② 5/12 菜花の願い
「ずっと同期の仲間だったけど、はじめておまえに失望した」
「うるさい、バカッ。さっさとそれを読め!」
菜花からのメッセージ。千乃宛のものだから読むのをためらったが、ゆっくりと目を通す。
グランドマスターキーの使用についての謝罪と、口裏合わせを頼む内容。そのすぐあとに、千乃は「イヤだ」と拒否している。でも、菜花の決意は固くて説得できない。
司の成功を願わない人が確実にいる。企画課のために菜花がグランドマスターキーを使用したとなれば、必ずそこを突いてくる。ひとつのほころびから、すべてが瓦解していくのを恐れていた。
そしてもうひとつ。これには司も目を丸めた。
『かき氷のパスタがド素人の料理だとバレたら、どうするんですか。無添加野菜百パーセントのジュースを使ってるんですよ。真実を知ったら、ふざけるなと怒り出す役員が必ず出てきます。そうなると、あのクラフトビールにまで文句を言い出しますよ』と。
「この無添加野菜百パーセントのジュースって、本当か?」
「本当よ。あたしも驚いた」
「めちゃくちゃ、うまかったっすよ。パウダースノーのかき氷とパスタをからめて食ったら、口の中が夏になった気分で」
ひょいっと寺坂が口を挟んできた。
「おまえは仕事してろ。役員はバカ舌ばっかりだったのか? ジュースって」
「それは平気。味のバランスが絶妙で豊かな風味になってた。よほどの食通じゃないと気が付かないと思う。それよりも続きを読んで」
続きには菜花らしい文字が並ぶ。
『お願いします。わたしがアカツキにいる間に、あのクラフトビールを商品にしてください。すごく楽しかったんです。大変だったけど、達成感がありました。これから先、どこかであのクラフトビールをみかけたら、アカツキにいたことをきっと思い出します。くじけそうになってもがんばれます。だけど、発売延期で試飲会からやり直しになったら、それはもうわたしが関わったクラフトビールじゃない』
楽しい記憶のままで終わらせたい。それが菜花の願いだった。
「これでわかったでしょう。あたしは菜花の気持ちを尊重するよ。あたしだって菜花と一緒に仕事をして楽しかった。絶体絶命のピンチを味わって、まったく動けなくなったあたしたちを救ってくれた。だからあのクラフトビールは、菜花と一緒につくったものにしたいの。失望するなら勝手にしなさいよッ」
千乃の顔はくやしさで真っ赤に染まり、握りしめられた拳がぶるぶる震えている。
「菜花の願いをぶち壊したら、あたし、絶対に許さない。ここにいるみんなもそうだよ。余計なことをしゃべったら、本当に許さないからね」
オフィスに静けさが広がっていく。千乃は司からスマホを奪い取った。
「これじゃ、仕事にならないね。頭、冷やしてくる。ボスもよく考えて」
菜花の気持ちを大事にするなら、千乃の言っていることが正しい。頭の片隅で理解できても、どうにもならない苛立ちが押し寄せてくる。
司の拳は壁を叩いていた。
荒々しく激しい音に怯える顔や、不安に包まれた部下の顔が見える。いつもの司ならここで謝るが、無言で席に着いた。
「あーあ、これじゃ仕事になりませんよ。空気、悪すぎ」
くっきりと不満の色を浮かべた寺坂が、静まりかえったオフィスに亀裂を入れた。周りがギョッとしても、唇の端をつり上げて不敵に笑う。あきらかに司を挑発していたが、動じる様子はない。
寺坂は「つまんねぇーな」と軽く舌打ちをして、仕事にとりかかった。ところが夕方五時半になると、司はいきなり寺坂に大量の残業を押し付けて、オフィスを飛び出した。
「えっ、なに?」
驚く寺坂に、千乃が笑みをこぼす。
「この時間になるまで、ずっと耐えてたんだよ。ボスは」
アカツキの勤務時間は五時まで。定時退社の菜花がふらふらとロビーにおりてくるのが五時半。
菜花を捕まえるために、司は駆け出していた。
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