僕とキリと、セカイのそこで。

緑茶

僕とキリと、セカイのそこで。

 キリが父を殺した夜に、僕たちは教団を抜けだした。


 それから五年。シェルタリングされた空は、僕らを嘲笑うかのように曇天。いつ終わるともしれない僕らの逃避行を、何にも示すことなく、ただ見下ろしている。


 そんな空に、キリはよく叫んだ。「ふざけるな」と。

 キリの怒りはそのまま暴力となり、眼前の人達を皆傷つけた。僕を守るために。



 水たまりに顔を突っ込んで死んでいる歳若い教団の兵士達を見下ろす。頭には大きく赤い穴が開いていて、それは蓮の花のように見えた。


「手こずらせやがって」


 キリは顔をしかめながらそう呟いて、死体を足で蹴っていた。


「この人達、何も持ってないみたいだ。食糧と、僅かな弾薬だけ。あと、ナイフ」


 僕は死体の背負っているバッグを剥ぎ取り、その中身を調べていた。金目になりそうなものは何も入っていない。


「また野宿だな」


 キリは苦笑し、死体を蹴るのをやめた。


「取り敢えず、貰える物は貰っておこうぜ。またいつ教団が襲ってくるか分かったもんじゃない」

「そうだね」


 今回の『捜索隊』は四人。たかが脱走者二人にそこまでの人員は割けないが、それでも野放しには出来ないと判断したんだろう。いつもより倍の戦力をこちらに差し向けてきた。キリの考案した『トラップ』が無ければ、やられて捕まっていた可能性が高い。


「落とし穴なんて単純な仕掛けにここまで引っかかってくれるとはな」

「相手が頭の固い連中だからこそ出来た罠だよ。……けど多分、次は通用しない」

「あぁ、そうだな。また、探さねぇと。効率よくこいつらを殺す方法を」


 キリはそう言って笑いながら、奪い取ったナイフを手で弄んだ。

 僕は奪った品々を鞄に詰めながら、地図を見る。――随分と遠くまで逃げてきたものだと我ながら感心する。あの日は、今日よりも、もっと天気が悪かった。大雨で、雷も鳴っていた。


 僕は時たま混乱する。あの日父を殺したキリと、現在僕と一緒に教団から逃げる生活を送っているキリ。そのふたつが、まるで結びつかないことに。別人、とまではいかないが――まるで違う存在に思えてしまう。

 根拠はない。ただそう思えるというだけ。キリの干渉しないところで、僕はひとりでにそう感じ、勝手に不安になっている。この先何か起きるのじゃないか、という無根拠な怯えを持ってしまう。

 はやく、そんなもの消し去らないといけない。僕を守り、支えてくれるキリ。ひとまずはそれだけが事実なのだから、そんなことを思うのは彼に失礼だ。彼を信じて、前に進むのが、自分の役目。僕に出来る、本当に少ないうちの一つのこと。僕はキリに声をかける。


「キリ。……行こう」

「あぁ」


 そうして僕達は再び行進を始めた。

 さぁ、行こう。歩みを進めよう。夜明け前のうちに。世界がまだ、僕らに優しいうちに。



 普遍教団、通称ノーマライザー。世界中に吹き荒れる戦乱のさなか突如勃興した宗教団体。ある世界宗教の分派の一つを名乗っているが実際は過激なカルト宗教としてしか見られていない。


 『世界を一つに』をスローガンに掲げて、『永遠的』や『普遍的』で無いものを徹底的に攻撃する。

 それだけなら只の怪しい集団で済むのだが、厄介なのは彼らが表向きは身寄りのない子供や困窮する家族を預かり、育てる慈善団体として機能しているということ。

 裏で死を振りまき、表では命を救う。教団はその二律背反を平然と組織の体制として組み込んでいた。

 『我々と一つになりましょう』『死んでいい命など無いのです』。

 そんな言葉を、誰も信じられなくなった孤独な人達に向ける。そして、自分達のシステムの中にじわじわと引き入れ、洗脳する。僕、そしてキリ親子もそうして教団に保護された。


