⑦ 4/20 失恋とは違う苦い味
「どうも松山が絡むと冷静さを失う。これは俺の悪いところだ。心配かけてすまなかった。同じ過ちは二度とくり返さない。だから、これからもよろしく頼む」
深々と頭を下げると誰もが司を受け入れた。疲労困憊だった社員たちの士気があがり、いい刺激となった。
「これも千乃の策略か? ちゃんと謝る機会ができてよかったが、乗せられたのならくやしいな」
「不安があると仕事に影響するからね。それにボスは間違いを認めたら、部下にだってちゃんと謝るから若い社員がついてくる。それ、大事だからね」
「そのボスって呼び方、そろそろやめないか?」
「どうして?」
司は遠い目をした。
異例の出世で仲間から「ボス、任務完了です!」と、からかわれながら仕事をしてきた。だが、当時の仲間はひとり、ひとりと消えて、いまは千乃しか残っていない。
「ま、いいや。今後は松山との面会も多くなるから、気を付ける」
「それにしても、よく昔の恨み
「ああ、あのとき――」
菜花を発見した。
人垣をぐいぐい押しのける千乃の後ろで、丸い目が怯えていた。その心細げな面持ちが司を冷静にさせたのに、菜花はまったく気付いていなかった。昨日も会っているのに。
「なにかあったの? 急に淋しそうな顔をして」
「いや、なんでもない。千乃が松山と引き離してくれたから、助かったよ」
「それじゃ、一杯、奢ってよ」
「あれ? ビールの試飲ばっかで酒は控えてるんじゃなかったっけ」
「んー、色々あってね。飲みたい気分」
「そういうのは、例の幼なじみに頼れば?」
「それなら、もう終わった。良雄に好きな人ができたみたいなの」
「うわ、マジでフラれたのか」
「告白もしてないわよ。良雄は弟みたいなもんだからね。幸せになってくれたら、お姉ちゃんはそれで満足よ」
「お姉ちゃんねぇ……」
ふいに薫のことが頭をよぎる。もっとわがままになって自分の幸せをつかめばいいのに、一歩引いて見守るタイプ。おそらく、人から感謝されることで自分の存在意義を確認している。千乃も薫と同じで幸せを逃しそうだと感じたが、口にすれば必ず言い争いになる。黙って、書類に目を通した。
「でもちょっと驚いたことがあってね。良雄が、年上を選んだの」
「別におかしくないだろ。俺も年上の女を好きになったことあるし」
「えっ、そうなの。それは初耳。今度、詳しく教えてよ」
「いーやーだ。死んでも教えない」
「ケチ。今日は早く仕事を片付けて、また菜花を捕まえないと」
「菜花? それって大石菜花?」
「そう、正解。良雄、菜花と付き合いたいんだって」
スッと目の前が暗くなる気がした。
「あれと付き合いたい男がいたのか?」
「あれって、ひどいな。最初に菜花を発見したのは、ボスでしょう」
「仕事ができるからな。あいつがアカツキに来てから資料室が使いやすくなったし、備品の補充も完璧だ。掃除機の音が苦手らしいが……って、なんで千乃の男とあいつが付き合うことに?」
「良雄はあたしの男じゃないって。先週の金曜日に、合コンしたの」
先週の金曜日。ビール片手に「最悪な合コンに行ってきた」と、菜花はべろんべろんに酔っ払っていた。
「へえー、驚いたな。あれでうまくいったんだ。そっか」
書類にサインをしながら、それ以上、余計なことは考えないようにした。でも、「そっか」ともう一度、同じ事を口にしていた。
サインした書類を千乃に返してからは、作業中のキーボードを再び叩き出す。女性をターゲットにした、新商品の開発がもうすぐ終わる。発売されるか、否か。それを決める役員会が近い。失敗は許されない。
最高のクラフトビールと、それに似合う食事で勝負する。『味で役員たちを黙らしてやろう』を合い言葉に、一丸となって取り組んできた。だから余計なことは考えたくないのに、つながった縁が切れる音がする。
黙々と画面にむかう司の背中は、いつもの勢いを失っていた。
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