第6話 学生寮

 春治とシャルロットの頭上を、体長五十メートルはあろうかという巨大魚が、悠然と泳いで渡る。足下深くに目をやると、象よりも大きな無数の蜘蛛が、列をなして海底を移動している。

 オウブの海の透明度は高い。数キロ先までクリアに見通せる。かつて汚染物質の影響で視界が一メートルもなかったなんて、二人にはとても信じられない。


『奇麗な海を取り戻すのに三百年かかった』と、ルゥルは言っていた。オウブの三百年は、地球の六百年に相当する。

 人間の営みによって自然は簡単に壊れ、消えてなくなる。そして一度失われた自然を回復するには、膨大な時間と労力、そして費用を要する。地球人にもそれはわかっているはずなのに、地球ではいまだ回復よりも消失の勢いの方が勝る。水質浄化の技術を地球に持ち帰ることはできても、環境保護の意識までは持ち帰れない。それは地球人自らが培わなければならないものなのだ──そんな思いを抱えながら、春治はオウブの海の美しさを堪能していた。


 色とりどりの小魚の群れが目の前を横切ると、獰猛を絵にかいたような海獣が、真正面から向かって来るのに気づいた。いかにも肉食といった容貌は、近くのものに手あたり次第襲いかからんとする危ない雰囲気を放つ。二人はソファに座りながら身を硬くする。


「やだ、ワニみたい」


「十メートル…… もっとあるかな。真っ直ぐこっちに来るね」


「怖い……」

 シャルロットは春治に身を寄せる。


「あっ! 横!」

 春治は刮目した。


 正面に気を取られている隙に、シャルロットの左手から別の海獣が数メートルの距離にまでに迫っていた。


「きゃあ!」

 シャルロットは春治にしがみつく。


 大口を開けて牙を剥き出しにした海獣が、二人に襲い掛かった。二人とも硬く目を瞑る。海獣は二人の身体をすり抜け、そのまま泳ぎ去った。


「正面からも来るよ!」


「終わってえ!」


 シャルロットが叫んだ瞬間、周囲がパッと明るくなった。壁と天井が半透明のサーモンピンクに戻っている。


「ふうー……」

 二人は脱力しながら、長い長い息を吐いた。


「すごい臨場感だね」


「通過するとき、身体の中を触れられた感覚があったけど、気のせいかしら」

 シャルロットは自分の身体をぎゅっと抱き締め、春治を見る。


「僕は身体ごともってかれる感じがしたよ。内臓が引き千切られて、飛び出したんじゃないかと思った」


「はあぁ…… なんだか疲れちゃった」


「お茶にしようか」

 春治は立ち上がりながら、遅れて立ち上がろうとするシャルロットを制す。

「いいよ、座ってて」

 数歩歩いて、調理機の前に立った。


 シャルロットはお言葉に甘えて、ソファで身体を楽にする。サーモンピンクの壁に手をかざし、ふいっと擦り上げるように動かすと、光の透過性が上がり、外の景色が一望できるようになった。

 広い前庭には、足の踏み場もないほど一面に花が咲いている。背の低い生垣には、白くて細かい葉っぱにピンクの小花が点々とつく。門はなく、ブーゲンビレアに似た花木のアーチがそれの代わりをしている。幹も葉も白く、花は赤い。アーチの頂には一羽の鳥がとまり、時折思い出したように短く囀る。


「このあたりは静かでいいね」


 春治がシャルロットの家に来るのは二度目だった。春治の住まいから三百メートルほどしか離れていないが、学園の正門とは真逆に位置することもあり、なかなか足が向かない。また、春治にとって女性の住まいというのは、いかに旧知の仲とはいえ、敷居が高くもあった。


「あらためて見ると、やっぱり、あちこち違うもんだなぁ」

 春治は首をめぐらせながら、周囲をしげしげと眺めた。そして視線を落とすと、その場で足踏みしてみる。

「靴音がほとんどしないや。こっちの床の方が柔らかいみたい。材質が違うのかも」


 シャルロットの家は、春治の家にくらべて、天井がやや低く、建物全体が丸みを帯びている。四百年ほど前に流行ったタイプの普請で、この家もその頃に建てられたものだ。春治の家よりも百年ほど古い。