 教団の最終目標はやはりというべきか『不老不死の実現』だった。そしてそれを実現する鍵であると噂されているのが、『ゾーン』という領域だった。『ゾーン』は、世界中に不規則に発生する異常な磁気の吹き溜まりである。そこに入ると、『死を失う』と噂されている。つまり、永遠の生を獲得できるというのだ。根拠はない、只の噂。しかし教団はその噂のためだけに存在する。『ゾーン』に向う、それだけを目的として、日々血みどろの抗争を繰り広げている。


 僕達はそんな教団のやり方に嫌気が差した。洗脳が不十分であったか、それとも本能的に教団の体制を拒絶したか、そのどちらであるかは分からない。僕達は脱走を決めた。キリの父は気付かなかった。

 しかし、失敗した。それから今にかけてについては、また、いずれ。



「今日はどれくらい、歩いたのかな」

「三十五キロメートルだな」

「……そうか」


 脱出した後のことなど、僕達は考えてはいなかった。だから、行くあてなどない。このまま逃避行を続けて、それから……? 分からない。どうすればいいのかと問うてみても、ぬかるんだ地面と曇った空は答えない。


 それに『ゾーン』発生に伴う行方不明者の報告が、全世界でなされているということが、僕らのあてのない旅に影を落としている。何かが、起こりつつあるということ。そしてそれが一体何であるのかまるで分からないということ。その正体不明の不安が、とても遠くにあるようで、凄く近くにあるようにも感じるということ。


 旅に必要な物資は、教団の根回しでどんどん調達が不可能になっている――どのようなものであれ、『外部』からの人間には何も渡すな、宿にも泊めるなというある種の脅迫だ――。だから、山賊を襲ったり、捕縛に来た教団員を殺して食糧や武器を奪い取って、食いつないでいる。これはいつまで続くのだろう。何のために続くのだろう。僕の前を往くキリを見ると、そんなことを言いたくなった。


「ねぇ、キリ」

「どうした、シン」

「僕らは、どこまで行けばいいんだろう。一体どこを目指して歩いているんだろう」

「……そんなもの、はじめから分かっちゃいないだろ。あの時はただ必死だった。逃げようと思ってな。……最初に脱出を持ちかけたのはシン、お前なんだぜ」


 ――ある日、全ての始まりの日。

 僕はキリに『逃げよう』と言った。けれど彼は躊躇った。父親を置いていけない、と言った。僕はまるでその気持が理解できなかった。キリの父は酷い男だったからだ。僕には両親が居なかったが、そんなこと関係ないくらいに、彼の父親は……イカれていた。そうしているうちに僕らは、教団に見つかって、捕まった。一度目の脱出は、こうして失敗した。


 結局、二回目に脱出出来たのは、キリの導きによるものだった。それ以来ずっと、キリには世話になりっぱなしだった。僕は体力もないし、人を殺す度胸もないから。


「……キリには、世話になりっぱなしだ。僕の身勝手を、全部フォローしてくれる」

「気にするなよ。先に進もうぜ」

「どこにさ」

「どこかだよ。誰にも邪魔されない、岩陰かどこか。さっさと寝床見つけて、飯喰って今日は寝ようぜ。……少々、殺し疲れた」

「……やっぱり僕が、もっとちゃんとしていたら」


 そう言った僕の頭に、キリはグリグリと拳を押し付けた。全然力はこもっていない、ただのポーズだが。


「何するんだ」

「だから、そういうのやめろって言ってんだ。俺は全くお前を責めちゃいない」

「けど」

「――お前の無茶が、俺の生きる希望だって言ったらどうする? 笑うか? お前が無茶してくれるから、俺はお前を守ることが出来る。……嬉しいんだ、俺は」


 そう言ってキリは僕の頬に指を這わせた。キリの息が顔にかかる。僕は顔が真っ赤になる。


「……そういうの、やめろよ、キリ」

「分かってるよ。……寝床が見つかってからな」


 キリは蠱惑的に笑った。僕はその声に、顔に、いつもどきりとさせられた。死ぬ寸前の蝉が、最後の歌をうたうような。燃え尽きる寸前の花火が一際激しく閃光を散らすような。キリにはいつも、何やら不思議な危うさのようなものがまとわりついていた。しかしその危うさが、どうしようもなくなまめいて見えるのだ。


