第2話 訪問者


 春治とシャルロットにとって、オウブの一日は長い。べつに、やることがなくて暇を持て余しているという意味ではなく、物理的に長いのだ。オウブの一日は、地球時間に換算すると約三十時間もある。そのため二人は、必ず日に一度か二度仮眠をとって、バイオリズムの調整をしなければならない。

 二人は朝から六時間(地球時間)ほどを学校で過ごし、帰宅してから就寝までの二十時間近くを自由に過ごすという有閑生活を送っている。

 春治が今日初めての仮眠から目を覚まし、布団の中でまどろんでいると、来客を告げる曲が流れ出した。このメロディーはシャルロットだ。


「ハルジくん、起きてる?」

 家の外にいるシャルロットの声が、耳元でクリアに聞こえた。


「うん、今起きたとこ。入って待ってて」


 青い半透明の壁をすり抜けて、シャルロットが建物の中に入る。

 この家には扉がない。それに伴い、鍵もない。扉に相当するのが、半透明の色ガラスに見える壁だ。来客は家人の許可がなければこの壁を通り抜けることができない。無理に通ろうとしても、壁にぶち当たってしまう。シャルロットが中に入れたのは、春治が「入って待ってて」と言ったのを人工知能が許可と判断したためだ。

 家の敷地内であれば、どこにいても聞かれているし、見られている。二人の世話をしてくれているオウブ人からそう聞かされたときは、背筋に冷たいものが走った。人工知能に感情はないそうだが、それでもやはり気分のいいものではない。


 パジャマからTシャツとジーンズに着替えた春治がリビングに入ると、ソファに座ったシャルロットが、例のマシュマロパンにかぶりつこうと大口を開けていた。このパンの名前は、ポジュという。オウブに来てからというもの、彼女は一日も欠かさずこのポジュを食べている。今日のはドッヂボール大のまん丸いポジュで、薄茶色をしている。


「あれ、食事に行くんじゃなかったの?」

 シャルロットの対面に腰を下ろしながら訊いた。


「ハウシくんろも、買っれきら」

 口をもくもくさせながら、シャルロットはテーブルに置かれた春治のお気に入りを指差す。


 このナッツスティックにもちゃんとした名称があるんだろうけれど、いまだに知らない。そんなことは気にも留めず、春治も毎日これを食べている。


「ミルク飲むでしょ?」


シャルロットは傍らのバスケットから、今買ってきたばかりのミルクを取り出し、二つのグラスに注いだ。見た目は牛乳そのものだが、もちろん牛のミルクではない。牛よりも羊に似て、牛よりも一回り大きい動物であることを最近知った。パッケージに動画が印刷されている商品を見つけたのだ。味はクセがなく、飲みやすい。

 春治たちの住むオウラリナーレにはもう一種類、別の動物のミルクが売られている。世話役のオウブ人曰く、「味はすこぶる濃厚で、好き嫌いが分かれる」とのことだ。しかし飲んでみる前に、八本の野太い足を持つトドの動画をパッケージに見てしまい、すっかり飲む気をそがれてしまった。今も飲んだことはないし、この先もたぶんないだろう。


「夜は野菜にしよう。もう三日食べてないよ」


「……そうね」

 シャルロットの表情が曇る。


「少しずつ慣れないと」

 春治は優しく励ます。


「うん」


 二人にとってオウブの野菜を食べることは、ちょっとした冒険だった。どれをどう調理すればいいのか、どれにどの調味料が合うのか、生で食べていいのか、皮を剥いた方がいいのか、そのへんのところを今もってわからずにいる。

 こっちで生活をはじめる前に、世話役のオウブ人から、食べてはいけない野菜、食べ過ぎてはいけない野菜をいくつか教わった。検査の結果、地球人の体質には合わないものがあるというのだ。特にシピーネという野菜は、「絶対口にしてはいけない」ときつく忠告された。

