもなら玄関先にクレハは待ち構えているが、今日はいない。家事でもしているのだろうか。リビングの方に足を進めるもクレハの姿はなかった。部屋中のあちこちを探し回るもクレハはいない。隠れられそうなところは全て探した。

「わ、悪い冗談はやめて出て来てくれよ。どこかで隠れているんだろ? なぁ、クレハ。僕が悪かった。だから頼むから出て来てくれよ。なぁ!」

 誰もいない部屋に向かって訴えるもどこからも返事はなかった。

 テーブルに視線を向けた時、一枚の置き手紙が目に止まる。

 そこにはこう記されている。

『ケンちゃんへ

 私は単独行動をする目的と公言していましたが、ケンちゃんの内面を見ることが目的でした。と、いうのもここ最近、不審な点がいくつか見受けられました。私は詳細を確かめるべく、ケンちゃんには申し訳ないと思いましたが、ある決断をしました。それは尾行です。最初から嘘は見抜いていました。そして、今のケンちゃんが必要としているのは私ではないということも分かっています。私はしばらく旅に出ることに致しました。どうか探さないで下さい。と、言ってもケンちゃんは必死になって私を探し出すことは知っています。でも、これは私が決めたことです。主人の傍から離れるのは契約上、違反行為に値するけど、許して下さい。さようなら。

 PS

 海に行くという約束をしましたよね。もしも、まだ私を連れ戻したいと思うのであれば旅行に行く当日に指定した場所と時間に来て下さい。私はそこで待っています。では』

 その手紙を見て抑えられない衝動に駆られた。罪悪感。無情さ。哀れみ。傲慢。数々の感情が交差していた。僕は弱い人間だ。何も為し得ることは出来なかった。


 クレハが姿を消してから二週間程、経過していた。その間、僕はクレハが現れる前と変わらない生活を送っていた。多少の生活の乱れはあったものの、クレハの作ったスケジュールに載っとるようには心掛けている。クレハの行方は今も分かっていない。この二週間、何もしていなかった訳ではない。時間のある時は手当たり次第、クレハの捜索に当てた。しかし、単独での行動もあるので手掛かりは何も掴めていない。居るのが当たり前だった存在が突然居なくなる感覚はこんなにも辛いことであることを初めて実感した。心が苦しくて、苦しくて堪らない。一体、どこで何をしているんだろうか。クレハは元がロボットである。充電さえ出来れば死ぬことはないが、雨風が凌げる環境にいないと壊れてしまう。その辺が心配である。それに人間とトラブルを起こしていた場合も大変である。そんな心配が積りに積もる。

 手掛かりとしては旅行の待ち合わせの日だけ。しかし、その日までは後二週間もある。一ヶ月も外に放り出した状態で果たして無事なのだろうか。その日になるまで僕はただ時間が過ぎるのを待つことしかできないのだろうか。無力だ。

 僕は願った。もう一度、クレハに会いたい。それだけを思い続けて毎日を過ごして来た。

 クレハーー君がいてくれたことで僕は成長することができた。

 クレハーー君がいてくれたことで僕は愛を知ることができた。

 クレハーー君がいてくれたことで僕は生きることを知ることができた。

 クレハーー君がいてくれたことで僕はありがとうと感謝の気持ちを伝える相手ができた。

 クレハーー君がいてくれたことで僕は楽しく毎日を過ごすことができた。

 伝えたいことは山程ある。だから頼むよ。僕を一人にしないでくれよ。


 そして、月日は過ぎ去って旅行に行く当日になっていた。

 僕は指定された場所に一時間前に到着していた。まだ、クレハの姿は見当たらない。人を待つことには慣れている。一時間、三時間、五時間だろうと待っていられるだろう。

 ただ、顔を合わせるだけではなく、旅行の準備も万全である。現れただけではなく共に旅行するのが僕の望みでもある。クレハが現れるのを強く願う。

 すると、待ち合わせの十分前に一ヶ月ぶりに見る姿がそこにあった。ゆっくりと僕の方に歩み寄ってくる。その姿に思わず涙しそうになってしまうが、そこはグッと堪えて押し殺した。僕の前で立ち止まった彼女は言った。

「ただいま。ケンちゃん」

「おかえり。クレハ」

 以前と変わらず、クレハの姿がそこにあった。不安がようやく安心に変わった瞬間であった。

「あの、クレハ。ごめん」

 僕は第一声の後、深く頭を下げた。

「何がですか?」

 クレハは試すかのように聞いた。

「僕は……クレハの気持ちを踏み躙った。気持ちの整理が不安定な状態で裏切る行動に走ってしまった。周りが見えていない僕の責任だ。この一ヶ月、クレハがいなくなってから悔やんでいた。いなくなって多くのことを知った。僕が必要な存在は他の誰でもない。クレハしかいないんだ。僕の行動を許してほしい。もう一度、一からとは言わないけど、再スタートしてくれませんか」