 オウブの一戸建てはほとんどが平屋である。はっきりとした理由はわからないが、単なるバリアフリーではないかと春治は推測する。長身の割に筋力の発達が乏しいオウブ人にとって、階段の昇り降りは辛いのだろう。


 調理機からポットを載せたプレートがゆっくりと出てきた。ポットの口から湯気が昇っているが、持ち手に触れても熱くはない。

 春治がポットを手にしてふり向くと、テーブルの上に二組のカップが用意されていた。


「話さなきゃいけないことがあるんだ……」

 シャルロットのカップにお茶を注ぎながら、春治が口を開く。

「言いにくいんだけど、『オウブ語学Ⅰ』の授業、今日で最後にしようと思ってて……。来節から始まる『Ⅱ』も、たぶんとらない」


「……そっか」

 シャルロットの顔に驚きの色はない。あらかじめ心の準備が整っていて、ついに来るべきものがきた、といった感がある。

「ハルジくんがとっても、あんまり意味ないなって、私も思ってたの。本当は私から言わなきゃいけなかったね。今までつきあわせちゃって、ごめんなさい」


 シャルロットは、オウブ語辞書の編纂を任されている。シャルロットにとって『オウブ語学』は、必修科目といえる。


「ううん。気にしないで」

 春治は俯き、お茶を一口啜る。

「それからもう一つ、『オウブ科学』も、とるのやめようかと思ってて……。あれは概論だし、とるほどの内容でもないかなって。代わりにその時間、来年とる予定の『気象操作』を覘いてみようと思ってる。テキストを読んでみたんだけど、今から頑張れば追いつけそうなんだ」


「うん。わかった」


「この先、一緒に授業を受けることが少なくなると思うけど……」


「平気。どうせ授業中は講義に集中してるでしょ。一緒に受けることに、大して意味ないよ」


「そうだね」


 二人は、物質構成機で出したフランス製のサプリメント菓子をつまみながら、オウブのハーブティーを二杯ずつ飲んだ。


「辞書の方はどう? 捗ってる?」


「それが、あまり順調とは言えないの。北半球と南半球、二つの公用語があることがわかって。辞書も二つ必要になるかもしれない。あとは俗語と方言ね。辞書に載せるべきかどうかの取捨選択が難しい。今はとりあえず、手当たり次第羅列してるって感じ」


「うわあ、大変だ」


「白状するけど、本格的な編纂作業に取り掛かったのは、つい最近のことなの」


「え? そうなの?」


「やっぱり古語を理解しないと完璧な辞書はできないと思って。それで今まで古典ばかりやってたの。それがようやく終わったところ」


「そうだったんだ」


 春治は、対面に座るシャルロットの斜め後ろの小部屋に目を遣った。古いアンティークの机の上には、地球製のタブレットPⅭが畳まれた状態で置かれている。机の横には書架があり、古くて分厚い辞書が十冊ほど並んでいる。すべての辞書の背表紙には、難解な書体のオウブ語が記されている。春治はオウブに来てから初めて紙の本を目にした。


「提案なんだけど」

 シャルロットの苦労を知った春治は、以前からぼんやりと頭にあったアイデアを急遽まとめた。

「シャルロットが僕のサポートに回ることになってる電子工学と量子物理学は、僕一人でなんとかなると思うんだ。それから二人でやる予定の医学、薬学、農学は分担しよう。僕が医学と薬学をやるよ」


「でも、それだとハルジくんの負担が……」


「心配ない」

 春治はきっぱりと言い切った。

「こういう言い方をすると身も蓋もないんだけど、何も僕らが全部覚えて帰る必要はないと思うんだ。教科書と授業の映像を持ち帰りさえすれば事足りる。だけどこの二つを活かすには、ちゃんとしたオウブ語の辞書が不可欠だ。僕がたくさんのことを習得して帰ることよりも、シャルロットがちゃんとした辞書を作ることの方が、はるかに重要なんだよ」


 シャルロットは目線を下にして思案顔になった。春治が自分を卑下するような言い方をしたことに対して、気遣いの言葉を捜しているのかもしれない。それと同時に、春治の言い分にもある程度納得しているようである。


