五月十二日(火) 菜花と司、ふたりの願いは同じだったのに……
① 5/12 マーケティング部企画課に人事部長がやってきた
いつもは仕事に追いまわされて、くたくたに疲れ切ったマーケティング部企画課だが、今日は違う。明るい栗色の髪をかきあげた寺坂が、嬉しそうに目を細めて背伸びをした。
「んー、あのときはどうなるかと思ったけど、無事に終わってよかったー」
「総務の大石さんだっけ。神がかってたよな」
「まるで池田課長がいるみたいでしたね」
明るい笑い声がオフィスに響く。司が会議中で席を外しているから、オフィス内は昼休みのような和やかな空気に包まれていた。しかし、和気藹々とした雰囲気は千乃によって壊された。デスクを叩きつけて立ち上がったのだ。
「ちょっとみんな聞いてくれるかな。試飲会の出来事や、大石菜花のことは絶対に口外しないで。箝口令を敷きます。違反したら、別の部署に飛ばすから」
凍てつくような静けさがオフィスに広がった。だがすぐに、寺坂が口を挟む。
「大石さんがいたから成功したんですよ。褒め称えて当然でしょう。堀部さんだって助けてもらったくせに」
「これは命令よ。菜花は多目的ホールの準備と後片付け。あとはカフェレストランで食器の管理しかしていない。誰かになにか聞かれても、全員、そう答えるように。それ以外のことをしつこく聞かれたら、担当のあたしに報告して」
強い口調で一気にまくしたてたが、寺坂は頭を二度、三度、横に振った。まるで話にならないと言いたげな表情で「池田課長も同じ意見なんですか?」と聞き返してきた。
「ボスは知らない。余計なことを伝えて、ぶち壊したら許さないわよ」
釘を刺しても寺坂は納得しない。千乃はスマホを手にしたまま、頭を抱えた。
その横顔があまりにもつらそうで、寺坂は明るい栗色の髪を掻きむしって「はあっ、まだなにか起こってるんですか?」と大きく息を吐く。すると司がオフィスに戻ってきた。
「悪い、誰かお茶をいれてくれ。ふたつ」
「ふたつ?」
千乃が顔を上げると、司の後ろに人事部長がいた。
「池田君、わたしはここで構いません。企画課のみなさんにも聞きたいことがありますので」
抑揚ひとつない声が、陰気な顔から発せられる。そして千乃が顔を強張らせたのを見逃さなかった。
「堀部さん、あなたがカフェレストランの責任者でしたね。大石さんのことは、聞いてますか?」
それは……と声を詰まらせた千乃に代わって「大石については、応接室で話をします。こちらへどうぞ」と司が促す。その対応に、千乃はすべてを察した。
司は包み隠さずこれまでのことを話す。菜花ひとりに責任を押し付けるようなことは、絶対にしない。だがそんなことをすれば、新しいクラフトビールの発売が遅れてしまう。
千乃はスマホを握りしめて叫んでいた。
「大石菜花には、食器の管理を任せていました。それ以外の仕事はしていませんッ」
人事部長の鋭い目が「本当ですか?」とたずねる。千乃は大きくうなずこうとしたが、その肩を司がつかんだ。
「おまえ、自分がなにを言ってるのかわかってるのか。そんなことしたら」
「うるさいッ。あたしだって、こんなこと……。でも、……でも」
千乃はスマホを差し出した。そこには菜花からのメッセージが。でも、それを読む前に人事部長が口を開いた。
「お取り込み中のところすみません。いまの証言は本当ですか。はっきりしてください」
「本当です!」
答える声が甲高くなったが、迷いを吹き飛ばした澄んだ目をしている。
「わかりました」
「ちょっと待ってください。カフェレストランの責任者は堀部ですが、すべての責任は」
「池田君、私は忙しいので失礼する。見送りは結構です」
詳しい話を聞かずに、人事部長はオフィスから立ち去った。ホッと胸をなでおろす千乃の横で、「おい」と司の低い声が響く。
形のいい黒の瞳に怒りと軽蔑を浮かべて、千乃を見下ろしていた。
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