② 4/26 パン祭り
胸の中のモヤモヤを考えながら歩いていると、ふわりといい香りが鼻先をくすぐった。思わず頬をゆるめたこの香りは、間違いなく焼きたてのパン。瞬時に菜花の目が輝くと、良雄はやさしくほほ笑んだ。
「パン、好きですか?」
「大好きです!」
「よかった。すぐそこの店なんです」
バタートーストのようなクリーミーで甘い香りは、一気に幸せな気分へと導いてくれる。だが、シックな黒い外観がとってもオシャレな店の前には、長蛇の列。不安な顔をすると、良雄はマスクを少しずらして耳元でささやいた。
「予約してあるので、大丈夫ですよ。さ、中へどうぞ」
長蛇の列を尻目にすーっと入店したら、VIP扱いを受けているようで気分がいい。良雄は童顔だけど頼りになる。そのような人と一緒にいることが嬉しくて、菜花の頬はゆるみっぱなし。もし、良雄と結婚したら――。そんなことまで考え出すと、にやにやが止まらない。
「どれにします?」
「ふぇ?」
席に着く前に声をかけられて、ハッと我に返る。
外観の黒を基調としたつくりと違って、店内は赤を基調としていた。でも派手さはなく、アンティークの家具や市松模様の床が落ち着いた雰囲気を漂わせている。そしてなによりも驚いたのが、パンの数。ずらりと並ぶパンやサンドイッチ。ケーキや焼き菓子もあって、パンの国に迷い込んだ気分になる。
「種類が多くて、悩みますね」
「じゃ、僕のおすすめをいくつか紹介します」
良雄は最初にクロワッサンを選んだ。
「この店の一番は、クロワッサンですね。フランス直輸入の生地を使用してて、サクサクの香ばしい表面とバターの香るもちっとした生地が最高なんです。毎日食べたくなる美味しさですよ。あとは、小麦の違いを見せつけてくれるバケットかな。外はパリパリで中はモチモチ。どちらもおすすめです」
空腹をがっつり刺激してくるのは、甘いパンの香り。菜花はバニラビーンズたっぷりのクリームパンが好き。フルーツだらけのデニッシュパンも気になるけど、クロワッサンとバケットを選ぶ。オニオンスープと鶏ムネ肉のカツレツも注文した。
席に着いてもチラリと視界に入ってくるのは、つやつやに輝く美味しそうなパンたち。黒い宝石のようなチョコレートケーキも気になってしまう。
「あの、ここはパンを買って帰るだけとかもできますか?」
「できるよ。食べきれなかったパンを持ち帰ることもできるし、いい店でしょう」
菜花は大きく頷いた。
ベーカリーのオープンはあちらこちらで見掛けて、どこも大人気。でも、カフェを併設している店は少ない。焼きたての一番美味しい状態のパンを、その場でいただけるのはとても嬉しい。だが、良雄の前で食欲全開にはなれない。
また今度、ひとりで来ようとほくそ笑んだ。
「おまたせしました」
先ほど注文したパンは、店員さんがカゴに入れて運んでくれた。同時にジャムやはちみつ。バターやチョコクリームなどを次々とテーブルに置いていく。好きなだけつけて食べられるようで、これも嬉しい。
鶏ムネ肉のカツレツも最高だった。衣がサクサクなので、ナイフをいれる感触が楽しい。口の中に放り込めば、ムネ肉だと忘れるほどジューシー。卵の食感が少し残っているタルタルソースもカツによく合う。
あまりの美味しさに満面の笑みを浮かべて、パクパク食べた。すると良雄が。
「美味しそうに食べますね。僕の知ってるお店を、大石さんに全部紹介したいです」
「えっ」
食べるのに夢中になりすぎた。急激に恥ずかしさが込みあげてきたけど、別のお店を紹介したいということは、また会いたいという意味。このまま交際を続けていく未来もある気がして、良雄から視線を外した。
心臓がどんどん膨らんで、飛び出しそうなほどドキドキしている。それなのに良雄は、また千乃の話をはじめた。
「いまはマーケティング部ですが、昔は営業で、いろんなお店にいきましたよ。この店の飲み物をアカツキの商品に変えたのも、千乃さんなんです」
「へぇ、すごいですね」
にこやかな笑顔をつくったが、胸がきゅっとしめつけられる。さっきから千乃の話しかしていない。菜花は別の話題をふろうとしたが、はたと気が付いた。
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