③ 5/12 すれ違う心
一日の仕事を終えた菜花は疲れた肩をまわして、「お先に失礼します-」とオフィスをあとにした。
「今日も無事、終了したけど……」
いつまでも処分が決まらないので、毎日が刑の執行を待つ罪人のような気分。精神的にきつい。
「よぅし、おひとり様でパンケーキを食べに行くか」
あま~いおやつは幸せの源。世界だって救えそう。
そろそろイチゴの季節が終わるので、ストロベリーやラズベリー。ベリーベリーだらけのパンケーキに決めた。
ふわっふわにゆれるパンケーキ。口当たりがとても滑らかで、とろけるようなクリームと甘酸っぱいソースたっぷりのパンケーキ。大きく開いた口を近づけて、ぱくりと食べる。想像しただけで多幸感に包まれた。
ところが突然、背筋がぞくりと寒くなった。イヤな予感がして振り返ると、ロビーがざわついている。
「なんだろう?」
目を凝らすと、帰宅する社員であふれた人の波が自然と割れだした。そしてその中からひとりの男が近づいてくる。
「げっ」
菜花が目にしたのは、司の姿。しかも、凄まじい怒りが殺気になってゆらめいている。
「えっ、なんで?」
逃げなきゃ、殺される。そんな雰囲気に「ひぃぃっ」と短い悲鳴を上げて菜花は後退りした。それでも大きな歩幅でずんずん前進してくるから、背を向けて逃げ出した。途中、「なぜ、逃げる」と大きな声が聞こえたが、怖い。
「なんか、怒ってますよね。しかも驚異的に。怖いです。怖いから逃げますッ」
全速力で逃げたが、足の長い司にかなうわけがない。あっという間に腕をつかまれて、引きずるようにさらわれる。
「ぃ、痛いです。ちょっと、池田さんッ」
振り払おうとしても司は離さない。自動販売機が並ぶ
「おまえはバカか! ここを途中でクビになったらどうなるのか。それぐらいの計算もできないのか」
「そ、それぐらいわかってますよ」
「わかってない。いいか、大人と子どもの違いを教えてやる。今がよければそれでいい、それが子どもだ。大人はその先の未来を考える。ひとつの選択が人生を大きく狂わせることだってあるからな。慎重に行動するんだ。それなのに勝手に結論を出しやがって。相談ぐらいできただろッ」
その言葉に菜花は「あっ」と口を開いた。相談という方法に、いま、気が付きましたと言いたげな表情で。
司は肩を落としてソファーに腰をおろした。
「ここで、試飲会を成功させようって約束したよな。それなのに」
「成功したじゃないですか。わたしもがんばりましたよ」
「そうじゃない。どうしてわからないんだ!」
「わかるわけないでしょう。試飲会は成功しました。わたしはどうせ六月末でさようなら。その期限がちょっと早くなっただけ。いったい、なにが不満なんですか」
菜花は司の横に座って、ぐっと背筋を伸ばした。
「わたしは大満足してます。きっとあのクラフトビールを見るたびに、池田さんのことを思い出します。千乃さんや企画課のみなさんのことも。自慢だってしちゃいますよ。こんなわたしでも、役に立つことができたので」
「どうせとか、こんなとか、言うな」
「はいはい、わかりました。それじゃ、もう怒らないでください」
「俺は、怒ってるんじゃない」
菜花ひとりに責任を押し付けている不甲斐なさや、腹立たしさもあった。だがそれ以上に、悲しみが広がる。
「試飲会で出す料理に迷ったとき、俺はおまえに意見を求めた。当日も不安だったから、インカムをはじめ、すべての管理を任せた。俺は――」
誰よりも菜花を信頼していた。でも、菜花は司を必要としていない。ひとりで勝手に決めて、ひとりで進んでいく。
すっかり黙り込んでしまうと、菜花が心配そうに顔を覗き込む。そして明るい声を発した。
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