第11話 回想(6)
その時。
今までおとなしく尻尾を振っていた犬が、急に耳をピンと立てて、うなり声をあげ始めた。
「どうしたんだよ。さあ、おいで」
チェンが手でいつものように身体をなでてもその威嚇行動はおさまらなかった。むしろ激しさを増す。
すくっと立ち上がり、前かがみになりながら白い牙を剥いてチェンを敵と見なすように行動がエスカレートしていく。
「何、怒ってるんだよ。ぼくだよ、お前のマスターだぞ。さあ、手綱をつけるぞ」
手を差し出したチェンに向かって、とうとう吠え始めた。
「なんだよ。しぃっ。静かにするんだ。待て!」
シェパードの眼は、チェンを敵と見なす眼であった。
赤く血走り、睨みつけている。
チェンはさっきよりも大きな声で、「待て!!」と厳しく言った。
手を上から下に振りかざして命令をするが、全くきかなくなっていた。
シェパードは口から白い泡をふき、ついにチェンに襲いかかった。
「うわああ!!」
短い叫び声が聞こえた。その声を聞いて、その場から遠ざかりつつあったバーンとフランクは後ろを振り返った
そこには信じられない光景があった。
シェパードは軽々とジャンプをして、チェンの肩に前足をかけるとそのまま勢いよく後ろへと倒した。
チェンは身体が硬直したように真っ直ぐアスファルトの道路に頭から叩きつけられた。ゴキッと鈍い音が彼らの耳に届いた。
すかさず、シェパードは彼の喉元に食らいついた。
首を左に右に大きく振り、“獲物”に最期のとどめをさした。
頭から血を流し、手の指がピクピク痙攣しているのが見えた。
そして、彼は動かなくなった。
シェパードは喉元に牙を立て、彼の身体をくわえたまま、すくっと立ち上がって彼らの方を睨んでいた。
すべての力が抜け、だらんとしたチェンがまるで人形かボロ切れのように見えた。白い牙からも口元からも、そしてもちろんチェンの洋服も赤い血で染まっていた。
頭の後ろから何か白っぽい物が流れているのも見えた。
「チェン! チェン!! おい!! どうしたんだよ!」
驚いたフランクはチェンのもとに駆け寄ろうとした。
その腕をバーンがつかんだ。
「…待って」
シェパードの様子を、眼を離すことなくじっとみていた。
「バーン」
半分青ざめた顔でバーンの方を見た。
「…何か様子がおかしい。近寄らない方がいい」
「そんな事言ったって、チェンが!?」
フランクはおろおろするばかりである。
「フランク、…」
「!」
「先生でも誰でもいい、大人を呼んできて…。僕はあいつを引き止める」
静かな声でバーンが言った。
「だって、お前、怪我してるんだぞ!」
フランクは血が滴り落ちている左腕を見ながら小さな声で叫んだ。
バーンは犬から視線を彼の方に移すと表情を変えずにこう言った。
「大丈夫…。背中を見せないで、あいつをにらんだまま行けよ」
「う、うん」
「あ、フランク」
急にバーンがその場をあとにしようとしていた彼の名を呼んだ。
「何?」
「さっきは、…あの」
フランクの横顔を見ながら急にどもってしまった。それでも言わなければと、必死で口を動かしていた。今、伝えなければならないと思った。
自分の気持ちを。
「・・・ありがとう」
それだけ言ってうなだれてしまった。
「何、言ってんだよ、そんなの当たり前だろ」
「あ…」
「お前もあんまり無理するなよ。」
彼はそう言いながらバーンの肩をポンと叩いた。まるで戦友を激励するかのように。その信頼を確かめ合うかのように。
バーンはその叩かれたところに手を置いた。
そして、少し嬉しくなっている自分に気がついた。こんな気持ちになるのは、久しぶりのような気がした。
『お前もあんまり無理するなよ。』
フランクのこの言葉を何度も心の中で繰り返す。
友達同士なら普段の何気ない会話であろうに、彼にとっては初めてのいたわりの言葉だった。
しかし、状況は待ってくれない。
気を取り直して、バーンは背負っていたリュックを両手に持った。
フランクはバーンから少しずつ後ろへ後ろへと離れていった。
シェパードはチェンから牙を抜くとじっとふたりを見ていた。
ズルっとチェンの真っ赤な身体がシェパードの傍らに落ちた。
また威嚇行動を始める。響くくらい大きな声でうなっている。
シェパードの身体が徐々に前かがみになった。
バーンはリュックをシェパードの目の前で左へ右へと振り始めた。
「フランク! 行け」
バーンは小さい声でつぶやいた。
「うん。」
彼が駆け出すのとシェパードがバーンに襲いかかるのとはほぼ同時だった。
ほんの数歩でシェパードはバーンの前に来るとリュックに噛み付いた。
ものすごい力で首を振りながら後ろへ後ろへと引っ張った。
バーンも唯一の武器を奪い取られないように必死で2本のショルダーベルトを手で押さえた。
左手の痛みに耐えながら、『右手一本になっても離すもんか』と思いながら頑張っていた。
「バーン!!」
そこへようやくやって来たアレックスが、バーンを見つけ叫んだ。