 しばらく歩いていると、誰にも見つかりそうにない、ちょうどいい寝床になりそうな岩場を見つけた。ここなら、寝返りをうっても大丈夫そうだ。

 焚き火を焚いて、毛布を適当に並べ、水筒の飲み物を入れようとしたら、キリが僕の肩に顎を乗せ、左手を服の中に這わせてきた。

 コップを落としそうになる。


「急に、やめろよ」

「いいじゃないか。……お前がやりたいってこと、俺が見抜かないわけねぇだろ」


 抵抗する気にもなれず、ずるずると岩の上に押し倒される。

 キリの長い髪が顔にかかる。服を脱がせられる。キリの手が、僕の身体を優しく撫でる。


「もう息、荒くなってる」

「ばか、やろ」


 文句を言おうとした口を、キリの指で塞がれた。

 やはり抵抗できなかった。……というか、全て僕がして欲しいことだった。それはキリの奉仕だった。僕の欲求が高まった時を、キリはすぐに見抜く。そして、こうやって――。

 それはまるで暴力のような、貪るようなものだった。しかしキリはそのすべてを受け止めた。どんなに激しいことをしても、それが分かりきったことであるようにして、黙って僕に『奉仕』した。


 白い衝撃が爆ぜた後、気だるさが僕らの身体を包んだ。

 まどろみの中で、キリの腕に抱かれながら、僕は初めてキリとこんな関係になった日の事を思い出す。


 何故キリはあんな酷い父親のことを気にしていたんだろう。脱出失敗の原因でもあったキリの懊悩を僕は身勝手にも少し責めていたが、その思いは牢獄の外から告げられた言葉で上塗りされた。

 『贖罪の儀式』。

 それが僕とキリの身体を最初につなげたものだった。


「ごめん」

「何が」

「いや……ごめん」

「お前毎回それ言うよな」


 僕のやりたいようにしかやってないからだ。キリを『使って』、愛など欠片もない、ただの奴隷のようにして。


「それと……キリはなんで脱がないの、服」

「趣味じゃないんだよな」

「なんだよそれ」


 教団の教義。恐ろしく明瞭で一本化されたもの。それゆえにどうしようもなく愚かしい。

 教団は同性同士の性交を奨励していた。『性など越えた世界に我々は行くのだから、男女の壁を無くすことなどわけあるまい』などという理屈。


 僕らはそんな『儀式』を強制させられた。

 漆黒の息苦しい部屋の中、松明の明かりと教団の中枢の人間たちの監視を周り全てから浴びながら、僕達は一線を越えた。想像を絶するほどの屈辱と嫌悪感。しかしそれはやがて、投与された薬によって歪んだ快楽に変わった。そしていつの間にか、周囲の目を厭うことなく、僕達は――。


 キリの父は姿を見せなかった。見られていないだけマシ、とも言えたかもしれない。しかし彼が息子であるキリを助けようとしなかったこともまた事実だった。

 まだ誰にも触らせたことのない部分を、親友に触らせた。誰にも見せたことのない姿勢を、親友に見せた。誰にも聞かせたことのない声を、親友に聞かせた。一つ一つ、刻みこむように。ナイフで傷をつけるように。あの時僕達は泣いていたかもしれない。泣きながら、唇を血の出るまで噛みながら、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら、お互いを貪り合っていた。


 つけられた傷が、戻ることはなかった。傷は皮膚の内側にしまい込まれて、もう癒えることはなかった。あの日を境にして僕等は、『親友』でなくなった。

 戻らない日々を上塗りするために僕達は一線を越えたままで居る必要があった。それにもう、身体を重ねることに拒否反応も覚えなくなっていた。心は泣いていたが、身体は元親友を求めていた。

