⑨ 5/9 菜花の大ピンチ
試飲会がはじまっても菜花の仕事は続く。
今度は多目的ホールの片付け。司とは入れ違いになった。ちょっぴり残念な気持ちでいると、インカムからは明るい声が届く。
「大石さんがいてくれて本当によかった。僕らだけじゃ、試飲会は潰されてましたよ」
「かき氷のパスタ、役員たちも驚いて絶賛ですよ。大石さん、すごいですね」
最初は「総務さん」だった呼び方が「大石さん」になって、褒めてくれるのが嬉しい。妙に照れくさくて恥ずかしくなるけど、明るく弾む声は試飲会の成功を示している。
菜花はふわっとやさしい笑みを浮かべた。もしここに司がいたら、きっと「よくやった」と褒めてくれる気がする。だから早く会いたかった。
でも、なかなか会えない。多目的ホールの片付けが終わったら、カフェレストランの掃除が待っている。食器洗いはもちろん、ゴミ捨てに、床ふき。勝手に運び出した観葉植物の片付けもある。
インカムに耳を澄ませていると、試飲会のあと司はすぐに会議。今日はもう会えそうにない。
「お疲れ様でしたー」と企画課の人たちが帰っても、菜花にはまだ仕事が残っていた。勝手に持ちだしたものがたくさんあるから、きちんと片付いているのか。ひとり残って確認していた。
「あれ、三〇三会議室のシュロチクがない。竹のような葉をしてるからわかりやすいのに、他の会議室に紛れちゃったかな」
グランドマスターキーを手にして、シュロチクを探す。幸い、隣の会議室に紛れ込んでいたので探しまわらずにすんだ。
「これでおしまい」
すべての仕事を終えた菜花は満足げな様子で会議室を出ようとした。だが、激しい怒号が廊下に響く。
「どうして試飲会の手伝いに、田沢がいるんだ。彼女は松山の秘書だろッ」
「そ、それが……」
「あの
「もしかして松山さん、五年前のことを暴露する気じゃ」
「バカなことを言うな!」
荒々しい怒鳴り声は総務部長。もうひとりいる男はわからない。菜花は息を潜めて会議室の扉に耳をあてた。だが、その扉がガチャリと開く。
「うわあああっ。なんだ、貴様は」
「す、すみません。すぐ帰ります。失礼しました」
慌てて立ち去ろうとしたが「待て!」と怒鳴られる。
「いまの話、聞いてたな」
「聞いてませんッ」
声を裏返して、両手と首をぶんぶん振ったが総務部長の目は鋭い。その隣には背の低い男が、気の弱そうな顔をさらに弱気にしてオロオロしている。
「部長、まずいですよ。いまの話」
絶対に聞かれたと消え入りそうな声を投げる。すると総務部長のハゲ上がった額に、太い青筋がいくつも浮かぶ。
恐ろしい鬼の形相に背の低い男は「ひぇっ」と情けない声を上げた。それから何度も深々と頭を下げて「き、今日は、こ、ここで失礼します」と舌をもつれさせながら逃げ出した。
それと同時に菜花も会議室から抜け出そうとしたが、総務部長に出口を塞がれた。
「派遣のくせに、ここでなにをしていた」
「えっと、ここの電気が付けっぱなしだったので……消しに」
歯切れの悪い口調でうそをついた。さっき耳にした話の内容から、総務部長は試飲会の失敗を望む側。裏方のドタバタを知られては、些細なことでも大問題にしてくる。司の足を引っ張りたくない菜花は、唇を強く引き結んだ。だが、総務部長は追及の手をゆるめない。
「カギはどうした」
「カギ、ですか」
「ああ、そうだ。派遣の貴様が使えるカギなどないはずだ」
「許可を取れば、カギぐらい使えます」
「誰の許可を得た」
「それは……、その……」
尋問のように鋭く聞かれて、菜花は口ごもる。激しく目を泳がせていると、手が勝手にポケットを握りしめていた。
いささか太い眉を吊り上げて、ふっと不気味な笑みをこぼした総務部長は、菜花の行動を見逃さない。
「そいつを出せ。そのポケットに入ってるカギを出せ」
菜花の心臓が跳ねあがる。首を横に振って拒否したが。
「早く出せッ! これは命令だ」
そばにあった椅子をおもいっきり蹴飛ばして、総務部長は菜花を恫喝する。
激しい暴力を目前にして恐怖を感じた菜花は、ポケットからグランドマスターキーを取り出した。
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