 僕は手を差し伸べた。

「はい。私はいつでもケンちゃんの傍に居ますよ」

 クレハは僕の手を取った。

 ここからが僕とクレハの再スタート地点になった。

「では、旅行に行きましょう」

「うん」

 そして切符を買って電車に乗って僕たちは海という目的地に旅立った。目的地は山と海に覆われた大自然の地。辿り着くまで三時間の道のりであった。

 座席に座っていた時、聞きたいことが山程あった。我慢できず、僕は質問を投げかけた。

「クレハ。その……いなくなっていた間はどこに居たんだ?」

「言えません」

「じゃ、どういう過ごし方を……」

「言えません」

「そもそもどうして……」

「言えません」

「いや、僕まだ何も言っていないですけど」

「あぁ、そうですね。ごめんなさい。でも、この行方を晦ませていた一ヶ月の期間に関しての質問はご遠慮して頂けませんか? 私の名誉の為に」

「どうしても駄目?」

「はい」

「絶対の絶対に駄目?」

「駄目です」

「分かった。これ以上、いない間の質問は追求しない。その代わり、これだけ確認させてくれ。誰かに迷惑をかけたり、悲しませたり、恨みを買ったりするようなことはしていないよな?」

「はい。そのようなことは致しておりません」

 目を合わせてクレハは笑顔で言った。嘘、偽りはない様子であった。

「私からも一つ、質問させてもらってもいいですか?」

「どうぞ」

「ケンちゃんにとって私はどういう存在ですか。一言で表してください」

「一言?」

 僕は一瞬悩んだ。いや、悩む程のものではない。答えは既に決まっているのだ。

「パートナー……かな?」

「正解です」

 クレハは微笑んだ。その笑みに僕も嬉しくなった。

 移動の間、これまで溜まっていた他愛のない話をひたすら繰り広げていた。すると時間はあっという間に過ぎ去って目的地の駅まで辿り着いていた。

 この旅行のプランは事前に決まっていた。二泊三日の旅行である。

 一日目−−海。

 二日目−−登山。

 三日目−−牧場で動物の触れ合い。

 これはクレハが行方を眩ませる以前に二人で決めた旅行プランだ。お互いの意見を取り入れ、組み込んだ計画。そのプランが実現できるようにクレハが作成したしおりも準備されていた。

 駅に着くとホテルの人が迎えに来てくれることになっていた。

「さて、どこにいるんでしょう。それっぽい人がいませんね」

 クレハは背伸びをして手をおでこに当てながらキョロキョロと探す。

「電話をかけてみればいいんじゃないか?」

「おー。言われてみれば」

 そういうとクレハは両手を耳に当てて澄ました。

「何をしているの?」

「静かに。私は電話機能があるので登録されている番号であれば通話は可能です」

「そんな機能があったのか」

 クレハの隠された機能はまだあるのだろうが、僕は未だに全て把握仕切れていない。

「あ、もしもし。今日、ホテルの予約をしていた九石ですけど……え? あ、少し遅れる? 分かりました。待っています。はい……はい。失礼します」

 クレハが電話をしている光景は奇妙なものであった。イヤホンをしながらするのであればまだマシに見えるがそれすらない。まるで心の中で誰かと直接語り合っているように見える。

「どうやら後十分もしないうちに到着するそうなので気ままに待ちましょうか」

 迎えが来るまでの間、風景の写真を撮りながら時間を潰した。すると、駅の付近に黒のワンボックスカーが近づいてきた。

「あれですね。多分」

 車が止まると中から和服を着た成人男性が降りてきた。

「初めまして。神の水ホテルの使用人である高杉と言います。あなた方が九石様ですね?」

「はい。そうでーす」

 クレハは元気よく手を挙げた。

「どうぞ。お乗り下さい。ホテルまで案内します」

 高杉は後部座席のドアを開けた。お礼を言って僕たちは車に乗り込んだ。

「あの、高杉さん。ホテルまでどれくらいかかるんですか?」と、僕は質問を投げかける。

「七、八分くらいです。すいませんね。ここは田舎ですから旅行に来たお客さんには迎えに行くサービスをしているんです」

「全自動運転システムは取り入れていないんですか」とクレハは聞いた。

「この辺ではまだ取り入れていないところが多いですよ。確かにあれば便利ですけど、昔の文化が染み付いているんですよ。最近では人間型ロボットもあるそうですけど、ついていけませんね。興味はあるんですけど」

「ですよね。私もその人間型ロボットを間近で拝見してみたいです」

 笑いながらクレハは言う。お前がその人間型ロボットの上位関係の存在であることをツッコミたくなったが、あえてそれは伏せておこう。

「あ! ケンちゃん。見て下さい。海!」

 窓の方に顔を覗かせると青い海が一面に広がっていた。その周囲に小さな街があった。まるでおとぎ話の中に入ったみたいである。

「当ホテルはこの景色が部屋から見ることが出来ますよ」と、高杉はさんは付け加えた。それを聞いたクレハは「楽しみ」と目を輝かせた。

 今、走っている道は真下に海が見え、真上に山が見える中間地点の崖である。ハンドルを切ったら海に真っ逆さまと言う危険な道のりである。と、言っても車二台分で対向車も通れる道にはなっている。

