⑦ 5/9 えっ、松山さんが?
東京に来てからずっとそうだった。がんばっても、がんばっても失敗ばかり。
腕時計は十時三十五分をさしている。あと十分で多目的ホールにいた役員たちが移動する。人が集まる中で、ドタバタと醜く作業できない。
終わった。全身の力が抜けていく。せめてあと十五分、いや、十分あればとくやしさに身を焦がす。だが、菜花は両手で頬を叩いた。
「まだだ」
一分、一秒でもあきらめたくない。菜花はハンディタイプのかき氷器をかき集めて走った。「誰か、助けて」と心の中で叫びながら。
するとインカムから声が流れた。
『多目的ホール、十五分延長する』
「えっ」
突然の声は司だった。
プレゼンに集中したいから、インカムを受け取らなかったはずなのに。
「池田さんッ」
インカムを固く握りしめて呼びかけたが、返事はない。でも焦りがかき消されて、さざ波ひとつ立たない。喜びに胸を熱くして菜花は確信した。試飲会の成功を。
「千乃さん、遅くなってすみません。これ、かき氷器です」
「サンキュー。どうにか間に合いそうだね」
司の声は、インカムを装着した全員に届いている。
「本番ギリギリまで原稿に悩んでた人が、十五分も延長するって。思い切ったことしますね」
「ボスだからできる神業だよ」
カフェレストラン内に安堵の輪が広がっていく。準備はほぼ整い、蒸し暑さも感じない。扇風機の穏やかで心地よい風が、大自然の中にいるようで気持ちがいい。真夏の蒸し暑さなら対処できなかったが、まだ梅雨前の五月でよかったと菜花は胸をなでおろす。
あとはかき氷パスタの仕上げ。味も見た目も悪くないけど、大きな問題が残っていた。
「千乃さん、ひとついいですか」
「なに?」
「これ、ジュースで軽く和えたパスタにかき氷をのせますが、作り置きできませんよ」
「そりゃ、溶けちゃうから。パスタをテーブルに置いてからかき氷になるね」
「……まだ気が付きませんか」
「なにが?」
「ここに女性は七人。五人はホールスタッフとしてあのミニスカエプロンに着替えてます」
「そうだよ」
ここで千乃がハッと顔を強張らせた。
「かき氷担当が必要です。二名ほど。ひとりは栗色の髪をした、えっと、寺坂さんに頼みました。ウェイターの制服を借りてきたので。でも、あとひとり。男性社員はみんなイヤがって」
「あ、あたしもイヤよ。三十歳過ぎてるのにあんな格好できない」
「わたしだって、同じです!」
「菜花は、あたしより二歳若いでしょう」
「わたしは総務ですよ。準備までが仕事。あとのことは、知りません」
「ちょっ、逃がさないわよ」
「離してくださいッ!」
醜く言い争っていると。
「やっほー。千乃さん、準備は順調ですかー?」
片手をひらひらさせて、恵里奈がやってきた。
「どうして田沢さんがここに?」
「それがね、松山さんに命令されたの」
菜花と千乃は顔を合わせて、額に汗をにじませた。すべてのトラブルを克服したと思っていたのに、イヤな予感が胸をかすめる。だが、恵里奈は意外なことを口にした。
「私と松山さんは後方で池田さんのプレゼンを聞いてたの。するといきなり菜花さんが立ち上がったでしょう」
「後ろにまで……。そんなに目立ってましたか」
「ええ、そしたらしばらくして」
松山が恵里奈にスケジュールを聞いてきた。
あと十五分で終了。そのあと、一階のカフェレストランで試飲会ですと答えると、松山はふふふ、と笑う。
「そしていきなり、ここは十分、いえ、十五分、延長になるから、一階の様子を見てきなさいって」
「松山さんが?」
「うん。一階が大変なことになってたら、あなたも手伝いなさいって。それで今日の仕事はおしまい」
まるで敵に塩でも送るかのような松山の態度に、疑問の影を落とした。
「あの人、ほんと謎だらけね。でも、いいわ。使えるものは全部使う。恵里奈、このミニスカ。いえ、ホールスタッフの制服に着替えてちょうだい。かき氷担当ね」
「えっ、かき氷?」
「説明はあと、いいから着替えて」
千乃は恵里奈の腕をつかんで、無理やり引っ張っていくから菜花も続く。
「田沢さん、松山さんの様子を詳しく教えてください」
「いいわよ。あの切れ長でシュッとした目をキラーンと輝かせて、言ったの」
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