③ 4/20 菜花はちょろい
「菜花、遅いよ。始業開始の三十分前には出社するように、いつも言ってるでしょう」
未読のメールをチェックしていたユウユが、大きな声で注意してきた。時計を見ると、三分の遅刻。いきなり細かいことを突いてくるので、まだ敵対していると肌で感じた。
「すみません、ユウユさん」
菜花もわざと大きな声を出した。
金曜日の合コンで、
「会社では、幸野さん。もう三十なんだから、仕事とプライベートの区別ぐらい、ちゃんとして」
あっさりと、涼しい顔で言い負かされた。でも、あのひどい合コンのことを思い出すと、黙ってはいられない。
「いいじゃないですか。みんなからユウユって呼ばれてるんでしょう。とってもかわいい呼び方だから、ね」
嫌味を混ぜながら、無邪気な笑みをつくってお願いしてみた。するとユウユは立ちあがり、大量の紙束を菜花の机に置く。
「あっ、そう。それじゃこれ、今日の仕事。一週間の予定をまとめてあげたから、各部署への資料をホッチキスでとめて」
自分の仕事をはじめる前に、菜花の仕事を手伝う。それがユウユだった。
「……ありがとう……ございます」
合コンでは人が変わったかのように菜花を陥れてきたが、仕事とプライベートの区別はしっかりしていた。キャピキャピした異様な明るさは姿を潜めて、いつもと同じようにてきぱきと仕事をこなしている。
私情をおもいっきり挟み込んだ菜花は、大人げなかった。ちょっぴり後悔しながらホッチキスを手に取り、パチン、パチンと軽快なリズムを刻む。だから察知できなかった。ユウユが「ふん」と軽蔑のまなざしを向けたことに。
菜花は素朴にして単純なところがある。
ユウユが毎朝、真っ先に菜花の仕事を手伝う理由はひとつ。恩を売ってイヤな仕事を押しつけるため。これが二年以上も続き、いい加減に気付けよと言わんばかりの顔をしても、菜花は感謝の言葉を口にする。
あまりにもお人好しなので、無理難題をニヤニヤとした笑顔で押し付けても、都合よく利用されているとは微塵も思っていない。それどころか、ユウユは仕事を手伝ってくれるいい先輩、とまで思っている様子。
――それなら、とことん利用してやる。
菜花の仕事が一段落つくのを見計らって、すっと忍び寄った。
「ちょっと、ごめん。この仕事、お願いできるかな」
メモ用紙に『七階の男子トイレ、換気扇、異常音』と書かれていた。
「予想以上に他の仕事が増えて、手がまわらないの」
「大丈夫ですよ。見てきます」
さっと立ちあがった。
菜花の仕事を手伝っていたから、ユウユの仕事が遅れていると信じて疑わない。
「ありがとう。助かるわ」
ワントーン高い声で喜んで見せると、菜花も嬉しそうな顔をする。心の中で「ちょろい」と舌を出して笑いながら、颯爽とオフィスを出て行く菜花を見送った。
オフィスを出た菜花は自然光を取り入れた廊下を歩き、エレベーターのボタンを押す。この時間はとても静かで、エレベーターが到着したらポンッと上品な音を響かせた。
七階のボタンを押すと扉は音を立てずに閉まり、ゆれることなく上がっていく。菜花が毎日利用している自宅マンションのエレベーターは、もっと狭くて、足もとがガクンとゆれてから動く。グォン、グォンと痛ましい悲鳴をあげながら。
再びポンッと上品な音を響かせてエレベーターの扉が開くと、司の言葉を思い出した。
――早いうちに、ここから引っ越せ。オートロックも、カメラ付きのインターホンもないなんて、危険すぎる。
「引っ越し、したい」
しかし、派遣期間は三年。六月末でアカツキビールとはさようなら。次の派遣先は決まってないし、貯金も少ない。現実は厳しいと苦笑いした。
「ここはホワイトで働きやすいけど、残業がないからなぁ。あれ? でも、なんでわたしが男子トイレに?」
総務には男性社員もいるのになぜ、と愚痴をこぼしたが、雑用を押し付けられるのはいつものこと。「イヤなこと」と書いて「仕事」と読む。生活費のためにがんばろうと言い聞かせながら、男子トイレをそっと覗き込んだ。
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