―古狼の月16日― 伝統と規則、あるいはその理由

伝統

「う~ん…………やっぱり、何か足りないなぁ」


 この日アーシェラは、珍しく料理について悩んでいた。

 彼の目の前にあるのは、竈の火にかけられた大きな鍋――――その中では、いくつかの具材がコトコト音を立ててじっくり煮込まれている。

 その具材の一つに、挽肉を小麦粉で作られた分厚い生地で包んであるという一風変わったものがあり、アーシェラはそれを一個お玉で掬い、味を確かめてみたのだが、いまいち不満な様子だった。

 味自体は悪くない。リーズなら喜んで食べてくれるだろうが、彼の不満はそれとは別のところにあるようだ。


「最後に食べたのはだいぶ前のことだけど、こんな味じゃなかったのはなんとなくわかる。調味料ではごまかしがきかない…………そんな何かが足りない。このレシピが間違っているとは思えないんだけど」


 鍋をいったん遠火に移して、顎に手を当てながら調理机の上に置いてある羊皮紙を見つめるアーシェラ。

 そこには、とある料理のレシピをアーシェラなりにまとめたものが書かれているのだが、その通りに作ったものがどうもお気に召さないようである。



「シェラーっ! たっだいまーっ! いいにおいがするーっ!」

「ん……帰ってきたねリーズ」


 アーシェラが四苦八苦していたところで、玄関の扉が勢いよく開く音と共に、冬でも元気いっぱいのリーズの「ただいま」が聞こえてきた。

 リーズがすぐに抱き着いてくると分かっているアーシェラは、危なくないように竈から少し離れると…………

案の定一直線に突進してきたリーズを、懐でしっかりと受け止めた。


「えっへへへ~♪ シェラあったか~い♪」

「おかえりなさいリーズ。今日も一日お疲れ様…………んっ」


 いつものようにただいまとお帰りのキスを交わすと、リーズはさっそく完成間近の鍋に視線を移した。

 この日の鍋からはいつもと違う独特の香りを感じたので、家に入ったときから気になっていたようだ。


「オニオンスープみたいな匂いがしたけど、お鍋が真っ赤っかになってる!? もしかして今日は激辛鍋?」

「いいや、辛そうに見えるけど実は全然辛くないんだ。この赤いのは、冬の前に森で採ってきた紅蕪ビーツの色なんだよ」

「へぇ~……あの紅い蕪をスープに入れると、こんなに赤くなるんだね~っ。ってことは、これは蕪と玉葱のスープなのね!」

「その通り。今日はそれなりに味の濃いハンバーグを作ったから、逆にスープはあっさりとした方がいいかなって」

「え? ハンバーグ?」


 リーズは台所をきょろきょろと見渡したが、ハンバーグらしき料理はどこにも見当たらない。

 だが、アーシェラがリーズに嘘をついているとも思えないので、リーズは困惑してしまった。


「シェラ………その、ハンバーグって? どれ?」

「ふふっ、ちょっと意地悪だったかな。ハンバーグはここにあるよ」


 そういってアーシェラはお玉を鍋に沈めると、真っ赤なスープの海から、先ほど味見していた挽肉包みを取り出して見せた。

 この世界では、挽肉をこねて調理したものはほとんどハンバーグ扱いなので、これもまたハンバーグの一種であることは間違いない。

 あまり見ない形のハンバーグではあるが、リーズには見覚えがあるようで、たちまち目を輝かせた。


「あ、これって確かピロギーだっけ! 王宮にいたときに何回かわ!」

「おや、意外だね。王国は宮廷料理でこれを出すんだ。でも、名前が少し違うね。今作ってるのは『ピロゲン』っていう、旧カナケル地方の伝統的な家庭料理なんだ。もしかしたら、何らかの形で王宮に伝わったのかもしれないね」


 このピロゲン……王国の宮廷ではピロギーと呼ばれるこの料理は、現代的に言えば餃子の一種であり、大本は魔神王がいたギンヌンガガプよりさらに北の地方で生まれたとされている。

 旧カナケル王国でもよく食されていた伝統的な家庭料理でもあり、主に塩漬けにしてさらにチーズを混ぜた非常に味の濃い肉塊を生地で包み、それを薄めのスープに入れて煮ることで味を調えていたとされている。


 一方で、ピロゲンと一緒に煮込んでいるスープは、アーシェラの言う通り紅蕪と玉葱が主になっている。

 見た目が紅蕪の色に染まっているので辛そうに思えてくるが、実際はとてもあっさりとしており、香辛料の香りはかなり抑えられている。

 リーズが改めて鼻をクンクンして湯気を吸いこむと、それだけで体がほわっと温かくなるような気がした。


「えへへ、とってもおいしそう……♪ シェラ……もしかして、故郷の味を再現しようとしてたの?」

「まあね……リーズと一緒に、僕の生まれ故郷だったあの遺跡に行ったとき、ふとこの料理のことを思い出したんだ。僕は母さんが作ってくれたピロゲンが大好きで、何度も何度も食べたのに……ずっと忘れてたんだよね」

「シェラ…………じゃあこれは、シェラのお母さんの味なんだねっ! リーズもシェラのお母さん直伝の料理、食べてみたい!」

「う~ん、リーズ……ごめん。残念ながら、このスープは僕の母さんの味には遠く及ばない。何かが……何かが足りないんだ」

「そうなの? シェラが料理で悩むって珍しいね」

「製法が失われちゃったからね。いろんな文献を読んで、それらしい味になるように研究したつもりなんだけど……母さんは何か隠し味を使っていたんだろうか?」


 そう、アーシェラが先ほどから悩んでいたのは、出来上がった料理が、かすかな記憶に残るそれと違うと感じたからだった。

 とはいえ、アーシェラが最後に母親の手作りのピロゲンスープを食したのは、まだ彼が故郷の家に住んでいた頃であり、山向こうに亡命してからは窮乏生活が続き、こういった料理は食べられなくなってしまった。なのでアーシェラの記憶が絶対とは言えないのだが、それでも彼にはこの料理の味がどうしても納得いかないようだ。


「だ、大丈夫だよシェラっ! シェラが作るものなら、リーズはきっと美味しく食べられるからっ! それに、これから先シェラがたくさん作ってくれれば、きっとそのうちお義母さんの味に近づけるよっ! それよりもリーズお腹すいちゃったから、早く食べたいなっ♪」

「そうだね、リーズの言う通りだ。はじめから完璧である必要はないし、これから上手くなっていけばいんだ。リーズと出会ってからずっと……ハンバーグ作りに磨きをかけたようにね」


 母親の味を再現することは叶わなかったが、いずれは経験を積んで近づくことはできるはず。それよりも今は、リーズへの愛情を込めて作ることの方が最優先だ。

 リーズへの愛がアーシェラの料理の腕を形作ったように……いつかその先にたどり着く境地もあるだろう。


「それじゃあリーズ、食器を用意してくれるかい」

「任せてシェラ!」


 こうして二人は、いつものように夕飯の準備を始めた。

 だが、そんなときに玄関の扉がトントンとノックされる音と、ミルカの声が聞こえてきた。


「村長、リーズさん、失礼いたします」

「あ、ミルカさん! どうしたの?」

「私たちの家で保護していた女性が目を覚ましましたので、お二人にお伝えしに来ました」

「えっ!? あの子が目を覚ましたの!?」

「知らせてくれてありがとう、すぐ向かう」


 どうやら、ミルカとミーナの家で保護していた遭難少女が意識を取り戻したらしい。

 夕食前ではあるが、リーズとアーシェラはすぐに彼女たちの家に向かうことにした。

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