第4話 二人の過去

 春治とシャルロットは特殊な環境の下で育った。

 ひと言で言えば、それは世間と隔絶された暮らしだった。


 生まれてすぐ遺伝子判定で才能を見出された二人は、就学年齢に達すると親元を離れ、特別な教育機関に預けられた。学習施設は都市部から遠くはなれたところにあり、また一旦施設に入ると、外に出ることは滅多になかった。出たところで周囲には自然しかなかったし、自然なら敷地内にもあったからだ。

 施設は世界に三箇所あった。その中で中国は人気がなく、実質、中国人専用となっていた。残すはアメリカとユーロだが、春治の両親はユーロを選んだ。春治とシャルロットは、ドイツの寄宿舎で共に暮らした幼馴染みである。


 施設での一日のスケジュールは事細かに決められていた。起床時間の十分後に脳開発トレーニングが始まり、就寝時間の三十分前まで授業があった。くる日もくる日も脳を鍛え、学業に勤しんだ。

 といっても、勉強ばかりしていたわけではない。授業と授業の合間には、早指しでチェスを一局交えるだけの自由時間があったし、体育、音楽、美術の授業はもちろん、レクリエーションや農業実習、学園祭まであった。

 また、情操教育や道徳教育にも多くの時間が割かれた。そもそもこの機関は、強大なテロリストやマッドサイエンティストを生み出さないために国連主導の元、国際協力で創設されものなのだ。天才が悪の道に走ったために世界が大きく混乱したという歴史を鑑み、そうした事態を未然に回避しようと創案された。

 この機関の教育理念は、『天才を正しい道に誘導する』──いわば、天才の平和利用である。


 たいていは十二歳で施設を出て、それぞれの国へ戻ることになる。二人は、普通の子供が小学校に通う間に高校教育を終え、普通の子供が中学に上がる年に、飛び級で大学に入った。春治は日本の大学に、シャルロットは本国ベルギーには戻らず、スイスの大学に進んだ。


 オウブの船が地球にやって来たのは、春治が大学四回生のときだった。

 半年後、卒業を間近に控えた春治のもとに、日本政府を通じて国連から連絡が入った。オウブ先遣隊の候補に選ばれた、との知らせだった。


 当初春治は乗り気でなかった。大学院に進むことがすでに決まっていたし、研究の準備も整っていた。

 もちろん他の惑星へ行くことの不安もあった。テレビで見た身の丈二メートル八十センチのオウブ人にも、少なからず恐怖心を抱いていた。


 それでも結局は行く気になった。

 心変わりの理由は二つあった。一つは、オウブの科学技術に興味があったこと。一つは、シャルロットに誘われたこと。


 二人を含めた八人が、国連欧州本部のお膝元、ジュネーブ大学に滞在して、オウブ公用語の習得にあたった。講師はもちろん、テレビで見たあの大きなオウブ人である。地球に来たオウブ人はこの一人しかいない。

 講義は当初英語で行われたが、生徒たちのオウブ語の習熟度に合わせて、オウブ語のみにシフトしていった。

 最も習得が早かったのは、シャルロットだった。彼女は語学の天才なのだ。


 二ヵ月後、選抜メンバーが発表された。八人中四人が不合格、残り四人のうち二人が合格、あとの二人は予備合格となった。

 合格者のうち一人はシャルロットだった。

 もう一人の合格者は、春治ではなかった。春治は予備合格だった。


 オウブ行きはシャルロットと、もう一人の合格者であるロシア人の青年に決まった──かに思えたが、決まらなかった。シャルロットが「ノン」と言ったのだ。「ハルジと一緒でなければ行きたくない」と。