 

 そして逃亡。

 僕達は逃げた。そして、追手を追うためになんでもした。教団が子供を差し向けてきた事もあった。彼は洗脳済みだった。キリは、その小さな身体に何度も銃弾を撃ちこんで殺した。穿たれた穴は蝶のように綺麗だった。汚染されきった空に、二度と羽ばたくことのない蝶。――そんなことをするキリの背中を僕は見ているだけだった。殺し、盗んで、殺し、盗んだ。

 僕は何も出来なかった。全てをキリに任せっきりだった。自分が情けなかった。父親を殺したあの日から、キリの背中はいつも僕の視界にあった。キリは僕を一切責めなかった。でも僕は罵って欲しかった。自分では何にもできないくせに。何の力にもなれていないくせに――と。けどキリは、僕をずっと守ってくれていた。


 何にも出来ない僕の代わりに、なんでもした。

 そうして泣きたい気持ちになった時、キリは僕の身体に手を這わせた。

 それは僕の願望だった。もはや『行為』は、気を紛らす手段となっていた。爛れきっていた。僕は行為に及ぶ時だけ凶暴に自己中心的になった。


 キリは僕がキリにさせたいことを的確に見抜いた。そして僕はキリを『使った』。今回もそうだ。キリの青白い綺麗な肌を、まるで殴り、蹴るようにして、何度も汚した。――僕からキリに何か奉仕することはまるで無かった。


 僕はますます、自分が情けなくなった。――僕は本当に、キリに何も出来ない。

 そんな思いを抱えたまま、今日も僕はキリに『奉仕』させた。

 キリは、ずっと笑顔というわけではなく、時に苦しそうな顔をしたが、それでも文句一つ言わなかった――。



 泥に塗れ、肩で息をつく教団員の女の額に、キリは無言で銃口を突きつけた。

 他の教団員は全滅。全て、罠によって。――正攻法で教団の物量に勝つなど無理な話。掟に縛られた教団員達には絶対出来ないような卑劣な真似をすることでしか勝てない。


「せっかくいい岩場を見つけたのに。結局一晩しか寝られなかった。お前らのせいでな」

「貴方達は……自分のしたことが分かっているの」


 キリは無表情で、僕の近くに倒れている小さな肉の塊を見る。

 また子供の死体だ。この子供をエサにしたのだ。

 子供を殺す時、キリはまた無表情だった。けれど僕は気付いていた。――キリの拳は震えていた。そんな彼に、僕は何もしてあげられない。一応、罠の手伝いはしたが。根本的な彼の助けは、やったことがない。ただの一度だって。


「おいおい。子供を捕まえて洗脳する連中に言われてもな。そいつを棚に上げて俺達を否定するのか? むしろこのガキは俺達に感謝すべきだぜ――人間として死ねた」

「何が言いたい、の……ぐっ!」


 キリは女の額に銃口をさらに押し付けた。肉が抉れるほどに。

 僕はその様子を見ながら、死体を纏めて、片付けていた。丁度いい崖が近くにあるから。……それくらいしか僕には出来ない。キリみたいに啖呵を切ることも、ばんばん人を殺すことも、出来ない。

 キリは『誰だって得意不得意はあるもんだぜ。逆に俺は、お前みたいに計画的なことが出来ない』と言うけれど。

 ……きっとキリは僕が得意なことも得意だ。キリは僕を立てようとしてくれる。けれど僕には分かる。僕は全てにおいてキリに劣っている。キリはそんなそぶりを微塵も見せない。だから、嫉妬することすら出来ない。ただただ自分が惨めなだけなんだ。