「見えて来ました。あれが当ホテル。神の水ホテルです」

 前方には旅館が見えて来た。到着して車から降りると『和』が伝わってくる建物だった。池もあり、鯉が泳いでいる。

「到着!」

 クレハは伸びをしながらホテルに入っていく。多くの従業員に出迎えられて社長気分である。チェックインを済ませて荷物を部屋に運び入れる。

「うわ。和室だ。畳ですよ」

 部屋に入って早々、クレハは畳を触りながら燥ぐ。畳がそんなにも珍しいのだろうか。そういえば僕も畳の部屋に入るのは久しぶりだ。

「さて、では海に行きましょうか。ケンちゃん」

「でも、十月だし中に入ることはできないよ?」

「知っていますよ。でも、一応水着は着て来ました」

 クレハは上着を脱いで着ていることをアピールする。

「クレハって防水機能付いていたよね?」

「いつも水回りの掃除をしていたのを忘れたんですか? でも防水じゃない箇所はあります」

「どこ?」

「つむじ−−首の後ろです。ここには私の記憶が詰まったメモリーカードが存在しています。多少の水なら入っても問題はないんですが、水中に入ったら破損の原因になります。最悪、これまで蓄積されていた記憶も飛んで初期状態になることも考えられますので注意が必要ですね。でも自分で弱点は分かっているので防ぐ努力はしています」

「じゃ、気をつけないとな。他は大丈夫なの?」

「そうですね。後は口。直接体内に水を取り込む行為をすれば体内で異常をもたらし破損の原因に繋がりますね」

「間違っても海に入らないでくれよ」

「大丈夫です。入っても足までです」

 ホテルから海岸まではすぐであった。外は秋の空でひんやり風が冷たかった。

 秋といえ、誰もいない訳ではない。自分たちと同じように旅行に来た者や地元の人がちらほら浜辺の方にいる。

「うわ。砂ってこんなにサラサラしているんですね。変な感じ」

「クレハって五感はちゃんとあるの?」

「視覚、聴覚、触覚はあります。ただ、味覚と嗅覚はありませんよ」

「味覚は分かるけど、嗅覚がないのはなんで?」

「それは分からないです。製作上の都合だと思います。しかし、私には必要ない機能ですね。五感の他にも素晴らしい機能が多々ありますし」

 人間の五感以上にクレハには高性能な機能が備わっている。これが人間とロボットの違いという訳であろう。

「でも今、嗅覚がなくて残念です。海の匂いが分からないのですから」

「そっか。せっかく来たのにね」

「ケンちゃん。海ってどんな匂いがするんですか?」

「どんな? 如いていえば塩の匂い」

「塩ですか」

 クレハは両手で水をすくって口元に近づける。

「海の匂い……なんとなく感じました」

 クレハは噛みしめるようにじっとしゃがんでいた。

 それからはたった二人だけであるが、波に打たれながら浜辺を走り回ったり、ビーチボールをしたり、砂を全身に被ったりと海ならではの遊びを堪能した。

「ねぇ、あれを見て下さい」

 ふと、クレハは何かに気づいたのか、ある方向に指を差した。

 そこには小舟に乗っている高杉さんの姿があった。更にその手には釣竿が握り締められていた。

「おーい! 高杉さん!」

 クレハの呼びかけに高杉さんはこちらを振り向いて手を振った。

「何をしているんですか?」

「皆さんの夕食の食材を採っているんですよ」

 え? 自給自足? と、僕は驚きの目で高杉さんを見ていた。

「面白そう。私もやりたい」

 クレハは無邪気にも釣りに興味を示した。

 そして、何故か僕たちは高杉さんに釣竿を借りて一緒に釣りをすることになった。

「まずは竿を大きく振って餌が生きているようにユラユラと泳がせておく。そして、釣り糸が引いたら完全に食いつくまで我慢する。大きく浮き玉が沈んだら一気に竿を引く」

 そう言って高杉さんは一匹の魚を引き上げた。

「お見事!」

 クレハは尊敬の眼差しで拍手した。

「コツさえ掴めば簡単です。では、やってみて下さい」

 僕とクレハは同時に竿を振った。

 生きているようにユラユラと……食いつくのを待つ。浮き玉が沈んだ! 今だ!