 家の近くのビストロで初めて外食をしたときには、店員に「この料理にはシピーネが使われてますか?」と、わざわざ確認をした。すると、「そんなものは北方の少数民族しか食べない。私だって食べたことがない」と笑われた。二件目で尋ねたときも、店員は怪訝な顔をしながら「入ってません」と言い、しばらくしてから電子図鑑を片手に現れ、「お客さん、こんなもの手に入れようったって、このへんじゃ──」と、やっぱり笑われた。以来、シピーネについての確認はしていないが、かといって不安が完全に消えたわけではない。


「それは何味なの?」

 春治が薄茶色のポジュを見ながら訊いた。


「食べてみる?」


 シャルロットは残り三分の一になったポジュを半分に割って、片方をテーブルの中央に並ぶグラスの口の上にそっと載せた。ポジュはすぐさまグラスの口に食い込んでいく。春治は口の中のナッツスティックを飲み込むと、ポジュに手を伸ばす。

 ポジュを持つのは難しい。指先に力を入れるとすぐに潰れてしまう。絶妙な力加減が求められるのだ。だからシャルロットはいつも両手で包み込むようにして持つ。

 春治は手のひらを上に向け、そこにポジュを載せるようにして口元に運んだ。


「バターのような香りがとってもいいね」


 絹ごし豆腐に包丁をあてがうと自重で刃が沈み込むように、ポジュに当たった歯は吸い寄せられるようにポジュの内部へと進む。パンというよりもはやホイップクリームに似た食感だが、クリームのようにウェットではなく、むしろ乾いている。口溶けなめらかで、存在感がないのに味はしっかりとある。


「ハーブティーの味がするでしょ?」


「ホントだ。カモミールに近いかな。あと、ミントのような爽やかさもある。バターが上質で、しかも濃厚。強いて言えばバター茶味ってとこかな。飲んだことないけど、バター茶」


 二人は同時にポジュを食べ終えた。春治が残りのナッツスティックをパキン! と半分に折り、「はい」と言って、片方をシャルロットに差し出す。


「ありがとう。ねえ、これってバリエーションはあるの?」


「お店によって、微妙に味が違うけど、でもバリエーションってほどじゃないかな」


 カリコリカリコリ、乾いた音が部屋中に響き渡る。カリコリカリコリカリコリカリコリ……


「僕が小さかった頃、家で犬を飼っててね、ポチっていうんだけど、そのポチが硬いドッグフードを食べるときの音が、この音にそっくりなんだよ」


「ふうん。それでこれが気に入ってるの?」


「理由の一つではあるかもしれない」


「ポチって、可愛い名前ね」


「母親は、一周回ってポチ、って言ってた」


「一周回ってポチ?」


「ポチっていうのは、犬の名前としてはすごくレトロなんだよ。それこそ昔話に出てくるくらい古いんだ」


「一周回って、っていうのは?」


「変なものも度を越すと逆に良く思えるとか、一度廃れたものが、月日がたって逆に新しく感じる感覚のことを表現してるんだよ」


「歴史は繰り返す、みたいなこと?」


「そうだね。時代がまた巡って来た、って感じ」


「ふふ、日本語って面白いね」


 シャルロットはミルクを一口飲み、グラスを置くと、背後の青い壁を指差した。


「ねえ、オレンジ色にしてもいい?」


 壁が青いせいで、家の中は余すところなくほんのり青に染まっている。


「どうぞ」


 シャルロットは、なんとなく天井へ向けて語りかける。

「壁を──」

 言葉を発するが早いか、壁は鮮やかなオレンジ色に変わり、室内がパッと明るくなった。


「仕事が速いね」

 春治はふふっと笑った。


「有能ですこと」

 シャルロットは肩を竦める。

「いつも青色にしてるのね。好きなの? 青色」


「そういうわけじゃないんだけど……、ここにきた最初の夜、寝る前に『明かりを落として』って言ったんだ。そのとき初めて青になって、以来ベッドに入ると何も言わなくても青に変わるようになっちゃった」