 状況が状況なのに、そんなことを考えている自分がまた情けなくなった。目の前のことをまともに見ていない。――今にも、キリがあの女の人を殺そうとしているのに。


「えーっとなんだっけ、あんた達の目標ってのは。永遠の命? だっけ?」

「そうよ……永遠を手に入れて……現世の柵から解き放たれ……神のもとへ……っ。そのために『ゾーン』を……! 貴方達にだって分かるはず。この世は苦しいでしょう。嫌なことが一杯あるでしょう。それから……解き放たれたいとは思わないの」

「するとなんだ……アンタは俺達を哀れんでくれてるってわけか」

「その通りよ。……だからもうこれ以上、こんなことを……教団に戻り――」


 キリは撃った。彼女の掌を。


「あ……あが……ああああっ」

「痛いよな、苦しいよな。そりゃ楽になりたいよなぁ。だからそんな思いをしないで済むように、何も感じずに済むように、人間としての生を超えて、永遠の命を手に入れようと。そういうわけだな?」

「そ、う……よ……だから……お願い……戻ってきて……私はこんなやり方をしたくはなかった……話し合いで、解決するならそのほうが……よかったのに……けど、教団は……ごめんなさい……ごめんなさい」


 女の人の声は悲痛だった。それは本心からだった。だまし討ちなど微塵も考えていないのだろう。本当に哀れを誘うような姿だ。……しかしキリはそんな血まみれの彼女を、無表情で見下ろしている。


「……痛みを忘れちまったら、そいつは生きてるって言えるのか? それは単なる虚無じゃないのか? 何処にも居なくなっちまうんじゃないのか? 知ってるか。世の中には同じものなんて一つとして存在しちゃならない。あんたらの目指してるのはそれだろうよ。あんたらは神様の導きがどうとか言ってるがな、その実神様そのものになろうとしてるんだよ。……とんでもねぇ傲慢だ。反吐が出る」


 吐き捨てるように言う。


「そ、そんなことは……」

「反論できるのか? 出来るなら聞かせてくれよ。出来ねぇんなら続けさせてもらうがよ。――神様ってのは物理的なもんじゃなくて、概念的なモノなんだよな? 世界の何処に行っても、神様は同じ。だから神様は何処にだっている。それでもって何処にも定住はしちゃいない。……人間がそうなろうとしてるんだぜ。笑えるよ」


 そうは言うが、口調も表情も、何もたたえていない。しかしそれがキリの静かな怒りであることは僕にも分かった。背中を見れば、分かる。


「何処にでも居るってことは何処にも居ないってことになる。俺達はそんなのはごめんだ。俺達は此処に居る」

「けど……貴方達の居るその場所が……どれだけ苦しみと悲しみに満ちてるか……っ」

「いいさ。覚悟の上だ。……なぁ、シン」


 それについては同意だった。脱走した事自体には後悔はない。しかし。


「それに……苦しい? 悲しい? 何言ってんだ。周り一面死体だらけ。なんて美しいんだろうな。……此処が楽園だぜ」


 キリはそこで初めて笑った。女の人の顔が更に青ざめる。


「……化け物」

「本音が出たな。……いいさ。ここで思いついたことなんだが、この世の苦しみと悲しみから抜け出す方法。――ひとつはあんたの言うような方法。何処にあるとも知れねぇ、実態も正体もまるで分かっちゃいない『ゾーン』を探して見つけて、そこで色々あって永遠の命を手に入れる。もう一つは――こっちのほうがオススメだ。自分の居場所を確かめることが出来る」

「……まさ、か」


 キリは手で弄んでいた拳銃を、もう一度彼女の額につきつけた。


「その通り。俺はあのガキを殺した。死体として存在させた。つまりだ……」


 あぁ、またキリの手が、血で染まる。

 けど僕は止められない。それが最善だと分かってるから。キリも僕も、暗黙の了解で繋がっているから。


「俺は与えてやる。あんたの居場所を。――だから、死ね」


 銃声。

 女の人は死んだ。

 死体として其処に横たわった。

 僕は覚えている。きっと、キリも。――彼女は、僕と同じように天涯孤独だった。だから僕達と仲が良かった。いつも三人でつるんでいた。……かけがえのない友達だった。しかしもう、そうじゃなくなってしまった。