 そこでもう一人の予備合格者であるアメリカ人の少女に白羽の矢が立ち、オウブ行きは、この少女とロシア人青年に決まった。


 日本へ帰ることになった春治が、寄宿舎の自分の部屋で荷物をまとめていると、控えめにドアがノックされた。振り向くと、半開きのドア口にシャルロットが立っていた。


「やあ」


「……今夜、帰国するんですって?」


「うん。ここにいてもすることないし。それに、本来やってるはずの研究に早く取り掛からないと」


「……そう」


「まあでも、オウブの科学が入ってきたら、僕がこれからやる研究なんてどれほどの価値があるのかわからないけどね」


 二人が顔を合わせるのは合格発表前夜の謝恩会以来だった。シャルロットが辞退したことと、その理由については、選考委員会から聞かされていた。


「ごめん。合格できなくて」


「そんな! 私の方こそ、無理矢理誘ってごめんなさい」


「無理矢理じゃないよ。言ったじゃないか。僕だってオウブの科学に興味があるって」


 初夏のジュネーブの爽やかな風が窓から吹き込み、シャルロットの栗毛をふわりと持ち上げた。春治はコンロでお湯を沸かして、シャルロットの好きなシナモンティーを淹れた。

 二人はお茶を飲みながら一時間ほど語り合った。はじめ落ち込んでいたシャルロットだったが、春治が努めて明るく振る舞うと、徐々に元気を取り戻していった。


「良かった。最後にゆっくり話せて」

 そう言ったシャルロットの顔は、ほころんでいた。


「そうだね。こっちに来てからあんまり話せなかったし」


「昔みたいに、いっぱいおしゃべりできると思ってたのにな……」


「また、メールするね」


「うん。私もする」


「……」


「……」


 会話が途切れ、沈黙が生まれた。

 四年ぶりの再会が終わる気配を察して、二人は戸惑った。

 次またいつ会えるかわからないという思いが、二人の胸を締めつけた。

 目の前のティーセットを見るともなしに見つめる時間がしばらく続いた。


「もう、行かなきゃ」

 シャルロットが沈黙を破った。

「十時からネット会議があるの。チューリッヒに戻ったらはじめる研究の打ち合わせ」


「そっか……、頑張ってね」


「うん。ハルジくんも」


 春治はシャルロットの目を真っ直ぐ見つめ、右手を差し出した。シャルロットはその手を両手で包み込んだ。春治も左手を重ねた。

 別れを惜しみ、二人はしばらく見つめ合った。


「ゆーてへんかったけど……」

 それまでオウブ語で話していたシャルロットが、急に京都弁で話し出した。

「春治、えらい男前にならはって、ホンマびっくりやわ」


 シャルロットの京都弁は、もちろん春治が仕込んだものである。シャルロットは京都弁で話すとき、春治に「くん」をつけない。


「え、えと、あの……」

 春治は顔を赤くした。

「シャルロットも、めちゃめちゃ別嬪さんになったよ」


「ふふふ、気い使わんでもよろしおす」

 そう言ったシャルロットの頬も、ほんのり赤く染まっていた。


「さて……」

 二人の手がゆっくりと別れた。

「ほな、行きますわ。研究、おきばりやす」


「シャルロットも、あんじょうやんなはれ」


 シャルロットは椅子から立ち上がり、春治に背を向け、数歩歩いてドアを引いた。


「きゃ!」


 シャルロットは小さく飛び退いた。ドアのすぐ外にオウブ人がいたのだ。二メートル八十センチの巨躯を丸め、窮屈そうに廊下を右から左へ進んで行くところだった。


「先生……」


 オウブ人はシャルロットを一瞥し、無言で頷いた。そして立ち止まることなく歩み去った。寄宿舎の中でオウブ人を見るのは初めてのことだった。

 シャルロットはオウブ人の大きな背中を数秒見つめた後、オウブ人が向かったのとは逆方向、建物の出口へと向かった。



 シャルロットと別れて小一時間、春治は荷作りと部屋の清掃を終えた。十時四十分、昼食には少し早い。

 皆に挨拶はしたし、身支度も済んだ。予定を繰り上げて帰国しようか──そんな考えが頭を過ったとき、奥の方の部屋から、男の喚き声が聞こえてきた。ずいぶん取り乱しているようだ。

