⑥ 5/9 時間が足りない
「菜花、ちょっと待って。ソースを凍らせてどうするつもり?」
「かき氷にします」
「は?」
「総務には色んなものが眠ってるんです。節電ブームで購入した扇風機もそうですが、お手軽簡単に涼しい気分とかで、コンパクトなハンディタイプのかき氷器も。それを使って、かき氷ソースのパスタにします」
「でも凍らせると味が」
「大丈夫です」
完熟トマトのフレッシュさを、バジルの香りが抱きしめたようなスープパスタ。清涼感あふれるあの味は覚えている。
「トマト色が強い、無添加野菜百パーセントのジュースを用意してください」
「ジュースって、本気なの? そんなの混ぜたら」
「仕上げに少し混ぜるだけです。丁度いい甘みと深みが必ず出ます」
千乃はぐっと奥歯を噛みしめて考え込んだ。でもすぐに、吹っ切った笑みを浮かべる。
「わかった。信じるよ」
「任せてください」
堂々と胸を張ったけど、本当は自信がない。千乃と一緒に、青ざめた顔でオロオロしていたい。でも、菜花は必ず成功させると約束した。ここで踏ん張って不安を取り除けば、現場の混乱が収まる。
「あ、そうか」
菜花は小さくつぶやいた。
司が華やかすぎて住む世界が違うと感じていたが、必死なだけ。部下が迷わないように導く、上司の責任。重圧の中でも弱みは見せられない。ずっとそんな生活をしてるから――。
「菜花、どうしたの。急に笑い出して」
「ごめん、ごめん。高嶺の花が意外と近くに咲いてたな、と思って」
含み笑いをもらしていると、次のトラブルが飛び込んできた。
「総務さん、ブレーカーの点検に行ってきましたが問題ないです。おそらく機械の故障だと」
「すみません、扇風機の置き場所が。目立ちすぎて格好悪いです」
「冷蔵庫を動かしたよー。総務さん、コンセントプラグの交換をお願いします」
「ええぇ、そんな一気に言われても」
時間がない。菜花は素早く優先順位を付けた。
「空調はあきらめましょう。扇風機とサーキュレーターで対応。コンセントプラグはあとで修理します。それから」
ツカツカと歩いて、扇風機の置き場所を確認した。
「ボックス席は使わないので、五台は間隔を開けてテーブルの下に。覗き込まない限り、わからないでしょう」
「残りはどこに」
「ボックス席から離れた端に。あとは、延長コードが目立つから観葉植物で隠しましょう」
「えっ?」
「観葉植物は会議室にあるので、力のある人、十名。ついてきてください」
菜花はスーツのポケットからペンを取り出して、駆け出した。エレベーターの中で上衣を脱いで、腰に巻き付ける。それからブラウスの袖をめくって、ペンのキャップを外した。
「それじゃ三〇一会議室から三〇五まで開けるので、中にある観葉植物をすべて運んでください」
ひとつの会議室に観葉植物がいくつか、飾ってある。運び出された観葉植物の名前と会議室の番号を菜花は腕に書いていった。
「大石さん、なにしてるんですか?」
明るい栗色の髪をした若い社員が、菜花の腕を覗き込んだ。
「メモ帳を忘れたので、ここに。片付けるとき、どの観葉植物がどの会議室にあったのかわからなくなると困るでしょう」
「はー、すごいですね。そこまで考えるとは。僕が運ぶこれの名前も、見ただけでわかるんですか?」
「ユッカ。ユッカ・エレファンティペス。剣先のような葉が、勢いよく上に伸びてるからすぐわかるよ」
「それじゃ、あれは?」
「シュロチク。その名の通り、竹のような葉をして……。すみません、時間がないので早く運んでください」
「ごめん。僕は企画課の
「ありがとう」
菜花は腕時計に目を落とした。ここまでがんばっても、時間が足りない。
『菜花、どうしよう。時間が来る。このままじゃ、間に合わない』
インカムから流れてくる千乃の声に、絶望の影を濃くした。
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