儚いもの
新宿は分厚いコンクリートの壁に囲まれる予定だった。しかし全国から新宿に双つ影が集まり始めて、それを阻止するための警察との衝突が起きてからは工事はまったく進んでいない。双つ影の力の前に警察は押されるだけ。政府はこれを災害と認定。ついには自衛隊が出動して毎日のように双つ影と衝突していた。さすがに双つ影も一筋縄ではいかず、一進一退の攻防が繰り広げられている。そのせいで建設途中の壁は崩壊し、壁近くの建物も壊されていく。均衡しているようにも見えた状況は次第に自衛隊が押しつつあった。双つ影とはいえほとんどが力を使えるようになった者たちばかり。毎日抗争している内に体力と精神を極度に消耗し、1人また1人と拘束されていった。何十人もの双つ影が集まって新宿へ向かったはいいものの、そのほとんどが今となっては捕縛されてて残りの数人は建物の中に立てこもっていた。
その中に笹良柚依の姿が確認されたと聴かされてまず真っ先に突貫しそうだった兄を叶依に任せて、笹良はその建物の前に来ていた。なるべくならば武力行使ではなく、説得されて観念して欲しい。今までは身内であっても自ら進んで説得する行動に誰も行こうとしなかった。笹良はその提案を飲んでこうしてきている。
笹良が来ている事を知ったんだろうか、建物の奥からやつれた様子で柚依が姿を現した。
「慎二、さん?」
またこうして会えるとは思ってもいなかったのだろう。笹良の名を口にして柚依は大粒の涙を流していた。
「本当に……慎二さんなの?」
「あぁ、そうだよ。柚依ちゃんに会いに来たんだよ」
薄く微笑みながら柚依へと足を進める。彼女の震えて伸ばしてくる腕をつかみ、優しく抱きしめる。
「怖かっただろうね。だけどもう大丈夫だから」
「でも、でも私……普通じゃなくなったんだよ?」
「でも柚依ちゃんは柚依ちゃんだ。大丈夫。もう大丈夫だから」
胸に顔を埋めて泣きじゃくる柚依の頭に手を置いて、何度も撫でてあげる。
その時だった。
「進めぇ!!」
あたりに響き渡る大声。拡声器を使っての怒号が二人の聴覚を奪う。今までどこに隠れていたのだろうか。警察官や自衛官がずらりと現れてあっという間に二人を取り囲んだ。
「慎二さん!」
「なんなんだよあんたら!」
わけも判らず叫ぶ笹良に自衛隊員が手を伸ばして
「手伝いありがとうございます。さぁその少女をこちらに渡してください。あとはこちらにお任せください」
「こんな話は聞いていないぞ! 邪魔をしないでくれ! 彼女はオレが連れていく」
「そうも参りません。その少女はすでに普通の人間とは違うのです。こちらでしかるべき処置をしなくてはなりません。さぁ!」
伸ばされた腕、とは逆の方向の警察官が笹良の死角から彼女をつかもうとして、彼女がそれに小さく悲鳴を上げる。
「なにしているんだ!」
振り返って警察官の手を払う。もう一度振り返って文句を言おうとしたところで振り下ろされた警棒で地面に倒れる。一瞬意識を失った笹良だったが倒れた衝撃で目を醒ます。しかし意識だけはっきりとして体が自由に言う事を聞いてくれない。
「慎二さん! 慎二さん!?」
倒れた笹良の体を揺さぶる柚依。しかし警察官2人に背後から体をつかまれて引きはがされる。
「慎二さん!!」
まるでそれは雷が鳴ったようだった。
笹良の名を叫ぶ柚依の体を走る稲光。
触れていた警察官が手に激しい火傷を負ってのたうち回っている。
「なんで! 慎二さんは普通の人なのに、なんでこんな事をするの!」
体に巻き付いていた稲光が自衛隊隊員に襲いかかり、避けた先で地面が焦げて黒くなる。その隊員が銃口を向けたのを倒れたままの笹良は見ていた。
「やめっ――!」
立ち上がろうとして空振る笹良の目の前で銃口が火を噴いた。それはそれはとても耳障りな音。それはとてもとても見たくなかった光景。
それはとても、哀しい光景。
「柚依……ちゃん……」
世界がスローモーションで動き出す。
額から血を流して崩れるように地面に倒れる柚依。
いままで自由がきかなかった体が動きを取り戻す。立ちあがって、倒れた彼女のもとについて体を抱きかかえる。
「柚依ちゃん!」
それにはひどい程に生を感じられない。ほんのちょっと前まで生きていたはずの体には今はもう、自由を与えられていない。
声をかければ笑ってくれた少女はもういない。そこにはもういない。
いない。いない。
少女の体を再び地面に横たわらせる。開きっぱなしだった彼女の瞳を閉じさせる。
地面に強く拳を叩き込み。痛みを感じない。
「なんでだよ!」
その怒声は取り囲んでいた全員を一瞬ひるませた。
立ち上がり、発砲した隊員を指さして
「なんで撃ったんだ!」
憤怒の表情で相手をつかみかかろうとして、他の隊員や警察官に取り押さえられる。地面に寝かされてて両腕を固められ、動く事はできなくなったが視線だけはその隊員を睨みつけたまま。視線だけで人を殺せる事ができたのならこの隊員は何度死を体験する事だろうか。
「この女は普通の人間じゃないんだ。今のをお前も見ただろう。なにかあればああやっておかしな力でこちらを攻撃してくるんだ。あちらがそんな力を使うんだったら、その分を補うためにこちらは銃を使う。なにがおかしい?」
「そっちが! お前たちがなにもしなかったら柚依ちゃんだってなにもしなかった! お前たちが……追いつめるような事をしなければこんな事にはならなかったんだ……! 今まで通り、暮らせたはずなのに……!」
「今まで通り? こんなわけの判らない力を持ったバケモノとか? 例えそれが今まで自分の妻や兄弟だったとしてもごめんだな」
「お前は! それでも人間かっ!」
「バケモノみたいな力は持っていないから、そうだろうよ」
「力を持っていないだけであって、心はそのバケモノ以下のようだな」
それは笹良の言葉でも隊員の言葉でもない。腕を組んで、いつの間にか隊員の背後に立っていた長身の男性。
「――誰だ!?」
声が聞こえてきた方角へと銃口を向けようとして、それよりも先に振り向いた顔を手のひらで掴まれる。
「心だけじゃ物足りないだろう。いっそのこと心も体もバケモノになってみたらどうだ」
隊員の体が小刻みに震える。手から銃が落ち、震えていた体が収まり、男性の手が顔から放たれる。
「魂をさらに2つ入れてみた。けっして対応する事はないだろう」
さらりと言ってのける。
男のその言葉に笹良の表情が固まる。手を離された隊員は呆けた表情で虚空を見つめている。
地面に生えている影は、計3つ。
「お、おい!影が……増えている!」
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