④ 5/15 ユウユの賭け

 茹で蛸もびっくりするような赤さで、菜花は応接室を飛び出した。

 手団扇で扇ぎながら顔の熱を冷ますけど、うれしさが胸の奥から突き上げてくる。この喜びを早く司に伝えたくて、エレベーターを待つ間にスマホを取り出した。でも、会って話がしたい。


「いまから行っても大丈夫かなぁ」


 天井を見上げて考えた。ユウユには悪いけど、午前中の業務は気にしなくていい。司が忙しくても、この上ない喜びに満ちた笑顔を見せれば、きっとすべてを理解してくれる。下へおりるエレベータを見送って、菜花は上のボタンを押す。

 行き先は七階。マーケティング部企画課へ。

「失礼します」と不安がまじる声を発して中に入ると、千乃が顔を上げた。


「菜花、どうしたの?」


 司に会いに来たとは言えない。だからつい口走ってしまう。


「クビにならずにすんだので、池田さんに」

「よかったぁー。でも、ボスならいま横浜かな」

「横浜ですか。じゃ、今日は帰ってこない?」

「直帰じゃないから、夕方には戻ってくると思うけど。それより本当によかったね。これで六月末まで」

「あっ、七月からもここで働けそうです」

「えっ、そうなの。それじゃ早くボスに知らせないと。すごく気にしてたから」


 スマホを取り出すと、驚異的なスピードでメッセージを送る。


「これでよし。ボスに伝えたから安心して」

「……ありがとうございます」


 千乃に悪気はない。でも菜花から真っ先に伝えたかった。司に会う口実を失ってしまったことも恨めしい。


「あ、そうだ」


 薫にもメッセージを送って、心配をかけた熊一や一颯にありがとうの気持ちを伝えた。


「あとは……」

 

 総務の前で立ち止まった。菜花の心に引っかかっているのはユウユのこと。責任逃れがうまいのに、わざわざ不利になることを人事部長に話す。その見返りはなんなのか。あれこれ考えると、ドッと疲れが肩にのしかかってくる。

 でも命拾いした。

 人生最悪の合コンもあったけど、仕事で頼りになるのはユウユだけ。理不尽な押し付けもたくさんで、ほとほと困り果てたこともあったけど――。


「あれ?」


 菜花はふと違和感を覚えた。

 試飲会の当日、ユウユはカフェレストランのそばに佇んでいた。いつもと違う様子で。 


「邪魔よ」


 刺々しい声に振り返ると、ユウユがいた。

 瞬時に顔を強張らせた菜花を鋭いまなざしで射貫くと、ユウユは「ちょっとついてきて」と背を向ける。そして誰もいないロッカールームで、不機嫌な声を投げた。


「人事部長と話はついたんでしょう。言いたいことは?」

「グランドマスターキーのこと、ありがとうございます。おかげでクビにならずにすみました。でも、ユウユさんが減給に……」


 言葉を詰まらせると、ユウユはダンッと激しくロッカーを叩いた。


「ふざけてるの? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ。いつも、いつも、そうやっていい子ぶってムカつく」


 激しい口調で責められても、どうして怒っているのかわからない。驚きの表情を一面に浮かべて、菜花は狼狽えるだけ。ユウユは舌打ちをした。

 菜花が微かな違和感を覚えたとおり、試飲会を潰そうと空調設備に細工して、冷蔵庫のコンセントを切断したのはユウユ。

 総務部長の命令で完全に逃げ道がなかった。菜花たちを困らせてやろうと媚びを売ったつもりが、トカゲの尻尾にされていた。

 

 もし試飲会が大失敗に終わったら、企画課は数々の妨害を告発してくる。そうなると防犯カメラの映像を調べて、ユウユは言い逃れできない立場に。上からの命令だと言い張っても、総務部長は権力を振りかざして逃げることは目に見えていた。

 くだらない争いに巻き込まれるなんて冗談じゃない。総務部長の命令を断ることもできたが、誰もが嫌がる職場に放り込まれて、自主退職に追い込まれる。それぐらい簡単に予想できた。


 窮地に立たされて逃げ道を探したとき、菜花がいた。試飲会を成功させて、すべてをなかったことにする。それに賭けた。でも、菜花はミスを犯す。

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