② 5/9 これからが本番なのに

 元気いっぱいの声にビクッと肩を動かして振り向いたのは、千乃だった。

 気まずさを感じ取ったが、昨日あれから良雄とどんな話をしたのか気になる。菜花から声をかけようとしたのに。


「総務さん、モニターの映りが悪いので見てくれますかー」

「あっ、はい」


 八十人弱収容できる多目的ホールは、小さな映画館のような場所。ステージの上ではリハーサルを行っているが、司の姿がない。照明の確認、点検を終えたインカムの配布。慌ただしく走り回って数々の仕事をこなしても、いない。菜花はポケットに押し込んでいたタイムスケジュールを見直す。


「えっと十時に開場。十五分から池田さんのプレゼンが三十分。十五分の休憩を挟んでから一階のカフェレストランで」


 腕時計に視線を移した。開場まで三十分を切っている。


「あの、池田さんは?」


 近くにいる社員に声をかけたのに「ボスはまだ、原稿を考えてる」と、千乃が答えた。


「原稿って、今頃?」

「いつもそうよ。他の事に夢中で、自分のことはギリギリまで仕上がらない。付き合いの浅い社員はハラハラしてるけど、こっちはもう慣れた」


 苦々しく笑ったが、それでもきっちり仕事をこなす。そこが司のすごいところだと、信頼を寄せている。

 十年近く一緒に仕事をしている千乃と司。その関係がうらやましく感じると、疑問がわいた。


「千乃さんは池田さんのこと、好きになったりしなかったんですか?」

「えっ、ならないよ」

「中山さんがいたから?」


 千乃は「うっ」と言葉を詰まらせた。それから両手を腰に当てて、あごが胸に当たりそうなほど項垂れる。しばらくなにかを考えているようだったけど、勢いよく顔を上げる頃にはすっかり観念した様子で声を潜めた。


「それもあるけど、ボスには彼女がいたから。結婚すると思ってたけど、仕事で色々あったからね」


 仕事でのトラブルといえば、絵本のようなラベルのクラフトビール。司が発案して形にしていったのに、すべて松山に奪われる。それが原因。でも、司が結婚を意識した女性とは。いったいどんな人だったのか、たずねようとしたら。


「うわっ、ボス。大丈夫?」


 千乃が大きな声を出すから、振り向いた。


「うわっ」


 菜花まで声が出た。

 何度も頭を掻きむしったのか、寝癖なのか。よくわからないけど、髪がボサボサ。胸もとが開いたシャツはボタンが取れかかって、ズボンにもしわが。

 眠いとつぶやいた司は、最前列のシートに腰をおろして目を閉じた。


「寝てる場合じゃないでしょう。あと十五分でここに人が入ってきますよ。準備しなくていいんですか?」


 菜花が心配しても目を閉じている。だがすぐにカッと開いた。


「どうして菜花がここに?」


 黒の瞳が驚きに見開かれていく。それからハッとした表情で身体を起こした。手櫛で簡単に髪を整えて、珍しく慌てている。

 菜花は小首を傾げた。

 

「どうしてって、照明に不具合があったから呼び出されて。あとはこれ、池田さんのインカムです。ちゃんと使えるかテストしますので」

「……必要ない」

「はい?」

「今回の指揮はすべて千乃に任せている。俺はプレゼンに集中したい。雑音が入ったら言葉に詰まってしまうから、俺の分は他の奴に渡しといてくれ」


 言いたいことを言い終わったのか、司はまた「眠い」と目を閉じた。その耳もとで千乃が「寝るな」と叫ぶ。

 

「三十秒だけ寝る。一階は大丈夫か?」

「任せてよ。できあがった料理はカフェレストランの冷蔵庫に。揚げものはまだだけど、すぐに完成させる。試飲会の開始時間に合わせて完璧よ」


 千乃が胸を張ると、司はゆっくりと起きあがった。


「今日はまともみたいだな。昨日の夜は、ポンコツすぎて使いものにならなかったのに」

「んだと。だいたいボスがいきなりいなくなるから現場が混乱して。いったい、どこで油を売っていたの」

「どこって」


 じろっと黒の瞳が菜花を捉えるから、はははと乾いた笑みを浮かべて話題を変えた。


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