「頑張って良い辞書作って」

 春治が励ますように言った。


「うん!」

 シャルロットが吹っ切れた顔で頷く。

「頑張る。責任重大だもんね」


 それから春治は、数学の重要性についてひとしきり説いた。今節受ける数学の授業内容を理解しただけでは、来節からのより高度な他の科目を理解するのに、基礎知識として不充分だというのだ。


「──だから、オウビブニカの定理と、オルフェレーブ方程式は、絶対、今節中にマスターしておいた方がいいと思う」


「そうね」とは言ったものの、現状、数学が二の次になっているシャルロットには、春治が力説した内容の半分もわかっていなかった。


「僕、早いうちに理解して、サポートするから」


「ありがとう」

 シャルロットは春治の気遣いを素直に嬉しく思うと同時に、迷惑をかけないよう頑張らなければ、と気を引き締めた。

「すごいな、ハルジくんは。どんどん先に行っちゃう」


「シャルロットこそ、編纂作業しながら授業についてこれるんだから、よっぽどすごいよ」


 突然、室内に弦楽四重奏が流れ出した。と同時に、シャルロットの背後の壁が十六分割され、ミゥミュのスナップ写真のスライドショーが始まる。


「あら、電話」

 シャルロットは立ち上がって、春治の隣に移る。


「ミゥミュからだね、よくかかってくるの?」


「うん、毎日。繋いで」


 二人の正面の壁に、胸から上のミゥミュが大映しになった。実物よりも三倍ほど大きい。


「こんにちは、ミゥミュさん」


「やあ、シャルロット。おや、ハルジもご一緒ですか」


「こんにちは」


「ご機嫌麗しゅう。一度くらい、うちにも遊びに来てください。狭いところですけど」


 特に用事があってかけてきたわけではないらしい。

 春治は用もなくシャルロットに電話をかけたことなど、一度もない。対してシャルロットとミゥミュは、毎日電話で話しているという。

 何やら焦りに似た感情が胸に湧き上がった。恋愛経験のない春治には、そのモヤモヤが何なのかよくわからなかった。



 翌日、『オウブ哲学』の授業を終えた春治とシャルロットが校舎を出ると、エアロディナス三姉妹が待ち構えていた。これは予想していたことだった。

 というのも、授業が始まる直前、春治の端末に、スペーヌが春治の現在位置を確認した、という旨の通知が入ったからだ。


 地球人を認めると、三姉妹は顔をみるみる紅潮させた。前に会ったときとは違い、三人とも豊満なボディを誇示するかのような、密着した服を着ている。光沢のある非常に薄い服で、裸体に直接メッキ加工を施したように見える。もしかするとボディペインティングかもしれない。


「こんにちは」

 春治とシャルロットは気軽に挨拶した。


「うるせえ!」

「目障りなんだよ!」

「こっちが先にいたんだからな!」

「我等の前をウロチョロするな!」

「クソッ!」

「おい、行くぞ!」


 三姉妹は代わる代わる二人に罵声を浴びせると、地面を踏み鳴らしながら去って行った。その後ろ姿を二人は呆然と見送る。


「き、嫌われちゃったのかな……」


「そうみたいね……」


 二人は肩を落として、三姉妹とは逆方向へ歩き出す。


「どうして嫌われたんだろ…… 気づかないうちに、僕たち何か酷いことしちゃったのかな」


「そんな。だって、まだちゃんと喋ったこともないのに。さっき、こんにちは、って言ったのが初めてだよ」


 春治とシャルロットは、六十人ほどが暮らす施設の中で育ったこともあり、人付き合いを苦手としていた。実際には苦手というほどでもないのだが、少なくとも二人はそう思い込んでいる。


「仕方ないわよ。全員に好かれるのは不可能だ、って、昔、先生も言ってたじゃない」


『生物の多様性』についての授業中、教科担任が話した雑談を春治は思い出す。十人十色、千差万別、すべての人が美味しいと感じる食べ物は存在しない、同じ環境に育った者同士でさえ趣味嗜好はまちまちに分かれる、といった話だった。


