⑩ 5/9 クビにしてやる
「このカギは……」
総務部長は絶句した。だがすぐに、意地の悪いほほ笑みを口もとに浮かべる。
「そうか。企画課の連中に、無理難題を押し付けられたんだな」
「違います。ここの電気が付けっぱなしで、明日は休みだし放っておけなくて」
「うるさいッ。黙れ!」
また椅子を蹴ろうとしたので、菜花はビクッと身を縮めた。すると、総務部長は目の端に鋭い光を宿す。
「貴様は黙って言う通りに動け。そうすれば、悪いようにはしない」
「それはどういう意味ですか?」
「どうせ派遣の貴様は六月末でクビだ。その先の面倒を見てやってもいいぞ。アカツキには子会社がたくさんある。好きなところを選ばせてやってもいい」
「魅力的なお誘いですが、わたしは電気を消しに」
「グランドマスターキーを使った理由を企画課のせいにしろ。なあに、企画課の連中に頼まれて使った。証言するのはそれだけでいい。あとはこっちで」
「お断りします」
話の途中で断ってきたので、総務部長は大きく瞬きをした。
「それじゃ、貴様は今すぐクビだ。派遣会社にも訴えてやる。休日にグランドマスターキーを悪用した企業スパイめ」
ふん、と鼻息を荒くして背を向けたが、すぐに顧みる。菜花の顔色が瞬時に青くなっていた。
総務部長は心の中で大笑いする。企業スパイというレッテルを貼られたら、派遣会社もクビ。必ず「それだけは勘弁してください」と泣きついてくる。そうなればこっちのもの。蔑むまなざしを菜花に向けて、勝利を確信する。
ところが総務部長の耳に届いたのは、氷のような冷たいささやき。
「五年前、池田さんを陥れたのは松山さんじゃない。あなたたちが、松山さんを騙したんですね」
「貴様、やはりさっきの話を聞いていたなッ」
菜花は山をかけただけなのに、すべてを聞かれたと勘違いした総務部長は怒鳴り散らした。
「女は男に従ってろッ! 茶を出して、ニコニコしてればいいんだ。口答えなど許さんぞ、生意気な女め。男女雇用機会均等法だの、女の社会進出だので勘違いしやがって。じつにくだらん。松山を騙してなにが悪い。あいつは恩知らずだ。知力も体力も劣ってるくせに、愛想よく、いつも俺の仕事を奪っていった」
額の青筋は破裂しそうなほど膨れ上がり、目は血走っている。
「池田もムカつく男だ。最初に目をかけてやったのは俺なのに、松山に媚びへつらって」
「池田さんはそんな人じゃありません。松山さんが尊敬できる上司だったから」
「うるせぇッ、女は黙ってろ!」
頭に血がのぼっているのか、顔が火のようにほてっている。握られた拳も震えて、総務部長はいまにも殴りかかってきそうだった。でも、菜花の胸の内にも怒りがふつふつとわいてくる。
「わたしは電気を消しにきただけ。グランドマスターキーを勝手に使った罰は受けます」
「はあ? クビになりたいのか」
「クビにしたいなら、どうぞご自由に。いまの話を正直に伝えるだけです」
総務部長は内心たじろいだ。すっかり怯えきっていた菜花が反撃に出てくるとは思ってもみなかった。しかし、ここで動揺を悟られてはいけない。眉ひとつ動かさずに脅す声を投げた。
「立場をわきまえろ。貴様の言葉など、誰も信じない」
「ええ、そうだと思います。部長を恐れて、黒でも白と言い張るでしょうね。でも、わたしは派遣社員です。アカツキの人間じゃありません。途中解雇なら、派遣会社がしっかりと調査してくれます。関係のない第三者が入ることによって、黒はやっぱり黒だとこっそり言う人が出てきますよ」
菜花の堂々とした弁舌に、総務部長は顔色を変えた。だが、再び「女のくせに」と吐き捨ててから、絶対にクビにしてやると会議室の扉を叩きつけて出て行った。
「こ、怖かったぁ……」
その場にへなへなと崩れ落ちた菜花の手足は震えていた。腕を回して自分で自分を抱きしめても震えは止まらない。
「明日から、無職になっちゃうのかなぁ」
急にあふれた涙を懸命に拭いても、将来の不安までは拭えなかった。
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