⑤ 5/9 完全にやられた

『完全にやられた。冷蔵庫のコンセントが切断されて。あと空調も効かない』


 昨日、菜花は単独でカフェレストランの最終確認をしている。そのとき、異常はなかった。だから「そんな!」と声を張って起立していた。


「総務さん、座って」


 袖を引っ張られてハッとした。しんと静まりかえっていた会場に、ざわめきが起こる。注目が司から外れて、勢いよく立ち上がった菜花に。

 司と目が合った。膝が震えて血の気が引いていく。


 ――大切なプレゼンを台無しにした。


 なすすべがなく唇を震わせていると、司がしゃがみ込んだ。


「大丈夫ですよ」


 できるだけ視線の高さを菜花に合わせて、にこやかに笑う。


「先ほどお話ししたとおり、一階、カフェレストランでの試飲会に参加できなくても、お土産はたくさん用意しています。なくならないので、安心してください」


 会場にどっと笑いが起きた。

 ちょうど司がカフェレストランでの試飲会について話をしているときに、菜花が急に立ち上がった。司が一番驚いたはずなのに、動揺の色をひとつもこぼさない。菜花を、美味しい料理と新しいクラフトビールが飲めなくて「そんな!」と残念がる人に仕立ててフォローした。

 

 とても恥ずかしかったが、いまはそれどころではない。前列に座る企画課の人たちと共に、こっそり抜け出した。

 一刻も早く千乃のもとへ行き状況の確認をしよう、ということになったが、菜花は立ち止まる。


「すみません。わたしは新しいコンセントプラグと、工具を取りに行きます。空調設備の不具合も報告されているので、ひとりはブレーカーの確認をお願いします。地下の駐車場にいる警備員さんに頼んでください。案内してくれるはずです」


 いきなりの指示に企画課の人たちはたじろいだが、菜花はさらに付け加えた。


「残りの人は扇風機を。羽根のないものを運んでください。カギは――」


 派遣の菜花がカギを使うには、ユウユか総務主任の許可がいる。いまから多目的ホールに戻って主任の許可を取る時間はない。腕時計に視線を落として下唇を噛んだが、すぐに決断する。試飲会の失敗を望んでる人たちを喜ばせるもんかと。


「カギはわたしが開けます。ついてきてください」


 それぞれが走り出した。

 菜花は総務のオフィスに飛び込み、ユウユのデスクの前で止まる。施錠されていない引き出しに手をかけて、小さな箱を取り出した。


「それじゃ右の会議室が倉庫になっているので、お願いします」

「わかりました」

  

 グランドマスターキーで扉を開けた。マスターキーよりも取り扱いに注意が必要なこのカギは、決められた人しか使えない。無断で使用すれば――。

 指先がかすかに震えても、菜花のまなざしに迷いはなかった。


「菜花!」


 カフェレストランの到着すると、真っ先に千乃が駆け寄ってきた。

 外は雨で、締め切った室内はやや蒸し暑い。


「扇風機が足りないかも。空気を循環させるサーキュレーターも。誰か、総務横の会議室へ。扇風機とサーキュレーターをお願いします。千乃さん、料理は」

「クラフトビールはワインクーラーに氷を詰めて冷やしてる。でもこの暑さで」

「大丈夫。あのクラフトビールは常温に近い状態でも、料理に合うから。冷製パスタは?」

「和風の冷製パスタは和えるだけだから、大丈夫。でもスープパスタはダメ。スープを冷やそうと冷凍庫に入れたら、すぐに凍っちゃって……。パスタは一品で勝負する」


 今回の料理は、女子会やママ友のホームパーティーに合うように考えたと司が言っていた。だからコース料理と違って、ビュッフェ風パーティースタイル。取り皿不要なフィンガーフードや、デザートなど料理を1つのコーナーにセッティングして、自由気ままに食べられるようにした。でも、パスタは違う。主食のようなものだから最初から取り分けて、メインで食べてもらう。それが抜けるのは致命的。


 ――考えろ。


「温かいままじゃ、ダメですか?」

「ロングパスタの中でも最も細い、カペリーニを使用してるの。冷たいパスタ用だから」

「普通のスパゲッティは?」

「それが、料理長がもう帰ってって勝手に使えないの」

「くっ」


 ――考えろ。


 目を閉じて、ぐっと眉間にしわを寄せた。絶対に成功させようと誓ったのに、負けたくない。司に失敗は似合わない。そのことだけを考えると菜花の気持ちが奮い立った。

 

「そうだ。それじゃ、ソースをそのままカチカチに凍らせて」

「えっ?」

「早くしてくださいッ」


 菜花は駆け出した。

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