ゲートからバス停までは10mほどの距離しかない。
そこからさらに5mほど奥にある歩道の上で、腕を血だるましながら、シェパードと格闘している姿が目に飛び込んできた。
不意にリュックから牙が抜けた、シェパードは激しく吠え始めた。
バーンはリュックを持ち上げるとその側頭部を目がけて勢いよく振り下ろした。
バンッという音がして、シェパードは彼の左側に吹き飛んだ。
が、鳴き声はあげなかった。
道路に少し力無く四肢を伸ばしたあと、再び頭を上げて立ち上がった。
「!」
吹き飛ばされたシェパードが見ていた方向には、フランクとアレックスがいた。何を思ったのか、よろけながらシェパードは彼らに向かって走りはじめた。
(しまったっ)
バーンもリュックを手放すと夢中で走った。アレックスもフランクの方へと走り出した。
「フランク!! 兄さん!」
彼らの名を呼んだ。そして、フランクが振り返った瞬間。
シェパードは、フランクの左首に食らいついた。
「バ……」
フランクはバーンの方へ右手を挙げるとそのままアスファルトに崩れ落ちた。
「フラーンク!!」
叫びながらバーンは彼のそばにようやく到達した。
「くそぉ!」
アレックスも犬を引きはがそうと身体を引っ張った。なおもシェパードはフランクの首に牙を食い込ませている。ふうふうと荒い息が耳障りな音として聞こえた。
頸動脈を切ったのか、血が滝のようにアスファルトに流れ出ていく。
フランクの目からは徐々に生気が失われていった。
その目には、バーンの姿が映っていた。バーンは屈み込むとシェパードの耳に思いっきり息を吹き込んだ。
犬はビクッとしてフランクの首から口を放し、バーンの方を見た。
すかさずアレックスがフランクの身体を自分の方へと引き寄せた。
手で左首を力一杯押さえるが、もう血が止まらない。
ぬめっと生暖かい液体が指の間からあとからあとから流れ出していく。
「おい! しっかりしろ!!」
アレックスは叫ぶことしかできなかった。バーンはシェパードの赤く血走った目を睨み返した。しばらく睨み合ったまま、お互いに動かなかった。
動けなかった。膠着状態が続いた。
やがて、ようやく異変に気づいた周囲の大人たちがやって来た。
大声をあげながら駆け寄ってくる音が聞こえた。
「バーン!! アレックス!! どうしたっ」
その声に追われるようにシェパードはバーンの前から駆けだした。
「あ。」
脇目も振らず道路を横断しようと走り込んでいき、そして。
自ら命を絶つように、そこに走り込んできた車に飛び込んでいった。
その瞬間。
バーンは横を向いて眼を閉じた。見ていられなかった。
鈍い音があたりにこだまして、シェパードの体は空に舞い上がった。
何回転かしたあと、道路にたたきつけられた。
数回短く呼吸をしたかと思うと長い舌を出したままは動かなくなった。
「バーン!」
アレックスに呼ばれて、振り返った。肩で苦しそうに息をしながら、フランクが彼を見ていた。
「バー…ン。 痛……い。」
「フランク! フランク!! しっかりして!?」
必死に呼びかけながら、彼の顔をのぞき込んだ。血の気のない白い顔。
アレックスは『もうもたない』と思いながら、フランクの身体を支えていた。
「お・・・前、すごい・・・な。こんなに・・・痛い・・・のに、悲鳴ひとつあげな・・・・かった。強い・・な。」
そう言うと彼の身体から急に力が抜けた。
バーンはフランクの身体にしがみついて、力一杯揺すった。
「フランク…! !? ダメだよ、フランク。目を開けて」
バーンの眼には涙が光っていた。
「フランク!!」
チェンとフランクはあいつとそれほど親しい仲の友人というわけじゃない。強いていうなら、ただのクラスメイト。
ほんの10分、15分の間に2人の人間があっけなく死んでしまった。
あいつの眼の前で。それも飼い犬にかみ殺されて。
普通じゃあり得ない事故さ。普段から飼い慣らしてきた主人に襲いかかるなんてな。あいつも左手首の亀裂骨折と無傷じゃ済まなかったが、そんなことはどうでもよかった。
人が死んだという事実だけが、重くあいつにのしかかった。
『自分に関わった人間は死ぬ』……そう思い込むようになっていった。
自分のせいだと。きっと原因は自分にあると思ったんだろうな。
決定的だった。初めてフランクに自分という存在を認めてもらえたのに、守りきれなかった。そのことで自分を責めていた。
なぜあのシェパードは、自分を襲うのを急に止めてしまったのか。
なぜ自分よりもチェンやフランクを優先的に襲ったのか。
あいつはますます自分の殻に閉じこもるようになる。
そして、人との関係を……自分から、断った。
すべて。俺との関係も同じさ。
そんなことお構いなしに俺はかまうけどな。
でも…きっと、もう誰も死んでほしくなかったんだろう。
誰も。
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