 大きな声だが、何と言っているかは聞き取れなかった。春治の知らない言語、あるいは言葉だったのかもしれない。

 何事かと、ドアから顔を覗かせると、一番奥の部屋から選抜メンバーのロシア人青年イズマイロフが、血相を変えて飛び出してきた。


「そんな話聞いてないぞ! 嫌だ! 行くもんか! 絶対に行かない!」


 春治同様気になって廊下に出てきた学生たちに肩をぶつけ、押し退け、建物の外へと出て行った。

 呆気にとられていると、イズマイロフが飛び出したその部屋から、今度はオウブ人がぬっと現れた。反転してドアをきちんと閉め、スリムな身体を前屈みにすると、出口へ向かって歩き出した。学生たちは通行の邪魔にならないよう、次々とドアの内側へ引っ込んだ。

 オウブ人は、天井の照明器具に頭を打たないよう首を折って床を見ていたが、春治の手前まで来ると足を止め、無言で春治に目を遣った。端正な顔は一見無表情に思えたが、よく見るとその瞳は憂いを帯びていた。

 オウブ人はしばらくの間春治を見つめた後、何も言わずに去って行った。



「大変! 大変!」


 夕方近くになって、シャルロットが春治の部屋に飛び込んできた。


「ハルジくん、大変よ!」


 春治は目を通していた研究資料から顔を上げた。


「どうしたの、そんなに慌てて」


 シャルロットは満面に笑みを湛えていた。


「決まったの! 私たちに決まったのよ!」


「え?」


「辞退したんですって。イズマイロフが行かないって、選考会にそう言ったの」


 春治はさっき見た情景を思い出した。

 取り乱すイズマイロフ。

 彼が捲し立てながら叫んだ言葉。

「そんな話聞いてないぞ!」

 そして、無言で語りかけてくるオウブ人の哀しげな眼差し……


 春治はそれらをシャルロットに話すべきかどうか自問した。

 しかし、イズマイロフの言った『そんな話』は、早晩自分たちの耳にも届くだろうと、その場では言わずにおいた。

 シャルロットの幸せに水を差すのは憚られた。


 夜になって正式に通達があった。

 二人の選考委員が春治の部屋を訪れた。二人の後ろには、胸の前で手を合わせ、白い歯を見せるシャルロットの姿があった。

 今後の予定や待遇について記された四十枚ほどの書類の束を手渡され、春治はそれを三十秒で速読した。余すところなく目を通したが、『そんな話』に該当する件は一切なかった。

 怪訝に思ったが、すぐそばにシャルロットの嬉しそうな顔があったので、やはり何も訊かなかった。

 いくつかの同意書にサインを済ますと、選考委員たちは帰っていった。


 そのあと春治とシャルロットは、二人でささやかなお祝いをした。

 途中、何人かの学生が部屋にやって来て、二人にお祝いの言葉を述べた。春治は、オウブ人が現れるのではないかと気を揉んでいたが、その夜に姿を見せることはなかった。

 そして二人は、何も聞かされないまま、オウブへと旅立った。


             *


 終業を告げるチャイムが鳴り、講師が教室をあとにする。

 シャルロットは熱心に書き込みを続けていて、ノートを閉じる気配がない。そんな彼女の横顔を、春治は隣の席から見つめている。


 春治はいまだ言い出せないでいた。言ってもただ不安がらせるだけ──そんな思いが二の足を踏ませた。

 今さら言ってどうなるものでもない、という諦念が強くなるのとは裏腹に、重大な過失を犯したという罪の意識が募った。打ち明けるなら、それは絶対、地球にいるときだったのだ。その絶対を怠ってしまったという後悔の念に、春治は今苛まれている。


