登山
「ん…………もう、朝か……」
宿帳を読んで野営した次の日の朝、アーシェラはわずかに頬に当たる冷え切った空気の痛みで目を覚ました。
全身が毛布などに包まれてあまり身動きが取れないにもかかわらず、心地よい浮遊感があるのは、地面から文字通り「浮いている」ハンモックの上にいるからだ。
「もうこんなに明るい……今朝も随分と寝ちゃったみたいだ。流石に少し疲れたからかな?」
昨日の夕方は、宿帳を読み終わってすぐに夕食を食べることになり、家から用意してきたシチューとハンバーグの元を、リーズと二人で焚火にかけて食べた。
その時点ですでに、お互いにテンションが上がっていたからか、いつも以上にラブラブしてしまい、それ以降もこの場で語るのが憚られるほどの濃密な夜を過ごした……。
そのせいか、いつもなら目が覚めてすぐに動くアーシェラも、この日ばかりは心の中で「もう少し寝ていたい」と思ってしまった。いつもとは一味違う、優しく揺れる寝床の感覚も心地よく、終わってしまうのが余計惜しくなってしまう。
だが、アーシェラは眠いだけでなく、極度の空腹も感じており、このままでは動けなくなってしまうと考え、もそもそと体を起こす。
上体を起こしたアーシェラの体には、相変わらずリーズが隙間なくぴったりとくっついていて、とても幸せそうな寝顔のまま、旦那様の胸元に顔をうずめていた。
冷え切った屋外での野営を心地よく感じられたのも、この可愛らしい妻の体の温もりがったからこそ…………それを思うと、アーシェラはやはり起こすのを少し躊躇しそうになるが、意を決して起こしてあげることにした。
「リーズ、朝だよ、起きて。そろそろお腹空いたでしょ」
「えへへぇ~……♪ シェラがちゅーしてくれたら、起きる~……」
「もう、リーズってば……ほら、顔上げて…………」
「ん……」
朝からすでにこんな調子だが、朝食に昨日の残りのシチューとハンバーグを温め、保存がきくパンを食べ始めると、リーズとアーシェラもようやく頭が冴え始めてきたようで、昨日と同じような冒険者の表情を取り戻し始めた。
「ふーっ、ふーっ……寒い中のシチューはやっぱり最高だね、シェラ!」
「そうだね、リーズ。今日もそれなりに歩くから、残ってるものは全部片づけちゃうくらいで大丈夫だよ。そう、この後は……………」
リーズがシチューを吐息で冷まそうとするのを、穏やかな表情で見守るアーシェラだったが、
ふと、この後の行動予定を思い出し、少しだけ気分が陰った。
というのも、夕食の後もしばらく宿帳を見直していたのだが、その中にあった記述から、どうも温泉の源泉は山の中腹にあり、そこから麓まで流していたことが分かった。…………ということはつまり、源泉の場所を確かめるには山登りをしなければならず、それが高所恐怖症のアーシェラには不安なようだった。
「大丈夫だよシェラっ! リーズがずっと手を引いてあげるし、なんだったら前に一緒に釣りに行った時みたいにリーズが背負ってあげてもいいよっ!」
「ありがとう……リーズがいてくれれば、本当に心強いよ。……本当なら、早く克服したいんだけど」
少し高い所に登ったくらいでは命に別条がないことくらい、アーシェラ自身も頭の中で理解はしているのだが、やはり幼少の頃のトラウマはそう簡単に拭えるものではないようで、本人がいくら心に言い聞かせても、体が意思に反して自然と恐怖を覚えてしまうのだった。
(リーズは、たとえシェラが克服できなくても大丈夫なんだけどな。むしろ、シェラが甘えてくれる数少ないことのひとつだし♪)
一方でリーズは、アーシェラの弱点が気になるどころか積極的に受け入れており、
もっと自分に甘えてほしいと思っている。
お互いに欠点は直したいと思いながら、相手の欠点はむしろ魅力にすら感じるのは、やはり愛する者同士ならではの感覚なのだろう。
朝食を食べ終わった二人は、すぐにハンモックをしまって、焚火を完全につぶして出発する。
