④ 5/12 キスしたい

「池田さん、見てください。これ」


 菜花がカバンから取り出したのは、新しいクラフトビールの企画書。ビール業界の現状から新しいクラフトビールの特徴、競合分析、市場調査の結果と続いて、販売計画や具体的なスケジュールまでぎっしり詰まっている。


「ほら、ここ。この企画の関係者の一覧にわたしの名前があるんです」


 それは本当に小さな文字で、司が書き加えたもの。


「よく見付けたな」

「ありがとうございます。千乃さんが教えてくれました。わたしはこれで満足です。池田さんと同じ仕事をした証拠です」


 菜花の嬉しそうな顔が深く心に突き刺さる。司も同じ気持ちで企画書に菜花の名前を加えた。神社で酔っ払っていた菜花が、五年も前に発売されたクラフトビールを最高に気に入っていると言ってくれたから。

 松山にすべて奪われたけど、絵本のラベルのようなクラフトビールは、司がはじめて完成させた商品。五年も経てば新しい商品に席を奪われて埋もれていくのに、菜花はこれが一番だと、ぶっ倒れるまで飲んでいた。


「本当によくやってくれた。でも、結果がこれじゃ喜べない。くだらないことに巻き込んでしまった」


 一緒に、などという夢を見なければ、窮地に立たされることもなかった。


「すまない。完全に俺のミスだ。再就職先はあるのか?」

「まだわかりません。いまの派遣会社もクビになったら池田さんに、千乃さん。それに中山さん。あとはムカつく、溝口。みんなにたかりますからね」

「えっ……」

「当然でしょう! こっちだって生活がかかってるんですよ。これだけの縁があれば、誰かがどこかを紹介してくれるはず」


 あっけらかんと笑うから、司は不安になる。でも――。


「変わったな。最初に話した頃は、おどおどしていつも小さくなっていたのに」

「人生のどん底から色んなことがありすぎて、たくましくなったのかも。特に試飲会の大ピンチを乗り切ったことは、かなりの自信につながってます。わたしだって、やればできる子なんです」


 ここでようやく、ふたりはほほ笑みを交わすことができた。そして、司の大きな手が菜花の頬にそっとふれる。アカツキをやめても、そばにいてほしい。その気持ちを込めてぐっと身体を近づけたのに。


「そうだッ!」


 菜花は大きく叫んで立ち上がった。


「これ、これも見てください」


 がさごそとカバンの中をあさって取り出したのは、大きな茶封筒。中には色あせた古い資料が詰まっていた。


「十年前、アカツキの海外事業はことごとくライバル企業に負けて、大ピンチに陥っているんです」

「……なんの話だ?」


 キスをしようとしたのに肩透かしをくらった。わざとなのか、天然なのか。つかみきれない司は、気まずい顔で資料に視線を落とした。だがすぐに狼狽の色を浮かべて、次々と資料に目を通す。


「これは……」

「海外事業の失敗は女性役員がいないからでした。海外では女性の社長も多くて、女性ならではの視点が抜けていたアカツキは、苦戦を強いられてます。そこで期待されたのが、松山さんです。その議事録に記載されてます」

「松山の話は、聞きたくない」

「いえ、聞いてください。総務部長が認めました。五年前、池田さんを陥れたのは松山さんじゃない。松山さんは騙されただけだって」


 驚きの色を濃くした黒の瞳が、菜花を見据えた。


「当時の経営陣は早く松山さんを役員にしたかったようです。でも、実績が足りません。会社に莫大な利益を与えるほどのインパクトを求めてました。そのとき、池田さんの案が持ち込まれています」


 それは五年前、海外事業の低迷が取り返しのつかないところまで落ち込んでいた時期。議事録を紐解くと、松山を無条件で役員にしようとした様子がうかがえる。


「でも、問題が起きたんです」

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