② 5/6 司が叶えてやればいい

 風呂から上がった司は髪からぼたぼたと滴る水を拭って、白地の狩衣と薄い青緑の袴に着替える。


「お、珍しいな。儂がいるときにその格好をするとは」


 缶ビールを片手に、テレビを見ていた熊一が声をかけた。そして冗談っぽく「神社を継ぐ気になったのか」とたずねると、司は首を横に振る。


「継ぐ気はないけど、本殿に行ってくる」

「おいおい、本殿は儂しか入れんぞ」

「知ってる」

 

 無愛想に答えたが、司もよく知っている。神社には賽銭を投げてお参りする拝殿と、神様をお祀りするための本殿がある。本殿はご神体が鎮座されている部屋。とても神聖な場所で、普段は熊一しか入れない。


「本殿の外側、外陣の扉を開くだけだ」

「開いてどうする。美寿丸様を信じてないんだろ」


 眉根を寄せた熊一の問いに、司は答えなかった。信じてなくても礼を尽くせ。礼を尽くせない人間になるなと散々言ってきたくせに、とうんざりする。

 信心深くない司だが、拝殿と本殿をつなぐ廊下を歩いていると監視されているような視線を感じる。

 目には見えないけど、感じることができる。それが神様だと熊一が言っていた。その話も信じていないのに、外陣の扉を開くと勝手に鳥肌が立つ。


「これだからイヤなんだ」


 本殿の中はさらに厳かで空気が違う。神様を否定しても、背中に冷たい汗が流れる。司の存在を拒否してくるような圧迫感に気圧される。それでも真っ直ぐ前を見据えた。古くから魔除けとして使われた、朱色の柱の奥に美寿丸がいるらしい。

 

 愛する幸女丸が殺されると知って、自らの首を差し出した美寿丸。歌を詠み、楽器を奏でることが好きで、この世を去っても幸女丸を支え続けた。主に学業の神様として祀っているが――。


「綺麗に掃除してくれるなら、中に入ってもいいぞ」


 振り返ると熊一がいた。司は一歩下がって目を伏せる。


「さっき、菜花から電話があった」

「ほう、いつの間にそんなに親しくなったんだ」


 からかうような口調に、うんざりした表情を見せながら話を続けた。


「あいつ、失恋して泣いてた。五円玉ジャラジャラ投げ込んで、必死に祈っていたのに。本当に美寿丸がいるなら、冷たい奴だなぁと思ってここに来た」

「美寿丸様と呼べ。本当に罰当たりな奴だな。それに、神様は奇跡を起こす万能な存在じゃない。ただそばに寄り添って励ましてくれるだけだ。美寿丸様の死を知って、幸女丸様が心を入れ替えたように。どう動くかは人間次第」


 熊一は一礼してから外陣の扉を閉めた。


「それで、フラれた菜花ちゃんは、おまえに慰めてほしいと言い寄ってきたのか?」

「いいや、仕事の話しかしてない。中途半端になった打ち合わせを終わらせたいって。あとは忠告してくれたのに、バカでしたって」

「忠告?」

「ちょっと前に色々あったんだよ」


 面倒くさそうに答えて背を向けた。その背中に熊一は声をかける。


「仕事の話とは、色気がないねぇ。菜花ちゃん、心の扉にカギをかけたな。おまえのように」

「は?」

「恋だの、愛だの、もうたくさん。生きていけるだけの仕事があればそれでいい。そうやって生きていくのもひとつの道だが、人と関わるから心が乱される。距離が近づくからケンカもする。いいことも、イヤなことも、たくさんある。それらすべてを受け入れてくれる人。自分以外の味方がいるっていうのも、悪くないぞ」


 白い歯を覗かせてニカッと笑う。


「それに、美寿丸様が菜花ちゃんの願いを叶えてくれないなら、おまえが叶えてやればいいだろ」

「なんで?」

「なんでって、そりゃ、あれだ。失恋の傷を癒やすには、新しい恋が一番だろ。知ってるくせに」


 知らん、とそっぽをむくと熊一は慌てて司の後を追いかけた。


「かわいくない息子だねぇ。素直じゃないねぇ」


 ぶつくさ文句を言い続ける熊一を尻目に、司は無表情を貫いていたがほんの少しだけ笑みを浮かべた。

 はじめて菜花を見かけたのは、ここの神社。両手を合わせて、小さな背中を丸めて、必死に祈る姿が心に焼き付いている。だが、一生懸命がんばっても報われない。菜花は泣いてばかり。それがふしぎだった。


「そっか」


 小さくつぶやいた司は、自分の心に気が付いた。

 

 ――あいつは笑ってる方がいい。


 ふと本殿から流れる風が変わった。

 ゆるやかに、とてもやさしく司の背中を押していた。 


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