秋は、俺の一番好きな季節だ。

 食料に、景色、過ごしやすい気候は、人間のあらゆる部分を豊かにする。

 俺達もまた、例外ではなかった。

 彼女はますます成長した。

 あの出来事があってから、彼女は少ないながらも臆することなく感情を伝えるようになったし、言葉数も増えた。

 何にでもすぐ興味を示し、積極的に質問をしてくる姿には感心を覚える。

 表情筋はまだまだ硬そうだが、時折見せる表情は普通の子供そのものになっていた。


「そうだ」

 枯れ葉を集めて戻って来た彼女は、ふと声を上げた。

「わたし、あなたをどう呼べばいいの?」

 前触れもない問いかけに、木の棒が空振って魚が地面に落ちてしまった。

「……は?」

「だってわたしのことは、『おじょうさん』って呼ぶでしょ。だったら、わたしもなにか呼ばないと変かなあって」

「……何を今更言い出すんだい」

 彼女はうーんと唸ると、俺の正面に立ちふさがった。

「――あなたのことが知りたい、から?」

 そう言った彼女の目の奥が一瞬、妖しく光った……気がした。

 そんなことを言われても、俺に名乗る名前なんてないし、まして怪盗なんて言ってしまえば、今までの日々が全て無駄になる。

 気まずくて目線を泳がせるが、彼女はどこうとしない。

 とにかく今はやり過ごすしかない、と俺は観念して、

「……おじさん、でいいよ」

 と言った。

 彼女はそれでも少し不満そうだったが、やがて納得したように頷いて、再び燃え種を探しに向かった。

 彼女が離れて、ようやく肩の力が抜けた。あれは、何だったんだろうか。

 単なる好奇心か、素朴な疑問か……もしかしたら、訳も分からないままに自身を連れ出した俺を、怪しみ始めているのかもしれない。

 自分だけでなく他人もヒヤッとさせるな、この子は……。


 仕込んだ魚をたらふく食べた後、彼女はすやすやと心地よさそうに眠っていた。

 彼女が大量に運んできた枝のお陰で、焚き火は依然赤々と燃えている。

 ……火は嫌いだ。一瞬にして全てを奪う。俺は、昔のことを思い出していた。

 俺の故郷は貧困な国だった。

 奪い合いは日常茶飯事、生き残るためには人を殺すことも厭わない、酷い有り様だった。

 俺はそこで一人、必死に耐えてきた。

 いつか必ず、報われる日が来ると信じて。

 しかしある日、その希望は絶望へと変わった。

 戦争で、町は炎の海に沈められたのだ。

 人も、家も、見慣れた景色は、緋、焔、火……跡形も無くなった。

 だから俺は決意したのだ。自らの欲望に忠実に、躊躇なく手に入れると――。

 

 心臓が、どくどくと脈打つ。目の前の小さな熱が、俺に燃え移ったようだった。

 眼がゆっくりと少女を見据える。紅が、ここにいる目的を思い出させてくれた。


 腰の短剣に手をかけようとした刹那、俺と少女の間を、強い風が吹き抜ける。

 その衝撃に火は消え、辺り一面は闇に包まれた。

 異変に気付いたのか少女がもぞ、と動く。だが俺は構わず剣を取り、標的めがけて振りあげた。

 殺してしまうんだ。彼女の目が覚める前に、俺の決意が消し止められないうちに。

 剣先が彼女の首元を捉えた、その時――

「おじ、さん……」

 微かな声で、でも確かに、彼女はそう口にした。

 初めて教えた、俺の呼び名。

 この先きっと、誰からも呼ばれることのない、その響き。

 剣を持った俺の手は、魔法にかかったように動きを止めてしまう。


 程なくして、彼女は身体を起こしてしまった。

 掲げた手はむなしく、俺はその先鋭を元の場所に収めることとなり、自責の念に駆られる。

 呆然と少女を見つめていると、少女は寝ぼけ眼をこすりながら、

「……おじさん、へいき?」

 と尋ねてきた。ぎくりとしたが、悟られないように

「平気だよ。さあ、安心して寝なさい……朝までもう少しあるから」

 と言って、俺は彼女を寝かしつけようとする。しかし少女は首を振ると、

「もう眠くないよ。それに――」

 と言いながら俺の方に近づき、

「よく、分からないけど……おじさん、元気なさそうだったから」

 小さい手のひらで、俺の頬に触れ――そっと撫でた。

 彼女の手はひんやりとしていたが、何故だろうか、ほんのり熱を帯びていた。


 身体の隅々が満たされていく感覚。

 それは、初めて宝を手にした時の充実感と似ていた。


 俺は彼女の手に自らの手を重ね、そのまま握ると、よっこいせ、と立ち上がる。

 先程まで俺の中に燻っていた黒い感情は、どこかへ消えてしまったみたいだ。

 心の中では苦笑いを浮かべるが、表面上は笑ってみせる。

 上手くいくかは分からないが、俺には一つ、考えがあった。

「お嬢さん、ついておいで。……とびきりのお宝を、見せてあげよう」

 謎多き三十路のおっさんにここまで気を遣ってくれるのはこの子くらいだ。

 ならばそれが束の間の出来事であったとしても、お礼をしてやらないといけない。


 小高い丘を二人で登る。手を繋いで、互いを確認するように一歩ずつ踏みしめた。

 頂上に着くと、肩を並べて座る。

 彼女はきょろきょろと忙しなく、合唱会に出る前の子供を見ている時のように微笑ましく感じる。

「さあ、もうすぐだ」


 俺が彼女に見せたのは、朝焼けだった。

 手中に収められないのが惜しいほど、俺はこの景色が好きだった。

 蒼と茜のコントラストはどこか神秘的で、彼女のようだ、と思った。

「きれい……」

 彼女は囁くように、そう言った。見せた甲斐があったな、と得意になる。

 はたと気付く。自分も、変わっているではないか。

 他の人間と宝を共有しようなんて、今まで一度も思ったことはなかった。

 同じものを分かち合う喜びを、俺は今、初めて知ったのだ。

 そして愚かにも、この時がもう少しだけ続いてほしい、と願わずにはいられなかった。

 瑠璃色に照らされた彼女の笑顔を、俺は一生忘れないだろう。

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