 竿を引いたら一気に引く! しかし、獲物の姿はなかった。

「惜しい。今のは引くタイミングが少し早かったんですよ」

 なるほど。釣りは奥が深い。

「ケンちゃん、見て下さい釣れましたよ」

 クレハは十三センチの大物を釣り上げた。まさか一発で釣り上げるとはロボットだけにかなり学習能力が高いと言える。高杉さんも凄いとかなり褒めていた。

 その勢いは止まらず一時間で十二匹も釣り上げてしまった。ちなみに僕は精々一匹であり、三センチほどの小物である。

「クレハ。そろそろ止めようか。随分と楽しませてもらったし」

 本音はこれ以上続けると僕が下手なのがバレてしまい、情けなく思われそうなのが嫌だからである。

「そうですね。あ、待って下さい。凄い引きです。大物ですよ」

 クレハの竿は激しく引いている。今までの引きとは比べものにならない。

「落ち着いて下さい。刺激を与えると逃げてしまいます」

 高杉さんは横からアドバイスをする。

「はい。でも、凄く重たいです。うわっ!」

 クレハは竿に手を持って行かれ、足を踏み外し、海に身を投げられる。

「クレハ!」

 僕は後ろから手を回し、クレハを抱きかかえて落下を阻止した。そのまま、僕は背中からズッコケて強打した。

「あっぶねぇ!」

 僕は心臓がバクバクで興奮が収まらない。そのまま落ちていればクレハが危ないところであった。

「すいません。私の不注意でした。もう少しで私、死ぬところでした」

 危機的状況であったにも関わらず、危機感がない口調に僕は少々呆れる。

 高杉さんから見れば大袈裟に映っているだろうか。普通の人間なら問題ないがクレハはロボットだから別である。

「あ、高杉さん。すいません。重苦しい姿を見せてしまって。それとあれ、どうしましょうか」

 クレハは大物に持って行かれた釣竿に目を向ける。幸いにも竿は水面に浮かんでおり、今ならまだ取り戻せそうである。

「あぁ、大丈夫ですよ。後で回収しておきますよ。それよりもお連れさんは大丈夫ですか?」

「え? て、ケンちゃん。どうしたの?」

 僕は仰向けの状態から起き上がれずにいた。クレハは心配そうに僕の方に駆け寄ってきた。


「痛っ!」

「我慢して下さい」

 僕はあの後、身体がうまく動かせずにそのままホテルに運ばれた。軽いぎっくり腰である。うつ伏せになり、クレハは僕の背中に湿布を貼ってくれた。

「ごめんなさい。私のせいで。そんな重かったですかね?」

「いや、そんなこともないけど、受け取り方が悪かったのが原因だから僕が悪かったよ」

「私……八十八キロもあるんですよね」

「え? そうなの?」

 僕と同じじゃんと同時に思った。

「はい。見た目によらず、体内にいっぱい詰まっていますので重みはあります。なので、女性の体重はシークレットですよ」

 クレハはロボットだから重みがあるのは仕方がないことである。

「それより、ほぼ私のせいですよね。ごめんなさい」

 クレハは深く頭を下げて謝罪した。

「いや、もう大丈夫だから。この通りもう……痛い!」

「ほら、無理しないで下さい。もう、見た目と違って中身は若くないんだから」

「そ、そうだね」

 まだ僕、二十代なんだけどね。

 コンコンと扉を叩く音がした。返事をすると高杉さんが入ってきた。

「失礼します。九石様、腰の具合は大丈夫でしょうか?」

 高杉さんは心配そうに問いかける。

「はい。なんとか大丈夫です」

「その様子ですとあまり良くはないですね。お食事の用意が出来ております。案内致しますので、車椅子をどうぞ」

 準備が良いことに部屋の外には車椅子が準備されていた。まるで病人扱いだが、僕は今、それに近い状態なので文句は言えない。

 案内されたところに行くとそこには海鮮料理のオンパレードであった。

「今日は釣りの手伝いをしてくれてありがとうございます。これは本日、九石様が釣り上げた魚を調理したものです。どうぞ、ご堪能あれ」

「うわぁ。美味しそう。ありがとうございます」と、クレハは燥ぐ。

「では、失礼します」

「ねぇ、雰囲気だけでも良いので乾杯しませんか? せっかくなので」

 クレハはワインをグラスに注ぎ、僕に渡す。

「そうだね」

「じゃ、二人の初旅行記念日に乾杯!」

「乾杯!」

 グラスとグラスを当てて乾杯した。僕はグビグビとワインを呑んだ。美味しい。

「ケンちゃん。料理の方も美味しそうですよ。食べて下さい」

「うん」

 焼き魚に箸を伸ばし、口に運ぶ。

「美味しい。凄く」

「良かったね、ケンちゃん。私も食べてみたかったです」

 そっか。クレハは食べ物を食べる必要がない。それはつまり食べられないということである。食感がないクレハにとってはこの美味しさを共感できないことは寂しい。

「ケンちゃん。一つ、頼みたいことがあるのですが」

「何?」

「作ってくれたシェフの人に申し訳ないので私の分も食べてもらってもいいですか?」



「お腹苦しい!」

 僕は結局、二人分の食事を無理やり口にねじ込んだ。結果、お腹は大きく膨れ上がっていた。

「申し訳ありません。私のせいで」

