⑥ 4/20 司を潰すための部署
マーケティング部の一角は、殺伐としていた。
徹夜続きで疲れ果てた社員はデスクに突っ伏し、活力を奪われた者たちがうつろな目でパソコンに向かう。その横で堀部千乃がウトウトと船をこいでいた。
「遅くなった。すまない」
司の声を耳にした社員たちは、いっせいに背筋を伸ばす。だらけきった雰囲気は素早く影を潜めて、張りつめた空気が場を支配した。
ある者は率先して電話に応じ、ある者は黙々と打ち込むキーボードの音を一気に加速させる。急に慌ただしく賑やかになったので、千乃は目を覚ました。そして荒々しい声を司にぶつける。
「遅いッ。早く戻ってきてもらわないと、こっちの仕事に穴が。ウ○コなら、はじめからそう言ってよ。このクソ野郎」
「俺は温厚だが、言っていい言葉と悪い言葉があるぞ」
ふたりは激しくにらみあったが、それは一瞬のこと。お互い、すぐさま仕事に戻る。
「堀部さん、そのうち本当に飛ばされますよ」
若い社員が小声で忠告してきたけど、千乃はケロッとしている。
「あいつとは同期だからね。へこへこ頭を下げる気はないの。その書類、貸して。クソ野郎のサインがいるんでしょう」
書類を奪い取るとすぐに、司のデスクに叩きつけた。
「いつも以上に機嫌が悪いな。男ともめたのか?」
「セクハラはいらないから、つべこべ言わずにサインして」
「フラれたのか」
「お互い、仕事一筋なところが認められたから、ここにいるんでしょう。くだらないこと言ってないで、松山勝美に感謝しなさいよ。いまの肩書きは、彼女からのプレゼントなんでしょう」
思い出したくないことを突き付けてくるから、司はガタンと椅子を鳴らして立ちあがった。
菜花が大好きだといった、絵本のようなラベルのクラフトビール。それを発案して企画したのは司。他の部署と協力しながら試作品をつくり、PR資料を作成。お客様への提案も完璧につくりあげたのに、すべて松山が奪った。当時まだひよっこの司より、実績を積みあげた松山の方が商品化への道が開くという理由で。
「すべてを奪われてくやしい気持ちはわかるけど、今朝のようなことがあると困るの。あいつらを敵にまわしたら、ここは簡単に潰されるのよ。そんなことになったら、どう責任を取るつもり?」
司の顔が強張った。
ここはゼロから商品をつくる、マーケティング部の企画課。新しい商品を形にするには、多大な時間と経費を必要とする。ゆえに、努力も重圧も生半可のものではない。様々な部署と連携を取りながら、着想から発売までに数年かかったり、何千という試作品をつくったりすることもある。
努力を重ねてすべてを乗り越えても、たったひとつのミスで商品にならないことも多い。今朝の軽はずみな行動のせいで、現在のプロジェクトを潰す可能性も充分にあった。
松山の秘密を知る司は邪魔な存在。早く問題を起こせとてぐすねを引く輩がいる。相手の思惑に引っかかってしまった司は、両手の拳を握りしめて「悪かった」と弱々しい声を発した。
「理解してくれたのなら、それでよし。ケンカするなら仕事で勝負。必ず成功させるよ。マーケティング部、企画課には池田司がいる。それにみんなついてきてるんだから」
両手を腰に当てて、千乃は偉そうに胸を張った。ふたりのやりとりをハラハラしたまなざしで見守っていた社員たちも、大きく頷く。これには司の胸も熱くなった。
「あー、みんな、ちょっと聞いてくれ。今朝のことを説明しておく。松山に今回のプロジェクトのことを聞かれたんだ。女性をターゲットにした、新しいクラフトビールの開発が順調なのか」
「試飲会の招待状を渡したのに、心配してくるとは嫌味だねぇ。順調なのがくやしいのかしら」
「だろ。あとは役員たちの承認を得れば商品になる。でも『詰めが甘いあなたのことだから、油断してると転ぶわよ』って笑いやがった」
身振り手振りをくわえながら松山のものまねを交えて話すと、社員たちに笑みが戻る。ゆるやかに場の空気が和んできたのに……。
「だからつい、強欲ババアがいないから大丈夫ですと答えたら、松山の取り巻きが怒鳴りだして、あの騒ぎだ」
せっかく笑顔を取り戻した社員たちは、あちゃー、と顔をしかめて、千乃は頭を抱えた。
「誰も松山のことを強欲ババアとは言ってないのに、あの取り巻き、心の底では松山を強欲ババアと認めてるんだな」
嫌みったらしく笑ってから、司は顔を引きしめた。
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