② 4/23 女スパイの誕生

 グランドマスターキーは使い勝手が良くて、本当に便利だった。これなら点検もすぐに終わる。そう判断したのに、使用中の会議室が立ち塞がった。


「他の階に行くか」


 いつもの菜花ならしっかり点検するところだが、ここは七階。先日、七階の男子トイレで司とばったり出くわした。一度あることは二度ある、二度あることは――。

 三度目などいらない。きびすを返したのに、会議室の扉が勢いよく開く。慌てて観葉植物の陰にサッと隠れて様子を窺ったが、司ではない。菜花はほっと胸をなでおろして、そぉーっと会議室を覗き込んだ。すると、明るい栗色の髪をした女性がうつむいて座っている。


「あれ? 田沢さん?」

「あっ、菜花さん……って、ごめんなさい。馴れ馴れしく呼んじゃって。千乃さんが菜花、菜花って話してるから、つい」

「かまいませんよ。大石って名字、あまり好きじゃないし。でも、どうしたんですか? 暗い顔して」

「それが、明日から松山さんの秘書になれって」

「えっ、すごい!」


 目を輝かせたのに、恵里奈は深いため息をついて頭を抱えた。


「すごくないわよ。あの人、ものすごく怖いのよ。気に入らないことがあると、すぐ怒って交代。何人かは病んじゃって、私もそうなりそう。これ、見てよ」


 分厚いファイルを三冊、机の上に並べた。


「明日までにこれを読んで、覚えて、失礼のないように、怒らせないように。くれぐれも粗相のないようにって。そんなの無理。絶対に無理。もう泣きそう」

「大変ですね……」


 それ以上の言葉が思い浮かばなかった。すると恵里奈は顔を上げて、菜花に詰め寄った。


「そういえば、先日、ロビーで松山さんに話しかけられてたよね」

「えっ、あ、はい」

「どんな人だった? やっぱり怖い?」


 視線を宙に漂わせた。最初はとても怖かったけど、素敵な人だった。でも、司が心底憎んでいる人。


「んー、男社会を勝ち抜いてきた、とてつもない貫禄がありましたね。近寄りがたい雰囲気もあったけど、ものすごくやさしい人のような気もします」


 松山の鋭いまなざしは怖かった。でもそのあとに見せた柔和なほほ笑みは、緊張しすぎた菜花をやさしく包み込んでくれた。


「悪い人じゃないと思いますよ」

「うぅっ、出社拒否したい。こうなったのも、全部、池田が悪いのよ」

「え?」

「松山さんにケンカを売った池田が、今度、新しいクラフトビールを発表するの。それを潰そうとする勢力が徒党を組んで、マーケティング部の企画課に絶賛、嫌がらせ中なのよ。でも、池田を助けたい人たちもいて、空気、悪いの。ほんとイヤになる」

「潰すって、同じ会社の人なのに?」

「バカみたいな話でしょう。女の嫌がらせは無視とか陰で悪口が大半だけど、男の嫉妬は女より怖いかも。会社に損失を与えてでも本気で失脚を狙ってくるから、負ければ再起不能」


 恵里奈は片手で首を切るポーズをした。

 司に敵が多いことは、どことなく想像できる。だが、マーケティング部の企画課には――。


「千乃さんは、大丈夫なのでしょうか?」

「大丈夫じゃないみたい。池田を孤立させるために狙われてる。私ね、千乃さんと同じ社員寮だから、いつもお世話になってるの。敵にはなりたくないのに、松山さんの秘書になったら、きっと対立に巻き込まれる。でも、断れないでしょう」


 ずぅんと空気が沈み込んだ。しかし菜花は瞳に強い力を宿す。


「ここは、ピンチをチャンスに変えましょう。松山さんの情報が一気に集まるんですよ」

「どういうこと?」

「不穏な動きを、いち早く知ることができます。誰と会って、どんな話をしたか。それを千乃さんに伝えれば」

「なるほど! 頭、いい。私はスパイってことね」

「そうです。表向きは敵でも、千乃さんを守りましょう!」

「素敵! なんだかちょっと楽しくなってきた」


 沈み込んでいた顔に明るさが戻ると、恵里奈は美しく華やかにほほ笑んだ。

 優秀な美人秘書でありながら、女スパイ。その肩書きを楽しむかのように、爽やかな表情で立ち上がった。


「菜花さん、私、頑張るね!」


 颯爽と立ち去る恵里奈の後ろ姿を見送って、安堵の笑みを浮かべた。でも、一抹の不安が頭をよぎる。

 司を潰すために千乃が狙われて、恵里奈が巻き込まれた。金曜日の合コンメンバーが次々と。


「ユウユさんが危ない」


 情報を漏らしているのがユウユだと知らずに、菜花はどこまでもお人好しだった。


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