第10話 回想(5)

「スゲーな」

フランクは目を丸くした。

「こいつは頭がいいんだ。元々は警察犬だぜ」 

黒光りするシェパードを散歩に連れ出したチェンは得意げに言った。

「よく訓練されてるから、パパと僕の言うことしか聞かないんだ」

「へえ。」

細身の引き締まった身体でぐんぐん前へ前へと歩く姿は王者の風格である。

手綱を何重にも手に巻き付けたチェンは、体を反らせるようにその後を歩いていった。

学校の門の近くまで来ると、ふとした人物が目に入った。

「バーンじゃないか?」

「え!?」

ちょうど道路の向かい側、スクールバスのバス停へと向かう途中の彼がいた。

チェンはニヤッと笑った。

「いいこと思いついた」

「なんだよ」

「ちょっと脅かしてやろうぜ。こいつけしかけてさ」

チェンはシェパードの身体をぽんぽんとなでながら言った。

「やめろよ。チェンだって噂、知ってるだろう?」

「あくまで噂だよ。大丈夫。怪我なんかしない程度にするよ。そばまで走らせて、吠えさせればきっとあの無表情なヤツでも泣くぜ」

チェンは首輪と手綱をつなぐ金属の金具をはずした。

フランクは半ば必死に止めさせようとしたが、チェンは聞く耳を持たなかった。

絶対の自信があるのだ。

「どうなっても知らないよ!」

「お前も心配性だな」

ピューと口笛を吹き、前方を指さすと小声で命令を伝えた。

「Go!!」

チェンはバーンを指さしながら叫んだ。

シェパードは勢いよく道路を横断して、バーン目がけて走り出した。

「!」

バーンは何かが自分に向かって走ってくるのを認識したが、次の瞬間、黒い物体に道路に押し倒された。

「なっ!?」

その様子を向こうで見ていたチェンの顔色が変わった。

「あいつ!! 何してるんだ!!」

口笛を吹くが、シェパードは言うことを聞かず、狂ったようにバーンに牙を剥き続けた。

「もどれ! 襲えなんて命令してないぞ!?」

チェンとフランクは急いでバーンの方へ駆け寄ってきた。

ものすごい力だった。

バーンは両腕を交差させて、歯を食いしばりながらかろうじてその牙を防いでいた。

動物は本能的に獲物ののど笛を狙ってくる。

鋭い爪と牙が彼の腕や顔を傷つけていく。

不意に大きく開けられた口がすっぽりバーンの左手首にはまりこんだ。

牙が皮膚に食い込んでくる。

骨がきしむ音が聞こえるほど、強く鋭い牙に襲われた。

激しい痛みが全身を貫いた。

バーンは無我夢中でじっとシェパードを、その目を睨みつけた。

右眼が熱かった。

カラーコンタクトの下で一瞬光った気がした。

(こいつ!)

急に、犬の動きが止まった。

力一杯突進していた足が止まる。

バーンの上にいた犬が、彼からふらっと降りた。

そして尻尾を振り、道路に伏せた。

ようやくバーンはため息をついて、眼を閉じた。

両腕を力無く下ろし、道路に大の字になる。

「おい、バーン、大丈夫か?」

ようやくそばへと駆けつけたフランクが上から彼の顔をのぞき込む。

バーンは驚いて、眼を開けた。

手を差し出すと彼を抱き起こした。

「………」

「ごめんな。」

バーンは信じられないようにフランクを見た。

つらくあたられることは日常的にあっても、自分を心配してかけてくれる言葉を聞くのは、Primary Schoolに入ってから始めてのことだったからだ。

「立てるかい?」

何も言わずに、彼は立ち上がった。

右手で左手首を押さえながら。

そこにはくっきりとシェパードの歯形が残っていた。

血がポタポタと滴り落ちていく感覚があった。

しかし、痛みは感じなかった。

噛まれたその部分だけが灼けたように熱かった。

「痛いだろう? 保健室ファーストエイドに行こう」

バーンはうつむいたまま立ちつくしていた。

そこへ少し遅れて、手綱を持ったチェンがバツの悪そうな顔でやって来た。

「あの…さ。」

「………」

「ごめん。驚かそうと思っただけなんだ」

ようやく口からでたような苦しい言葉だった。

「・・・いいよ、もう」

バーンは小さい声で関心のないようにつぶやいた。

三人はそこに立ちつくした。

「さ、早く手当てしてもらおう、バーン」

フランクはバーンの肩に手を置いて、そう促した。

バーンも促されるままチェンとシェパードに背を向けた。

チェンは、もう一度手綱をつけようとシェパードの首輪に手をかけた。

その時。



「おい! アレックス!!」

乱暴にドアが開き、そして閉められた。

教室で帰り支度をしていた彼のもとに、友人のひとりが息を切らせながら駆け込んできた。

「あんだよ」

その声の主の方を見もせずに、ちょっと不機嫌そうに答える。

「お前の弟、何か大変なことになってるぞ」

「何!? どういうことだよ?」

アレックスの顔色が豹変した。

『早く言え!』と相手の首を絞めんばかりにつかみかかった。

「どこでだよっ! 何があった!!」

「ゲートのところで、犬に襲われたとかどうとか、」

場所を聞くや否や絞めていた手を乱暴に離すと彼は疾走して教室をあとにした。

(バーン!!何があった? 俺が行くまで・・・頼む。)

そう思わずにはいられなかった。

何も起きていないことを祈らずにはいられなかった。

嫌なことが脳裏によぎる。

そう、去年のジャックのこと。

最悪な予想。

(何かがおかしい。)

走りながらアレックスは妙な感覚に襲われた。

自分たち以外の誰かが、ほくそ笑みながらゲームをしている。

『人生』という名のボードの上で。

オセロのコマを動かすように、バーンの周囲の色を白から黒にひっくり返しているような。

彼を何かから孤立させようとしているような。

彼そのものの色を変えようとしているような感覚に襲われた。

(誰が、何が、あいつの心を追いつめてるんだ。あいつが何したっていうんだ!あいつは自分の心も、何もかも、押し殺して生きているのに。これ以上…もう、あいつを。ちくしょう!!)

アレックスは拳を握りしめた。


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