 クレハは申し訳なさそうに上目遣いになりながら言う。

「いや、いいんだよ。残すのは申し訳ないという気持ちは僕も同じさ」

「ありがとう。それより、明日の登山は行けそうですか?」

「どうだろうか」

 正直、厳しいかもしれない。だが、せっかくここまで来て行けないとなればなんだか悔しい。

「ちょっと試したいことがあるんですが、うつ伏せになってもらえませんか?」

「うつ伏せに?」

 僕は言われた通りにうつ伏せになった。

「そのまま力を抜いて楽にして下さい」

 するとクレハは僕の背中のツボを突いた。

「痛い! クレハ」

「力を抜いて下さい」

 しばらくマッサージをされて背中の痛みが楽になった。

「終わりました。腰はどうですか?」

 言われて、身体をほぐしてみる。すると、不思議とさっきまでの痛みがなくなっていた。

「痛くない。何をしたの?」

「ちょっとツボを突いただけです。ぎっくり腰になった時の対策があったので試してみました」

「凄い。ありがとう。これで明日は行けそうだよ」

「でも、無理は禁物ですよ。一時的なものですから」

「大丈夫。クレハ、ベランダに行こう。夜景が綺麗だよ」

 僕はクレハをベランダに誘導した。

 外には海が綺麗に写っていた。

「いい眺めですね。一緒に写真でも撮りましょう。私、カメラ機能もあるんですよ?」

「いや、それだと一緒に撮れないだろ」

「それもそうですね。スマホ貸して下さい」

 僕たちは夜の海をバックに写真を撮った。

「思い出がまた増えましたね」

「うん」

 波の音が新鮮に響き、良いムードになっていた。

「あのさ、クレハ。僕、この旅行が終わったらちゃんと就職するよ」

「やりたいことが定まったんですね」

「うん。ロボットを生み出す技術者になりたい」

「また、なんでそちらの道に?」

「クレハのことをもっと知りたいんだ。だから僕は技術者になりたい」

「立派だと思います。応援していますよ」

「ありがとう」

「あてはあるんですか?」

「うん。ちょっと頼りない人だけど、なんとか頼み込んでみる」

「それは良かったです。居酒屋での経験は役立ちましたか?」

「うん。今までの人生で多く役立った」

「そうですか。私もやりたいことを定めようかと思います」

「やりたいこと?」

「今はまだ正確な答えは見出せていませんけど、この旅行中には答えを出したいと思います。出会った当初に言いましたよね? 自分は何の為に生まれて来たのかというやつです」

「そんな急ぐことでもないよ。自分のペースに探せば」

「本当はこの行方を晦ませていた間に答えは出ています。でも、それを口に出して良いか迷っています。言ってもいいと判断ができたらその時は聞いてもらってもいいですか?」

「あぁ、勿論だよ」


 部屋に戻った後、僕たちは布団に転がり込んだ。今日もいっぱい遊んで疲れた。

「ケンちゃん。ごめんね。私、そろそろ充電切れそう」

「うん。おやすみ」

「ケンちゃん。今日は傍に寄り添って寝てくれませんか?」

「珍しいな。クレハがそんなことを言うなんて」

「今日は甘えたい気分なんです。お願いします」



 旅行二日目の朝、晴れた天気だった。雲一つない晴れ日和である。

 二日目の今日は登山という日程であるが、そもそも何故登山なのかといえば、日頃の怠け精神を叩き直す−−と言うのも、都会に暮らす僕は山には縁がない。そこで山の険しい道のりを乗り来ることで精神的にも体力的にも大きく成長が期待できる。これは自分の首を自分で苦しめることで嫌なことから逃げ出さない訓練とも言える。いわば、自分を鍛え上げる為のプランである。自分を試したいとクレハに考えてもらった結果、登山がいいのではないかとアドバイスをもらった為こうなった。

「では、また迎えが必要になりましたら連絡して下さい」

 登山の入り口まで高杉さんに送ってもらった。僕たちはお礼を言って見送った。

「さて、いよいよですね。私も登山なんて初めてです」

「大丈夫なの? クレハ」

「問題ありません。それよりケンちゃんこそ腰はぶり返したりしていませんか?」

「クレハのおかげで大丈夫だよ」

「なら良かった。では行きましょうか」

 僕たちは大きなリュックサックを背負って山の中に踏み込んだ。リュックサックの中身は水筒、タオル、ビニール袋、ティッシュ、非常食、折り畳み傘などネットで調べた道具が詰まっている。服装は肌の露出が少なく動きやすいスポーツタイプの衣類を着用している。事前の準備は充分にされている。

 先頭はクレハが、その後ろに僕が続いた。クレハは登山の道なりに沿って前にどんどん進んでいく。僕も必死になってその後を追う。

「頑張って下さい、ケンちゃん」と、クレハは後ろを気にしながら声を掛けてくれる。その励ましに僕は食らいつく。

 距離を進めるにつれて、登山の過酷さを目の当たりにする。足の痛み、疲労、肩の重みが同時に僕を支配する。分かっていたものの、心のどこかで油断が生じていたのかもしれない。自然と歩くスペースが落ちてきたのも実感する。開始から一時間の出来事であった。