テントと違ってすぐに収納できるのも、ハンモックの利点だ。
「たぶん、ここを上れば一番早いと思うけれど…………もっとなだらかなところを上った方がいいのかな?」
「…………いや、ここでいい。下さえ見なければ、たぶん大丈夫………うん、きっと」
「シェラ、無理しないでねっ」
リーズとアーシェラが野営をした泉から歩いてすぐの場所に、ごつごつした岩場が突き出た急な斜面がある。
斜面には木や草はあまり生えておらず、砂利や岩がむき出しとなっており、かつてこのあたりで落石か土砂崩れがあったのではないかと考えられた。それでも、ほかのほとんど崖になっている場所に比べれば、圧倒的に上りやすいことも確かであり、アーシェラもここならばなんとか恐怖心を抑え込めそうだった。
「よし………いこう、リーズ!」
「うんっ!」
こうしてアーシェラは、昔から苦手だった、急斜面の登山に久しぶりに挑戦し始めた。
両手でしっかりと体を安定させ、しっかりとした足の踏み場を探りながらゆっくり上るアーシェラを、リーズがすぐ下からしっかりと見守っている。
冒険者の頃から急斜面の登山が苦手だったアーシェラは、いつもこうして時間をかけて慎重に上り、リーズかあるいはエノーがすぐ下で万が一に備えてゆっくりついてくるのが常であった。彼はそのことで足手まといになっている自身を常々情けなく思っていたが、仲間たちはそのことをほとんど責めることはなかった。
リーズやエノー、それにロジオンやツィーテンのだれもが、人それぞれ苦手なものがあることはわかっていたし、急いでいる時にはリーズがアーシェラを背負ってしまえばよかったので、ほとんど気にならなかったようだ。
「いいよシェラっ! その調子っ! 昔に比べて、登るのが上手くなったねっ!」
「そ、そうかな…………少し慣れてきたのならうれしいんだけど」
苦手な急斜面を頑張って登っているアーシェラに、リーズは「頑張って」ではなく、ひたすら褒める言葉を送っていた。
リーズにとってアーシェラはもう十分すぎるほど頑張っているのだから、これ以上頑張れと言う必要はなく、むしろ褒めることで、アーシェラのやる気を出させているのである。
彼女自身、そこまで深く考えていないのだが…………愛するリーズの声援は、アーシェラにとってはどんな魔術より効果があるようで、今や高所にいる恐怖をほとんど感じなくなっていた。
雲一つない晴れ渡った冬の日の急斜面は、時折体の芯まで凍り付くような強く冷たい風が吹きつける。
だが、勢いに乗って岩場を上るアーシェラの体は、つい先ほど食べた朝食のシチューの力もあってか、ボイラーのように温まっており、吹きすさぶ凍える風もむしろ心地よく感じた。
(シェラすごい……昔は登る度に足ががくがくしてたのに、もう普通の冒険者と同じくらいできるようになってる! えへへ、シェラも苦手なのを克服してるんだから、リーズも何か……苦手なものを克服できるかな?)
ほめて応援しているとはいえ、自分の力をほとんど借りずに登っていくアーシェラを見て、嬉しさ半分寂しさ半分のリーズだったが、アーシェラも苦手を克服しているのだから、自分も何か苦手分野を克服してみよう―――――――そんなことを考えながら、すいすいと登っていたところで、リーズの第六感が何かを感じ取った。
(あれ? 地面がちょっと揺れた?)
リーズが足場にしていた大きな岩が、ほんの少しだけ震えたような気がした。
一瞬嫌な予感がしたリーズは、ほのぼのした雰囲気から一変、警戒態勢をとったが…………その直後だった!
「シェラあぶないっ!!」
「!!??」
リーズがまるでバッタのような跳躍力で、すぐ上を登っていたアーシェラを背後から抱きしめた瞬間、ズドンと何かが爆発したような音と共に地面が大きく震え―――――――二人の頭上に、何かが降り注いだのだった。
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