「ふうん……。脳波を読んでるのかしら。潜在的に青色を求めてるって判断されてるのかも」


「そうなのかな」


「……訊いてみよっか」


「……うん」

 春治はなんとなく天井を見上げる。

「そうなの?」


「脳波ヲ読ンデイルワケデハアリマセン」

 どこからともなく若いオウブ人の中性的な声がした。もちろん天井からではない。

「ハルジサマノ表情、話シ方カラ、安息ヲ求メテイルト判断シ、最適ナ色彩ヲ選択シテイマス」


「──だって」


「有能ですこと」


 春治が人工知能と会話するのは、この家に入居した日以来だった。


「シャルロットは、家とよく話す?」


「まさか。できないよ、そんなこと……」


「だよね」


 シャルロットが人工知能を恐れていることはよく知っていた。人工知能が内蔵されていない家はないのかと、世話役のオウブ人に詰め寄る姿も横で見ていた。オウブ人はしばらく考えてから、「それは難しい注文だ。新たに建てなくてはならない」と、諦めるよう促した。

 人工知能が家のどの部分に設置されているのか、二人はいまだ知らずにいる。もしかすると、建材そのものが脳細胞や神経細胞でできているのかもしれない。だとすれば、まさにユビキタスだ。ただ、視覚細胞や聴覚細胞が壁にも床にも天井にもびっしりと並び、こちらを向いているのだとしたら、それは二人にとってちょっとしたホラーである。


 シャルロットが、テーブル端のお盆に盛られた日本製の栄養補助食品に右手を伸ばす。


「ゼリーはどうする?」

 一つを春治に手渡しながら訊いた。


「うん。今はいいや」


 二人は野菜不足からくる栄養の偏りを補うため、サプリメントをこまめに摂るよう心掛けている。春治は袋を破り、フルーツ味のビスケットを取り出して、ポイッと口に放り込んだ。

 次の瞬間「ミミッ」と電子音が鳴って、春治の目の前五十センチの中空にパネルが現れた。

 パネルには知った顔が映し出されていた。やや男性的で精悍な顔立ち、真っ赤な長髪──ラゥラだ。


「こんにちはー」


 家の外からラゥラの肉声が直接届き、オレンジ色に変わったばかりの半透明の壁に、二メートルのシルエットが浮かび上がった。二人のすぐそばだ。

春治は慌ててビスケットを咀嚼する。

 パネルに映るラゥラの姿は、裏面からシャルロットにも見えている。


「ひ、ひとりかしら……」

 シャルロットが不安そうな目で春治を見る。


 ラゥラにのしかかられ、抱きつかれたのは、つい昨日のことだ。

 コツン! と壁が一回ノックされた。春治はまだ口をもぐもぐやっている。


「おーい、入れてくれよー」


 二人は居留守を使えるような性格ではない。ミルクでビスケットを流し込んだ春治は、「いいよね?」とシャルロットに確認する。シャルロットはコクンと頷いた。しかしその目に涙が滲んでいるのを見て、春治は躊躇う。


「あ、あの、どうしてここに……」


「今日、学校で会わなかったろ? 元気かなと思ってさ」


 春治は、どうしてここに来られたのか? つまり、どうしてこの場所がわかったのか? という意味で問うたが、ラゥラは訪問の理由を述べた。


「す、少し待って。今部屋が散らかってて」


「いいよ、そんなの」


「ほんの少し」

 春治は怯えるシャルロットに顔を近づけ、「大丈夫」と囁いた。「大丈夫だよ。うん」


 細身とはいえ二メートルもあるラゥラから、シャルロットを守れるだろうか? しかもラゥラは、男でも女でもない。狙われているのはシャルロットとは限らないのだ。


「あれ? ひょっとして、警戒されてるのかな?」

 ラゥラがおどけるように言った。


「当たり前だ」

 もう一人別の声が加わった。次の瞬間また「ミミッ」と鳴って、パネルが二枚追加された。


「いきなり抱きつかれたら、誰だって警戒するに決まってるでしょ」

 パネルには、ルゥルとミゥミュが映っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る