「ケンちゃん。少し、休憩をしましょうか」

 クレハが休憩を提案した。僕はそれに甘えて休憩を取ることにした。

「キツくありませんか?」

「キツいけど、まだ半分も来ていない。弱音は吐けないよ」

「私は、痛みは感じませんけど、登るにつれて燃料が多く消費されている感覚はあります」

「頑張ろうか」

「はい。そろそろ行きましょうか」

「え? まだ五分しか経っていない」

「登山の休憩は五分以上すると逆にしんどくなります。水分補給程度が目安ですよ」

「そっか。なら先を進もう」

 重い腰を無理やり起こして僕は立ち上がった。

 自分で望んだ登山であるが、厳しい現実に後悔した。だが、もう引き返すことはできない。出来るとしたら頂上を目指すのみである。

 もしも、僕が一人だけであれば既に挫折していたであろう。しかし、クレハがいることが大きな強みであり、頑張ろうという気持ちが強くなれた。

「ケンちゃん」

 ふと、クレハは足を止めた。

「どうした?」

「少し、雲行きが怪しいです」

 空を見ると雲が覆い茂っていた。出発のタイミングでは雲一つない爽快だったのに今の天気とはえらい違いである。既に、半分以上過ぎた辺りなので引き返すことは難しい。引き返すよりも登り切る方が早い。