 ようやくノートを畳んだシャルロットが、春治の視線に気づいた。春治の目を見て、にこっと微笑み、尋ねる。


「どうする? この授業とる?」


「やめておこう。オウブの歴史は長すぎるよ。それにあの先生、雑談が多すぎる」


 体高二十センチほどしかないピョコロ星人たちを踏んづけないよう気をつけながら、二人は『オウブ史Ⅰ』の教室をあとにした。


 今年竣工したばかりの真新しい校舎を出て、築三千年を越える石造りの講堂を迂回し、正門に至る長く真っ直ぐなプロムナードを二人は並んで歩く。


「どうしたの? なんだか元気ないみたい」

 シャルロットが春治の顔を覗きこむ。


「ううん、なんでもない」


 春治は努めて笑顔を作る。

 シャルロットも微笑を返す。


 ピョコロ星人たちを乗せた洗濯機大のバスが後方から迫り、二人の頭上を音もなく越えて行く。シャルロットはバスを見上げ、木漏れ日に目を細める。


「このピンクの葉っぱ、一年中散らないのかしら」


 樹高二十メートルの巨木が道の両サイドに等間隔で並び、正門までのおよそ一キロに及ぶ道程に連なる。


「懐かしい……」

 春治が呟いた。


「桜を思い出したんでしょ」


「うん」


 桜にしてはいささか大き過ぎるが、幼いころ見た桜は、確かにこれくらいの大きさに感じた。


「私、図鑑で見たことあるよ。え~っと、ヨシノの千本桜、だったかな」


「千本桜か…… 僕は見たことないや」


「もお!」

 シャルロットは春治を突き飛ばした。


「ご、ごめん」

 せっかく共感を求めて寄って来た相手に、肩透かしを食らわせてしまったことを反省する。


「うふふ」

 シャルロットは笑い、なぜかオウブ語から京都弁に切り替える。

「実物の桜は見たことあんの?」


 春治も京都弁で返す。


「あるある。家の前の公園に仰山木があったし、近所の川沿いには桜並木があったし、大学にも何本かあったな」


「そないあんのんかいな」


「日本人はとにかく桜が好きやねん」


「せやけど、咲いてる期間は短いんとちゃうん?」


「毎年春に、一週間くらいかなぁ、見頃なんは」


「そない短い期間のために、そない仰山植えてんの?」


「桜は満開になったあと、一枚ずつひらひら散っていくねん。風のある日ぃなんかやったら、一遍に仰山散ってしまう。桜吹雪ゆうねんけど、ホンマに綺麗で、ホンマに儚い。その儚く散るところがまた好きなんよ、日本人は」


「はかないってどういう意味?」


「語源としては、お墓がない、からきてるんとちゃうかな。字いにすると、人の見る夢って書くねんけど。意味はねぇ、そやなぁ…… 束の間の命ゆうか…… その夢のように短い命に対して、切なく思う心情を表した言葉、かな」


「ふうん、儚いか……」


「桜の散りゆく姿は、満開よりも美しい──ってゆうのが、日本人の美意識やねん」


「ほんなら、この葉っぱ散らへんから、儚くあらへんね」


「まあ、これはこれで……」


 ピンクの葉っぱを通して届く淡いピンクの光の中を、二人はいつもよりゆっくりと歩く。


「ええなあ、春治は」


「なんでえさ?」


「地球に帰っても、春になるたんびに、オウブの景色を見れるやんか」


「そっか…… そやね。桜見るたんびに、この光景を思い出すんやろね」


「ウチもいつか日本に行ってみたいわあ」


「おいでえな」


「うん! 行く!」


「きっとやで」


「きっと行く!」


 シャルロットはまた気持ち良さそうに天を仰いだ。

 その横顔を春治は見つめる。


 自分たちの行く末に、どんな運命が待ち構えているのかわからない。たとえそれがどんなに辛い運命だとしても、僕たちは真っ直ぐ向き合わなければならない。僕は降りかかる火の粉から、シャルロットを護らなければならない──春治は心にそう固く誓った。


「僕がこの手でシャルロットを……」


「え? 何?」


「ううん。何でもない」


「けったいな春治」

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