② 4/20 菜花の憧れが目の前に!

「松山勝美って、絵本のようなラベルでビールの概念を覆した。あの……」


 テレビや雑誌でしか見たことのない、憧れの松山がすぐ近くにいる。一目だけでも、その姿を拝みたい。菜花は背伸びしたり、屈んでみたりしたが、まったく見えない。

 ちょこまかしている菜花と違って、千乃は深いため息をついていた。


「とうとう、やってしまったか。松山勝美に生意気な口を利く社員は、あの人しかいないな。ごめん、菜花。良雄の件はまた今度」

「千乃さん。それじゃ、わたしの連絡先を――」


 スマホを取り出している間に、千乃は「すみません、通してください」と人垣をわけていく。

 ここで千乃を見失ったら、せっかくの話が流れそうな気がして、菜花も急いで背中を追う。すると隙間からひときわ輝いた女性が、目に飛び込んできた。


「本物だ……」

 

 聡明な面立ちに、切れ長の目元が涼しい。筋の通った鼻は頑固そうな力強さを感じるが、歳を感じさせない美しさに満ちている女性。ネットのニュースでもない。テレビの画面でもない。本物の、動く、松山勝美がすぐそこに。

 感動のあまり目頭が熱くなって、膝が勝手に震えてきた。そうなると一歩も動けない。千乃の背中がどんどん離れていった。


「わっ、どうしよう。見失っちゃった。でも、松山さんがいる」


 嬉しすぎてかすかな声がこぼれた。

 それはとても小さな声で、野次馬たちの隙間から見える松山には絶対に届かない。はずだったのに、松山の視線が菜花をとらえた。


「えっ、うそ。目が合った」


 ハッと表情を硬くして周囲を見回したが、すすすっとみんな離れていく。同時に自信と覇気に満ちたヒールの音が近づく。

 ぐんぐん近づいてくる松山にビビりながらオロオロしていると、ヒールの音が菜花の前でピタリと止まった。おそるおそる見上げると、松山は切るような鋭いまなざしをぶつけてきた。


「あなた、あの男と知り合いなの?」

「あの男?」


 おどおどしながら、どの男なのか目を泳がせた。だがいくら泳がせても、この会社に知り合いの男なんていない。それよりも憧れの人から向けられる、忌ま忌ましげなまなざしが怖い。

 瞳に涙がたまるのを感じると、松山の表情がふっとやわらいだ。


「ごめんなさいね。おばさん、怖かったかしら。いまの言葉は忘れてちょうだい」


 緊張と恐怖で完全に萎縮していたが、松山の柔和なほほ笑みに菜花は口を開いていた。


「わたし、あなたの大ファンなんです。絵本のようなラベルのビールも大好きです。こ、こ、ここの、この場所で働くことができて、とても幸せです。えっと、だから」


 あなたのことが大好きです、とアピールしたかったのに、舌がもつれて頭の中はパニックに陥り、大混乱。それでも数少ないチャンスをものにしようと、一生懸命、舌を動かした。


「あら、ありがとう。あなたもアカツキビールを日本一、いえ、世界一を目指してがんばってくださいね」

「はい!」


 シャキッと背筋を伸ばして、元気よく返事をした。耳まで熱くなるのを感じながら、瞬きひとつせずに松山の背中を見送る。

 ふと気が付けば、不穏な空気にざわついていたロビーもいつもの静けさを取り戻して、菜花はぽつんとひとり取り残されていた。当然、千乃の姿もない。


 ――良雄と付き合う気ない?


 嬉しすぎる言葉が頭をよぎるけど、今朝は、たまたま同じ電車に乗っていただけ。明日も会えるとは限らない。いますぐにでも詳しい話が聞きたいのに、連絡を取る手段がないので頭を抱えた。


「どうしよう」


 憧れの松山と言葉を交わせたのは、とても嬉しかった。だが、良雄というとてつもなく大きな魚を逃がしてしまった気がして、底知れぬ悲しみに沈む。


「運がないなぁ。あ、そういえば」


 昨日、不機嫌な面持ちでやってきた司が、ポロリとこぼした。また神社に行ってもいいのか聞いたとき「縁結びの効果はないけど、好きにすれば」と。

 すっかり聞き流していたが、あの神社に縁結びの効果はない。必死になって願い続けてきたのに、あまたの五円玉が無駄に。


「全部、あの男が悪いのよ」


 行き場のない怒りをすべて司のせいにして、菜花は早足でその場を去った。

 そしてオフィスには、ユウユが待っている。

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