④ 5/9 はじまった!

 開場と共に人があふれてくる。

 試飲会の招待されているのは二十人弱と聞いていた。それなのに、前列以外の席は埋まっていく。


「どうしてこんなに人が多いんですか?」


 企画課の人にたずねると、疲れ切った表情が一変した。


「そりゃ池田さんのプレゼンだから、勉強に来る人も多いでしょう」

「そうそう。営業の若手は休日返上で聞きに来てるぜ」

「だろうな。あの人のプレゼンは人を惹き付けるから、新人研修の一環として組み込まれたって噂もあるぞ」

「ふぇぇ」


 司の話になると水を得た魚のようにしゃべり出す。宝物を自慢する、少年みたいな目の輝きに菜花は頬をゆるめた。

 

「池田さん、愛されてますね」

「僕らの憧れですよ」

「ダメなところはわかりやすく叱ってくれるし、困ってるときにはさりげなくサポートしてくれるから」

「人をよく見てるというか、視野が広いというか。がんばれば届きそうなレベルの仕事を振ってくるから、やりがいもあるよな」


 うん、うん、と企画課の人たちは大きくうなずく。そして。


「それじゃ、総務さんも手伝って」

「まだなにかあるんですか?」

「ほら、最前列が空いてるでしょう。そこを僕らで埋めて、会場を満席にします」

「わたしは総務で部外者だから、後ろの空いた席に」

「後ろは暗くてよく見えないから、前を埋めよう。さ、急いで」

「えっ、困ります。ちょっと」


 拒否しているのに腕をつかまれて、ぐいぐい引っ張られていく。「はい、座って」と強引に押し込められた席は、最前列のど真ん中。


「やはり女性がいないと、池田さんもやる気が出ないでしょう」


 他人事のようにカラカラと笑っているが、菜花は頭を抱えた。


 ――これじゃ、わたしが張り切って池田さんを見に来たように思われる。


「やっぱ無理」


 勢いよく立ち上がったが、会場の照明がフッと暗くなった。同時にすべての扉が閉まる。ざわめきがスッと引いて、立ち去る前にはじまってしまった。


「総務さん、ちゃんと座って。後ろの人が見えなくて困ってるよ」

「うぅっ」


 低く唸っても、はじまったのなら座るしかない。もう、どうにでもなれとやけくそ気味で拍手していた。

 足の長い、モデルのような司会者が挨拶をすませたあと、真っ白なスポットライトがスーツ姿の司を照らし出した。 


「うわっ」


 驚きの声がこぼれた菜花は、慌てて口を押さえた。

 眠そうな顔に疲労の影を落としていた司が、背筋を伸ばしてステージの中央へ。身なりは見違えるほど整って、顔の艶もいい。たった数十分でここまで変われるのかと、菜花は感心した。だが、フリーハンズで話しはじめた司の声が一瞬、止まる。


 黒の瞳が菜花を映して「なんでおまえがここにいるんだ」と見開いていた。でもすぐに言葉を繋ぐ。魔法のように軽やかに。

 スピーチのうまさが司には備わっていた。新しいクラフトビールは確実に売れる。その根拠をいきなり語り出すから、誰もが「ほう」と身を乗り出して聞く。聴衆の気持ちを素早くつかむと、あとは照明の演出。ユーモアの入れ方。大胆で明瞭な発声に魅了されていく。


「三十年前と比べて、お酒を飲む、飲めると回答した女性は約二十パーセント増加し、市場も大きく変化した。それがこのグラフです」


 大型スクリーンに色鮮やかなグラフが。司の言葉に反応して、次々とリズミカルにデータを表示する。


「このグラフをつくったの、オレなんです」


 菜花の横に座っていた社員が、自慢げに語りかけてきた。ふと気が付くと、会場全体が司に興味を示して、注目している。数多の視線が集まっても、まったく怯まないその姿は、まさに王者。

 

「ビールの出荷量は毎年、過去最低を記録しているが、その分、シェアを伸ばしているのがRTD。レディ、トゥ、ドリンク。缶チューハイや缶カクテルをはじめとした、市販の低アルコール飲料のこと。この市場は十年で二倍以上、今後も順調に拡大します。そこで――」


 低いのによく通る声が心地いい。自信に満ちたカリスマ的な魅力に菜花も引き寄せられたが、住む世界の違いを思い知る。

 司の華やかさがまぶしすぎて、いつものようにうつむいてしまう。ところが――。


『菜花、助けてッ!』


 泣き出しそうな千乃の声が、インカムから流れてきた。


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