「確か、頂上には休憩が可能な小屋があるって高杉さんが言っていたから早い内に登り切ろう」

 それから先程のペースよりも早く進むように意識した。

 焦りが生じ、周囲が見えなくなっていたかもしれない。結果、僕は足元にあった木の根に躓いてしまった。派手に。

「ケンちゃん! 大丈夫?」

 クレハは振り返って駆け寄ってくれた。

「大丈夫だよ。さぁ、先を急ごう」

「膝、見せて下さい」

 ズボンの裾を捲ったら膝から血が出ていた。

「手当てをします」

 クレハはリュックサックから消毒液と絆創膏を取り出した。

「ごめん。クレハ」

「いいんですよ」

 その時、水滴が顔に当たった。

 手の平を掲げると雫がポツポツと付いた。

「やばい! 降り出して来た。クレハ、フードを被って首を守るんだ」

 クレハは慌ててフードを被った。僕はリュックサックから折り畳み傘を取り出し広げた。

 雨は本格的に降り出し、勢いを増した。

「くそ。どこか……どこか雨宿りが出来る場所はないのか」

 僕は周囲を探す。すると左後方に小さな洞穴があった。

「クレハ! ひとまずあそこに避難しよう」

 僕は慌ててクレハの手を引いて洞穴に向かって走った。

 なんとか逃げ込んで危機を逃れる。数分の間であったが、全身びしょ濡れである。

「ハァ、ハァ、クレハ! 無事か?」

「ブシュブシュ……ココハドコ。ワタシハダレ」

 僕は絶望的な表情でクレハを見た。大雨で間に合わなかったことを悟った。もう、先程までのクレハの記憶はないのだと。

「クレハ! 嘘だよな? そんな……僕のせいだ」

 力が入らず膝を付いた。

「ケンちゃん」

 もう、空耳まで聞こえてしまう。懐かしい記憶が蘇っているのだろうか。

「ケンちゃん」

「え?」

「さっきのは嘘です。私は生きていますよ」

「クレハ!」

 僕は飛びつくように抱きしめた。

「バカ! 本気で心配したんだぞ」

「ごめんなさい。反省しています」

「なんでそんな悪い冗談なんて言うんだ」

「見たかったんです。私がいなくなったらケンちゃんはどんな反応をするのか。でも、死ぬほど心配してくれて嬉しかったです」

「当たり前だ!」

「幸い、濡れた箇所は外部だけなので大丈夫です」

「良かった。本当に良かった」

「それにしても山の天気は変わりやすいというのは本当なんですね。さっきまであんなに晴れていたのに」

「そうだな。これはしばらく止みそうにないな」

 僕とクレハは余儀なく洞穴で休息を取るしか選択肢がなかった。

「ケンちゃん。服、濡れていますよね?」

「あぁ、でも大丈夫だ。替えの服を持ってきてあるから。それよりクレハこそ服濡れているだろ?」

「えぇ、でも大丈夫です。そのうち乾きます」

「ダメだ。今すぐ着替えないとまた水滴が内部に入る」

「あ、ケンちゃん。ダメです」

 僕がクレハの皮膚に触れた瞬間、高温の熱が刺激をした。

「熱!」

「大丈夫ですか? 今、体内のヒーター機能を使って服を乾かしていたので体温は高いですよ? 火傷していませんか?」

「うん。大丈夫」

 そういえば、そんな機能もあったことを思い出した。

「常温設定にしておきますので温まりませんか。おいで」

 クレハはまるで子猫に問いかけるように手を差しのばした。僕は子猫になったかのようにクレハの元に駆け寄った。

「温かいですか?」

「うん。温かい」

 二人で小さく踞って外の景色を眺める。

「あ、今空が光った」

 クレハが言った。時間差で雷がゴロゴロと鳴り響く。

「いつまで居なきゃいけないんだろう」

 つい、僕は弱音を吐いてしまう。

「ねぇ、ケンちゃん。雨が止むまで楽しい話をしませんか?」

「楽しい話?」

「うん。そうだな。将来の夢は?」

「二十六で将来の夢って言われてもね」

「なんでもいいんですよ。夢を語るのは自由ですから」

「そうだな。あえていうのであれば、クレハと一生を共にしたい。例えロボットであろうと、僕はずっと傍に居たい」

「嬉しいことを言ってくれますね。私もその気持ちは同じです」

「ならずっと一緒だ。どんな試練があってもずっと一緒さ。それは変わらない」

「でも、私にも時間は限られています。私のやりたいことを聞いてくれませんか?」

 ここで本題がきた。勿論、僕は聞いてあげるつもりだ。

「言ってみて」

「主人を守る。自分の身体を守る。そして、もう一つの使命は主人を幸せにしてあげる」

「クレハ……」

「でも、これは私が幸せにするのではありません」

「どういうこと?」

「ロボットと人間は愛を結ぶには大きな壁があります。今は出来ていてもそれはただの張りぼてに過ぎないのです」

 クレハは言い切った。しかし、その意図が掴めない。ただ、クレハの言葉を待っていた。

「人間が愛を埋められるのはロボットではありません。人間なんです。この先、ケンちゃんが人と愛し合っていきたいのであればちゃんとした人間と恋をするべきです。私はそのサポートに徹するのがやりたいことになります」

「はぁ? 何を言っているんだ。お前」

 クレハの言葉に本気で理解ができなかった。僕が恋愛対象として見られるのはロボットだ。人間じゃない。人は必ず最後に裏切る。それなら最初から裏切ることのないロボットと恋愛をすれば苦しい思いもせずに済む。そうだろう。クレハ。

「いいえ、違います」

 クレハは僕の心の中を読んだかのように答えた。

「本物の愛を分かち合えるのは同じ人だけなんですよ」

 クレハはそっと僕を抱き寄せた。

「愛を分かち合えるのは……人だけ?」

「そうです。私ではありません。確かに人はすぐに心変わりをして裏切ることだってあります。でも、一生寄り添えることだって出来ます。人は誰かと寄り添って生きていかなくてはなりません。どこかで聞いたような話ですけど、でも人である限り人と付き合っていかなくてはダメなんです。私はそう思います。ケンちゃんにはそんな幸せになってほしいんです」

 なんでそんなことを言うの? と、言葉に出そうとしたその時、『ガルルル』と猛獣の唸り声が洞穴の奥から響き渡った。

「何?」と僕とクレハは振り返る。

 足音がゆっくりとこちらに向かって近づいてくるのが分かった。

 瞬きも出来ず冷や汗が流れ落ちる。

 その正体を見た僕は恐怖に怯える。

「グオォォ!」

 目の前には二メートルを超える熊が後ろ足だけで立っていた。警戒しているのか、すぐには襲ってこない。

「クレハ! 今すぐ逃げよう。早く!」

「ケンちゃん。逃げて下さい。ここは私が食い止めます」

「バカ! 一緒に逃げるんだよ」

「私はここを動くことができません」

 僕は重要なことを思い出した。

 クレハは雨を避ける為に洞穴に逃げ込んだのだ。それなのにここを離れればまた命の危険に晒される。逃げても地獄、居ても地獄という挟まれた状況に絶体絶命だった。

「ケンちゃん。逃げて下さい。私がなんとかしますから」

「なんとかって……お前を見捨てて行ける訳ないだろう!」

「私の使命は主人を守ること。だから行って下さい。あなたがいたら邪魔になります」

 僕も一緒に戦うよと言いたいところであるが、僕がいたところで役に立たないことは目に見えていた。ひょっとしたらクレハにはまだ隠された機能で熊を倒す秘策があっての発言なのかもしれない。自信があるクレハの発言に僕は頷く。

「分かった。その代わり、もう一つの使命も守ってくれよ」

「えぇ、必ず!」

 僕とクレハは目で合図をした。必ず後で合流しようという誓いであった。

 熊が襲い掛かってきたタイミングでクレハが熊の注意を引き、僕は洞穴を抜け出し雨の中へ飛び出した。

−−自分の身体を守ること。それがクレハのもう一つの使命。僕はそれを守ってくれることを信じて走り去ったのだ。


 あれからどれだけの時間が経過しただろうか。勢いで逃げてしまったけど、雨に打たれて冷静になった結果、後悔した。あそこは意地でも一緒に残るべきだったはずだ。無我夢中で走ってきたことでいろんなところに躓き、転び、身体の至る所に擦り傷ができていた。いつの間にか雨は止んで日差しが出ていた。