 僕は彼女のことを決して忘れない。其処に居たことを絶対に。それがせめてもの鎮魂だから。

 

キリが銃をしまう。

 彼女の死体に背を向ける。


「――そっちは終わったか、シン」

「あぁ。湖の中に突き落とした」

「そりゃいい。あそこなら鳥に食い荒らされたりすることもないしな」

「うん。……」

「……どうする、シン」

「……行こう、キリ。何処に向うのか、分からないけど」

「あぁ。……行こう」


 僕は僕にしか分からない不安を抱えたまま、キリの背中についていく。

 そして、どんどん進んでいく。

 目的地などなく、この行為そのものを目的地として。後戻りなど出来ずに。

 この先にあるのは天国なのだろうか。いや、それはない。天国をキリは否定した。

 けど少なくとも、地獄ではないだろう――。



 少し前。


 その日は局地的な雷雨だった。

 僕はキリを探した。

 そうしてキリを見つけた。


「キリ――そんなところに」


 はやく連れ戻さないと、勝手な外出をしたということで、教団に追加の罰を与えられる。それだけは避けたかった。

 だからキリの名を呼んだ。


「――キリっ」


 雷鳴がとどろき、視界が一瞬反転する。

 その一瞬で全てが明確になった。

 キリは背を向けていた。

 手に銃を持っていた。

 キリの少し向こう側に、誰かが倒れ伏している。

 ぬかるみには赤黒いものが混じっている。

 キリは動かない。


「――キリ、君は」

「殺したんだ。……父さんを、この手で。この拳銃で」


 その通りだった。

 倒れていたのはキリの父親だった。胸と頭に、撃たれた穴が開いている。それも一つや二つではなく、無数に。蜂の巣にしたのだ。

 キリの背中は震え一つ起こしていない。


「俺のことなんかどうでもよかったはずなのに、どうして俺を探しに来たんだ、父さん。部下が一杯居たはずなのに、どうして自分で来たんだ。どうして、どうして」

「……キリ、何を……はやくここから逃げないと」

「そんなことして俺に殺されるなら、もっと俺を見て欲しかった。俺を、俺を――」


 僕はキリに駆け寄って今すぐその背中を掴んで、ここから離れるようにすべきだったんだろう。

 けれど、出来なかった。状況を理解して頭が真っ白になっていたというのもあるが、それ以上に、キリと僕の間に、何か見えない壁のようなものがあるように感じたからだ。

 そして再びの雷鳴。視界反転。先ほどの時より強い衝撃。――キリに直接雷が落ちたように見えるほどの。

 目を開ける。

 キリは僕に背を向けたままこう言った。


「――逃げよう、ここから。今度こそ」


 僕は断らなかった。

 キリと一緒に、手を繋いで、二人で教団を完全に抜けだした。

 キリは父親の死体を、一度も振り返らなかった。

 ただの一度も、決して。

 

 暗黒の空が、僕等を見下ろしている。いつもと同じように。



 眠っていたことに気づき、僕は目を覚ました。


「起きたか、シン」

「――うん。外はどうなって――」


 僕は絶句した。

 入り組んだ岩場の隙間に目をやると。

 僕達が教団の部隊に囲まれていることが分かった。


「――まずいよ。どうしよう」

「ついに来たのか、この時が」


 キリはへへっ、と笑った。


「そんなこと言ってる場合じゃないだろ、どうしよう……」


 焦りと恐怖は思考力を減退させた。いわゆる詰み、というやつだ。

 教団の人間はこちらに向かって何か言っている。

 おとなしく出てくれば危害は加えない、などといった内容。


「分かりやすい嘘並べ立てやがって……捕まえてまた『罰』だろ……?へへっ、わかってんだよ」

「逃げるにも、どうすればいいのか……」

「このままじゃ人員さらに増やされて完全包囲だ……こうなったら強行突破しかないだろ」

「けど……」


 怖かったが、やがて、そうするしか無いと考えるようになった。

 生きるためには。 


「――行くぜ、シン。武器ならある」

「――うん」


 そして僕達は、岩場から飛び出した。

 