「まして、私たちは今、異星人たちに囲まれて暮らしてるんだもの。私たちのことを嫌う人がいてあたりまえなんだわ」


「でも、誰に対しても好かれる努力はすべきだよ」


 言われた刹那、シャルロットは虚を衝かれたような表情になった。


「うん…… そうよね…… そうよ」

 シャルロットは笑顔になる。

「私、好きだな、ハルジくんのそういう考え方」


 二人は、五十四番校舎の角にさしかかった。すると、死角にエアロディナス三姉妹が横並びで仁王立ちしていた。


「え? あれ?」

「どうして……」

 春治とシャルロットは訳がわからない。


 厳しく二人を睨んでいたヴェルギアの顔が、突然、辛そうに歪む。


「さっきはごめんなさい」

 ヴェルギアが深々と頭を下げた。


「すみませんでした」

「許してください」

 スペーヌとピンティも姉に倣う。


「あ、いえ、そんな……」

 春治は困惑する。


 ヴェルギアが、後ろ手にしていたものを胸の前にもってくる。

「これを、読んで下さい」

 意を決して差し出した。


 春治とシャルロットは顔を見合わせる。どうやら手紙のようだ。戸惑いながらシャルロットが手を伸ばす。


「お前じゃない!」


「きゃ! す、すみません」


 今度は春治が手を伸ばす。


「ぎゃあ!」

 ヴェルギアは慌てて手を引っ込めた。

「危ねえな! 手が触れるとこだったぞ!」


「姉さんに触るな!」

「この破廉恥漢!」


「お前が早く受け取らないからだろ!」

 ヴェルギアはシャルロットを叱りとばす。


「えっ! あっ、はい」

 シャルロットは恐る恐る手紙らしき束を受け取り、春治に手渡す。


 それは、大きな紙が幾重にも折り畳まれたものだった。相当、分厚い。春治は、幼いころ一度だけ見たことのある時代劇に出てきた『挑戦状』を思い出しながら、畳まれた紙を展開しようと指をかける。


「てめえ!」

「このヤロウ!」

「ふざけんな!」


「わっ! す、すみません」


「あとで読んで下さい」

 ヴェルギアがまた深々と頭を下げた。


「お願いします」

「お願いします」

 スペーヌとピンティも鋭角に腰を折った。


「わかりました」


 三姉妹は二人に背を向け、「ふん!」「ちくしょう!」と、吐き捨てながら去って行った。


「ふう…… 情緒の振り幅が大きい人たちだなあ」

 やつれた顔で春治が言った。



 林立する校舎群を抜けると、森の入り口に青銅製のアーチがあった。『思索の森』と刻まれている。二人はアーチをくぐり、帰途とは真逆の、裏門へ通じる道に足を踏み入れた。

 そこは青や藍色の葉っぱが生い茂る、樹高六メートルほどの喬木の森だった。正門へ真っ直ぐ伸びる石畳のプロムナードとは、雰囲気がまるで違う。道幅は半分もなく、うねうねと蛇行していて見通しが悪い。


「この青い光、神秘的だね。心が落ち着く」


「え? ホントに? 私はなんだか怖いわ。一人じゃ歩けないかも」


 路面は舗装されておらず、湿り気のある土の表面のところどころに、木漏れ日がくっきりとした斑の影を作っている。


「糺の森に似てる」

 春治が言った。


「タダスの森?」


「京都の下宿のすぐ近くにあった神社の森だよ。暇があるとよく散歩してたんだ」


 前を行く学生も、時折すれ違う学生も、皆、白い制服を着たオウブ人ばかりだった。それもそのはずで、この先にはオウブ人専用の学生寮しかない。

 森に入り、二百メートルほど進んだところで、裏門が見えてきた。門柱の間から学生寮の正面玄関が覗いている。そのため、学園の敷地の終わりというよりも、学生寮への入り口という印象を受ける。門のそばまで来ると、寮舎の全容が明らかになった。


「想像してたのと違うわ」


「百年前の日本の小学校みたいだ」


 二人の前に現れたのは、古色蒼然の三階建木造建築だった。


「おーい!」


 知った声が聞こえてきた。どこか女性的で、聞く者に安らぎをあたえる優しい声。二階の窓の一角から、ミゥミュが手を振っていた。

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