「戻らなきゃ!」

 僕は傷だらけの身体にムチを打ちながら来た道を引き返す。全身に痛みが充満していたが、それでも我慢して歩いた。全てはクレハの為に。

 洞穴に近づくと血の匂いがした。その匂いを辿ってみると、洞穴から数メートル離れた場所に大型の熊が倒れていた。それは一匹だけではない。合計で三匹の熊が等間隔で倒れていたのだ。おそらく仲間が群がったのだろう。状態を確かめてみると、熊は死んでいた。死因は火傷による損傷だろうか。皮膚から蒸気が出ていて肉が焼けた異臭が充満している。どの熊も同じ死因であった。一体何が起きたのか。そして、クレハはどこにいるのか。

 僕は洞穴の内部を確かめる為、入り口に向かう。入り口付近にクレハのモノと思われるリュックサックの中身が散乱していた。激しい死闘の跡地であることが伺える。

 中に入り、暗がりの中に何かの気配を感じる。緊張が交わる中、ゆっくりと歩を進める。僕が目の当たりにしたのはクレハの無残な姿である。左手と両足が切断されており、無情にもクレハは倒れていた。

「クレハ!!」

 僕はクレハをそっと抱えた。

「クレハ! しっかりしろ。クレハ!」

 僕の呼びかけにクレハはゆっくり目を開けて「ケン……ちゃん」と呟いた。

「なんでこんな無茶したんだよ」

 クレハの顔に雫が付いた。これは僕の涙だった。

「自分の身体を守るっていう使命……守れなくてごめんね」

 クレハは弱弱しい口調で答えた。今にも死にそうな声である。

「死ぬな! クレハ! まだお前には使命が残されているだろうが!」

「ねぇ、ケンちゃん。お願いを聞いてくれますか?」

「え?」

「頂上まで連れて行って下さい。頂上からの景色を見たいんです」

 僕は混乱した。今、僕がどんな行動を示せばいいのか迷っていた。しかし、クレハが「お願いします」と囁いたことで身体が動いていた。リュックサックを前側に背負って、背中にクレハを背負って山を登り始めた。傷だらけの身体で自分も辛い状態にも関わらず、歩いて行けるのには抵抗がなかった。全てはクレハの為である。

「ごめんなさい。お手数おかけして」

 身体を動かすことはままならないが、喋ることは大丈夫な様子であった。

「いいんだよ。それより、どうやって熊を倒したんだよ」

「私には武器の機能はありません。あるのは体術だけです。でも、相手が熊なだけに体術だけでは対抗することは出来ませんでした。それに仲間もぞろぞろと集まって来たので状況は最悪でした。そこである手にかけました。それが体内から発せられるヒーター機能です。これは本来、カイロのような役割で主人を温める為の機能です。この機能をフルに活用して体内の最大温度まで上げて捨て身で熊にしがみ付きました。その際、抵抗もあり手足が捥がれましたが、死闘の末、なんとか熊を撃退することに成功しました」

「なんて無茶なことを……」

「すいません。でも、あぁするしかなかったんです。身体はボロボロですが、私はケンちゃんを守ることができて満足です」

「お前が良くても僕は良くない。これからもずっと寄り添っていくって決めたんだ。なのに、こんな結果になるなんて」

「…………」

「これからもっと楽しい日々を送るんだ。今日は頂上からの景色を見て、明日も牛や馬と触れ合って笑い合う。そしてその先もいろんなところに旅行してまだ見ていないものを一緒に見て笑い合って、時には喧嘩して、また仲直りをして、毎日が楽しく過ごせる。そんな思い出を二人で築き上げていくのが僕の理想だ。だから、そんな死ぬような声で僕と喋るな」

「……ありがとう。ケンちゃん。私はあなたを愛しています」

「僕もだよ。クレハ」


 身体は痛みを通り越して何も感じなくなっていた。それでも僕は足を止めることはなかった。既に声を出すのも辛い状態だ。呼吸が激しくなり、ずっとハァハァ言っている。

 その努力の結果、頂上が見えてきた。後少し。後少しと自分を励ましながら最後の難関を越えていく。そして、念願の頂上が僕の視界に広がった。

「着いた!」

 その光景に感動しながら僕は見とれていた。

「クレハ! 頂上だ。着いたぞ」

 背中を揺さぶってクレハを起こす。

「頂……上?」

 クレハはか細い声で言った。

「あぁ、良い景色だろ? 感動だよ。苦労したけど、やっと二人で辿り着いたんだ」

 クレハの反応がない。そしてピクリとも動かなかった。「クレハ?」と呼びかけてみるがやはり反応がない。クレハを降ろして確認する。

 クレハは動かなかった。呼びかけても、揺すっても反応は示さなかった。

「クレハ? なぁ、嘘だろ?」

 さっきのように嘘ですよと冗談を言ってくれることを祈った。僕を試す嘘ならこの際、いくらでもやっても構わない。だから頼むよ。目を開けてくれよ。しかし、クレハは一行に目を開ける気配がない。身体はみるみると冷たくなっていく。抑えられない衝動が僕の心が爆発した。

「クレハ! 嘘だー!」

 やまびこが返ってくるほど大きな声で叫んでもクレハは僕の呼びかけに答えることはなかった。クレハは静かに息を引き取った瞬間だった。

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