③ 5/15 人事部長の笑み

 人事部の応接室に、逃げるように飛び込んだ。

 菜花は自分でも驚いている。でも、先に京都へ行こうと言い出したのは司。クビになってこれからの生活が悲惨なことになるなら、少しぐらい楽しみがほしい。


「ノックぐらいできないんですか」


 無感情で抑揚のない声がしたので、菜花はぴんと背筋を伸ばす。人事部長がすでに座って待っていた。


「あ、すみません。もう一度、入るところから」

「なにバカなこと言っているんですか。面接の練習じゃあるまいし。早く座りなさい」


 陰気な雰囲気を放つ落ちくぼんだ目が、鋭い眼光で菜花を見つめる。蛇に睨まれた蛙の気持ちでソファに腰をおろした。


「結論から先に申し上げます」


 淡々とした口調でいきなり本題に入ってきたので、ビクッと肩が震えた。菜花が怯えの色を浮かべても、人事部長は表情を崩さず語り続ける。


「派遣期間が六月末までですが、七月からもここで働いてもらいます」

「え?」

「聞こえませんでしたか? 七月からも」

「いえ、聞こえてます。わたしは有期雇用派遣ですよ。同じ会社で働けるのは最大で三年のはずじゃ……」


 声をすぼめて考えた。契約が切れても継続して働けるということは――。ひとつの答えが頭にひらめいて、パッと明るい笑顔になった。しかし人事部長の声は冷たい。


「なにか勘違いをしてますね。有期雇用の派遣社員は同じ会社、同じ部署で三年以上働けないだけです。部署が変われば問題ありません」


 まだアカツキで働ける。その事実が嬉しくて「ありがとうございます」と頭を下げたのに、冷水を浴びせるような対応が続く。


「おめでたい人ですね。これは部署を変えて、あなたを派遣で安く使うための方法ですよ。さっき、七月からもここで働くという話を聞いて、正社員になれると思ったんじゃないですか」

「……思いました」

「正社員になりたいのなら、派遣会社に利用されてはいけません。利用してやるぐらいの気力でいかないと」


 新卒カードを失えば、実務経験という壁にぶち当たる。だから派遣会社を利用してスキルアップを目指す。菜花もそのつもりで働きはじめたが、正社員の道は厳しい。だから七月からもアカツキで働けることを素直に喜んだけど……。


「あの、グランドマスターキーを使用したことは?」

「その話ですか。それなら昨日、幸野さんから聞きました」

「えっ」

「幸野さんは常日頃からあなたに、グランドマスターキーを貸していたようですね。だからこんな大事になるとは思わずに使用した。それでいいですか?」


 返答に困っていると、人事部長はさらにたたみかける。


「幸野さんは減給三ヶ月です。それで今回の件は終わりました」


 ユウユが減給。あのユウユが菜花をかばう。あり得ないことだらけで背筋がぞっとする。でも――。


「今日でクビになると思っていたので、ホッとしました」

「またバカなことをおっしゃいますね。いきなりのクビはあり得ませんよ。解雇する従業員には、三十日前までに解雇の予告をする必要があります。あなたはもう少し法を学んだ方がいいですね」

「……すみません」

「七月からの部署や契約については、六月に入ってからで。では、総務に戻ってください」

「わかりました。ありがとうございます」


 歩き出すと、菜花の背中に人事部長が声をかけてきた。


「あっ、言い忘れてました。今日でここをクビになったら、池田君と京都へ行く予定だったのに、クビにはしませんよ。残念でしたね」

「えっと、あの……それは。もしかして、聞こえてましたか……」

「ええ、バッチリ聞こえてました。ここの扉、薄いんです。企画課からどのような報酬があるのか考えてましたが、そういうことですか」


 体じゅうがかあっと燃えあがるような恥ずかしさに包まれた。


「若いっていいですね」


 人形のように、まったく表情を崩さなかった人事部長が、はじめて微笑をもらした。


 

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