五月十一日(月) 処罰を受けるのは菜花だけ
① 5/11 人事部長からの呼び出し
月曜日がやってきた。会社から「もう来るな」と言われていないので、いつもの時間に家を出る。
ぎゅうぎゅう詰めの電車もこれが最後。そう思うと、肩をぶつけながら人混みに流されていくのも悪くない。菜花の目に光るものが込み上げてきた。
総務部長の陰謀は手に取るようにわかる。企画課の指示でグランドマスターキーを使用。そのあと、菜花はすぐにカギを返していない。金ほしさに顧客データを盗んだことにされて、司の管理責任が問われる。新しいクラフトビールの発売はいったん延期になって、厳しい処分が。
「どうしよう……」
履きつぶしたボロボロのパンプスが鉛のように重い。スマホで次の仕事を探しながらオフィスに入ると、主任が飛んできた。
「大石さん、いますぐ人事部長のところへ行って」
「人事部長!?」
驚きの声を上げたのは、菜花ではなくユウユだった。
「ちょっと、菜花。試飲会は大成功だったんでしょう?」
「ええ、まあ、なんとか乗り切りましたよ」
「じゃあ、どうして人事部長に」
「……それが……」
情けなく弱々しい声で、大変だった試飲会の出来事を話した。そして、ユウユのデスクからグランドマスターキーを勝手に使ったことも。
「本当にすみません。わたしが勝手にカギを持ち出したので、ユウユさんにご迷惑がかからないように――」
「バカッ!!」
ユウユは菜花を怒鳴りつけて、オフィスの端へ引っ張った。
「株主総会が近いのよ。ここで菜花に抜けられたら、困るの。全部、企画課のせいにしなさい」
「そんなこと……できません」
「どうして!」
「新しいクラフトビールの発売が遅れてしまいます」
「関係ないじゃん、菜花には」
関係ない。その言葉は小さな棘となって菜花の心に突き刺さる。
ひとりクビになって得るものはなにもない。菜花ひとりがすべてを失って、あとは何事もなく過ぎていく。
黙ってうつむいていると、主任の泣き出しそうな声が飛んできた。
「頼むから、早く行って。人事部長を待たせないでくれ」
「すみません。すぐ行きます」
「ちょっと、菜花ッ」
ユウユの言っていることも正しい。妨害があったことをあきらかにして、悪い奴らを懲らしめる。それもひとつの方法だが、総務部長の赤い目を思い出す。
激しい怒りと憎しみにとらわれた目は血走り、狂気そのもの。菜花が余計なことをすればさらに憎悪が脹らんで、破裂する。そして怒りの矛先は、菜花の大切な人たちへ。
「あっ」
菜花はポケットからスマホを取り出した。
千乃にも口止めが必要だった。会議室から持ち運んだ観葉植物は、企画課の人たちが用意したことにしてほしい。もし、誰かになにかを聞かれたら、菜花は多目的ホールの準備と片付け。カフェレストランでは食器類の管理しかしていないと答えてほしい。
総務部長と派遣社員の菜花。強大な権力には勝てない。千乃へのメッセージに胸の内を明かしてから、人事部の扉を叩いた。
「失礼します。総務の大石です。えっと……」
「あっ、大石さんですね。こちらへどうぞ」
物腰のやわらかい、笑顔の素敵な女性が応接室に案内してくれた。
人事部の応接室へ通されるのは二回目。一回目は、アカツキに派遣が決まったとき。二回目はないと思っていたのに、刑の執行を受けにいく罪人のような気持ちで応接室に入る。
高級感漂うレザーのソファーに人事部長が座っていた。半分白いものがまじった頭は、きっちり七三分け。ひどい猫背で陰気な印象だが、眼光がとても鋭い。そして斜め後ろに、背の低い男が立っている。総務部長と一緒にいた男。思わず声が出そうになったが、ぐっと堪えた。
人事部とつながりがあるから、総務部長は菜花をクビにすると強気だった。証拠をそろえて弾劾したとしても、きっとここでもみ消される。やはりなにをしても無駄。騒ぎ立てて大勢の人を巻き込むより、ひとりクビになる道が正しい。
菜花は総務部長のおそろしさを改めて肌で感じていた。しかし、人事部長は意外なことを口にする。
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