 教団の連中は撃ってきた。しかしそのどれもが外れた。撃つことにまるで慣れちゃいない。キリのように、人を撃ったことが無かったのだろう。簡単に銃撃の雨をかいくぐることができた。


「――こいつを喰らえ」


 キリは僕の手を引きながら、後方に手榴弾を投げ込んだ。

 そして、爆発。教団の人間は吹き飛んだ。――僕達の食糧や物資と一緒に。


「いける――これなら逃げ切――」


 しかし。

 僕は、視界の端に捉えた。

 塹壕があった。

 その中で、狙撃銃で僕を狙っている者がいる。

 僕は完全に隙を晒していた。


「――しまっ」


 彼は撃った。

 もう、間に合わない。僕はあれに撃ち抜かれて、死――――。


 その時。

 僕の目の前を覆ったのは。

 キリの背中だった。


 長く、深い銃声。

 キリは撃ち抜かれた。狙撃銃に。僕の、代わりに。

 キリは足をもつれさせる。そしてよろめく。

 向こう側で、頭を撃たれて死んでいる狙撃手が見える。

 キリがやったのだ。自分が撃たれるのと、同時に。


「――キリ、キリ」

「……はやく、逃げ――」

「キリ、キリ……キリっ」


 無我夢中だった。

 口から血を吐き、腹から血を流しながらブツブツと何かを言い痙攣するキリ。だが完全に倒れることなく、人形のようなか細さで足を前に進める。

 僕はキリを肩に担いで、何も考えずに、逃げた。とにかく逃げた。

 もう教団は、追って来なかった。

 二人共死んだと思っているのだろう。

 ――実際僕は死ぬところだったのを、キリに助けられた。

 僕はまたキリに救われた。僕はキリに何も出来ていないのに。

 黒檀の空から、雨が突き刺さる。

 キリの血は、止まらない。


 包帯を腹に巻いたが、そこから赤黒い液体が染み出し、伝い、雨に混ざり、流れ落ちる。

 キリは虚ろな目で口を開け、ぶるぶると震えながら、どろりとした血を吐く。それは時折僕の頬にあたる。

それ自体が生き物であるかと思えるほど、温かい。――キリの青白い肌とは対照的に。

 キリは口の端から糸のように血を垂らしながら、笑みを作った。


「――よか、った、シン、生きてんだ、な……」


 喘ぎながら、おそろしく小さな声で言う。油断すれば雨の音にかき消されるくらいの。


「僕のことはいい……キリ、待ってて……大丈夫だから……大丈夫だから」


 手が震えて、キリの包帯を固定するのに手間取る。

 焦りで、どんどん手元が狂っていく。途中何度も、腹の傷に触れて、どきりとさせられた。

 なんて温かいんだ。脈動している。


「僕のせいだ――僕のせいだ」


 僕のせいだ、僕のせいだ。


「僕がちゃんと逃げていれば……キリはこうならなかった――」


 キリは小声で何か言っていたようだが、僕は気付いていなかった。

 雨がなるべくキリの身体に当たらないようにはしているが、さして効果はなかった。

 雨はキリの真下の地面に血の河を作る。


「いつもそうだ……いつも僕のせいで、キリが」


 いつもキリの背中は僕を守ってくれていた。僕が何も出来ないせいで。僕が何一つ行動できないせいで。

 その背中が血で染まった。僕なんかをかばったせいで。僕のせいで。僕が居たせいで。


「シン、守れて、よかっ……」

「なんで……なんでそんなことを……僕のために……僕のせいで、キリがこんな、こんな」


 僕とキリが出会わなければこんなことにはなっていなかった。

 僕という存在がなければ――。


「いつも僕は――僕はっ。こんな、こんなことにキリがなるのなら」


 そして僕は、こう言ったんだ。心の奥底から。


「――僕なんて、居なくなってしまえばいいのに」


 雷鳴が轟いて、僕の視界を白く染めたのはその時だった。

 その一瞬で、全てが変わった。

