② 5/15 司のプロポーズ

 人事部長と約束した時間は九時。あと三十分。時計ばかり気にしている菜花に主任が声をかけてきた。


「大石さんがいるとこっちまで落ち着かない。さっさと人事部へ行ってくれ」

「でも」

「午前の業務は幸野さんがやってくれるから、どこかで時間を潰してゆっくり帰ってこい」


 チラッとユウユを見た。「はあ? どうして私が菜花の業務をやらなきゃならないのよ」と言いたげな目で、きつく睨んでくる。でもそれ以上に突き刺さったのが、ユウユ以外からのまなざし。かわいそうな派遣社員という哀れみの目。

 菜花がグランドマスターキーを勝手に使って、クビになる。そのうわさは総務じゅうに広がっていた。完全に腫れ物扱い。ユウユには悪いけど「わかりました」とオフィスから出る。


 もうため息しか出て来ない。ユウユは人事部長になにを話したのか、今朝も教えてくれなかった。それがとても怖い。中途半端に余った時間も苦痛。半べそをかきながら歩いていると、司を発見した。

 菜花は慌てて笑顔をつくる。


「おはようございます。総務にご用ですか?」

「菜花に会いに来た」


 ん? っと首を傾げた。聞き間違いかと思って目を丸くするけど、司は「少し話がある」と言って背を向ける。菜花は離れていく広い背中を急いで追いかけた。

 司は人事部に一番近い休憩室リフレッシュルームで足を止めた。中には背中を丸めてスマホをいじる男がいたが、人影に気付いてそそくさと逃げ出す。


「勤務中にスマホゲームか」

「そういえば、ゲームが原因でクビになった人がいましたね」


 クビ……。その言葉を口にした途端、気まずい空気が流れた。しまったと片頬を引きつらせた菜花は話題を変えようとしたのに、澄み切った黒の瞳がやさしくなる。

 

「菜花と一緒にいると面白い。いざというときの度胸や、正確な判断力にも驚かされた。心根のやさしさも、ものすごく魅力的だと思う」

「急に、どうしたんですか」


 いきなりの褒め言葉に面食らったが、散々な目に遭ってきてるので警戒心が先に働く。世の中には社交辞令というものがあった。勘違い女になって恥をかくことだけは避けたい。司のペースに呑み込まれないように、菜花は強い意志を持とうとした。でも、司はまぶしい笑顔を投げかける。


「ここをクビになったら、俺のところへ来い」


 ドクンと心臓が大きくはねる音を聞いた。一瞬で頬が熱くなるのを感じた。脳内少女マンガの頭で考えると、これはプロポーズ。全身が心臓になったみたいに脈打つ。だけど菜花は、眉間に深いしわを刻んで考え込んだ。


 ――俺のところへ来い。これはいったい……どういう意味?


 司から視線を外して、難しい顔をする。その険しすぎる表情に司は「あれ?」と心の中で焦った。菜花が頬を赤く染めたままなら「一生、大切にする」と次の言葉が出せた。それなのに、めちゃくちゃ困った顔をしている。

 空気の重さと、よくわからない重圧に押しつぶされそうになった。ふたりとも顔をそらしてひどく考え込んだが、菜花が「あっ」と軽く両手を合わせた。


「神社でバイトですか? それもいいかもしれませんね。薫さんはやさしいし、熊一さんのおやつが食べ放題ですね」


 声を弾ませて、にこにこしている。「そうじゃない」と言いかけたが、菜花はぺこりと頭を下げた。


「それじゃ、行ってきます! また連絡しますね」

「えっ、あ……、時間か」


 完全にタイミングを逃した。


 ――菜花をからかいすぎて、俺、嫌われてる?


 軽くショックを受けたが、それなら一からやり直してまた口説くだけ。司は歩きながら、菜花の攻略方法を考えた。

 食べることが好きで、歌が上手い。それから脳内が少女マンガだから――。

 今度は司が「あっ」と声を上げた。


 菜花には『好き』という言葉が必要。『好きです。付き合ってください』と、青春まっただ中の甘酸っぱいシチュエーションがいる。きっとバラの花束を差し出すような男が好み。考えただけでも恥ずかしくて死にそうになる。


「どうしたんですか?」

「いや……なんでもない。なかなかハードルが高くて呆れてるだけだ」


 菜花はきょとんとして首を傾げたが、すっと息を吸い込んだ。


「池田さん、今日でここをクビになったら京都へ行きましょう」

「えっ?」

「ナスのビール。一緒に飲みましょう」


 耳まで真っ赤に染めて、誘ってきた。司が返事をする前にせわしなく応接室の中へ消えたけど、菜花にしては一世一代の告白。司はスマホを取り出して、思わずバラの花束を注文しそうになったが――。

『このクソ野郎ッ! どこに行った。仕事しろッ‼』と、千乃からのメッセージでいっぱいだった。

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