 雷鳴は続いた。

 それは僕に近づいてきた。

 僕を飲み込もうとしているようだった。

 世界は音と光だけになった。

 そして僕は――その閃光を、両手を広げて迎え入れようとしていた。

 雷雨の中心へ、僕は入っていく――全てを受け入れようと。

 しかし。


「――やめろよ、『俺』」


 キリの声。

 聞いたこともないような、金属のような冷たい声。死にかけていたとは思えぬような声。

 キリの背中が見えた。

 キリは立っていた。僕の目の前に。あの日の状態そのままで。

 雷はやんでいた。

 というより――キリに、せき止められているかのようだった。


「――キリ……?」


 傷だらけのままで、立っている。呼吸すらままならなかった男が、立っている。

 明らかに異常だった。目の前に佇んでいる『これ』は――本当にキリなのか?

 全ての環境音が消し飛ぶ。雨の音さえも。

 そして目の前の男は――キリであるはずであった男は――僕に、振り向いた。


「たまには背中以外も見て欲しかったぜ、こうやって。まぁ責めちゃいないぜ、ほら。俺の顔をよく見ろよ」


 『それ』は、笑った。


「――気付いたか? そうだ、俺が『ゾーン』だ」



「何を言って……」


 何もかもが分からなくなって、僕は口をつぐんだ。

 自分のことを『ゾーン』と語った傷だらけの男は静寂の音が支配する暗雲の下で言葉をつなげた。


「正確には――さっきお前の目の前で起きた放電現象が、ゾーンで……俺はそれに『なっていた』。それで、放電現象はひとまず消えた。間一髪だ、危なかった。間に合わなかったら、お前、消えてなくなってたからな。――シン、『ゾーン』出現の噂が立つ度に行方不明者が出てたっていうのは、知ってるよな」


 それは当たり前だった。原因などまるで分からなかったが。


「――実はあいつら、消えちまったんだ。『ゾーン』に同化されることでな」


 消える。――つまり、居なくなる。何処にも存在が無くなるということ。


「……わけが、分からない。何が、どうなったって、言うんだよ……キ――」

「その名前では呼んでくれるなよな。幸せすぎて、辛いぜ」


 彼は続ける。僕が少しでも理解できるように、ゆっくりと話す。


「とはいえ、だ。何も『ゾーン』は無作為に人を同化してるわけじゃないんだ。『資格』のある人間だけを探り、そいつを、自身の中に迎え入れるのさ」

「――資格」

「そうだ。その資格っていうのは人の感情だ。マイナスの感情だ。――自分の存在に確信が持てなくなり、それが感情として噴出した時に、『ゾーン』は彼らを同化する。つまり……『自分なんて消えてしまえばいい』『此処から居なくなってしまえばいい』って思った人間の願いを、叶えてやるんだ」


 まさか。

 僕は。


「そうだ。お前は『居なくなればいいのに』って思った。此処に居ることを拒んだ。単一の存在としての生を手放そうとした。――もう少しでお前、願い、叶えられてたんだぜ」


 心臓の鼓動が異常なまでに激しくなり、息をするのも大変になってきた。

 ――目の前の存在と対照的に。


「な、んだよそれ……何なんだよ、『ゾーン』って……」


 目の前の存在は再び口を歪めた。それは『笑顔』だった。そして言った。


「俺にもよく分からないが――まぁ、この『世界』そのものだ。何処にでもあって、何処にでも無いもの。それが『ゾーン』。同時発生なんてことがあったりしたのも、それのせいだ。道端に落ちてる石ころくらいに、人の心の中に当たり前のようにあるもんなのさ、『ゾーン』は」 

「わけがわからない……なんなんだよ…………さっきまで死にかけてたのに……なんなんだよ……」


 僕は膝から崩れ落ちた。


「なんなんだよ……どうなっちゃったんだよ……君は」


 そしてもう一度そう言った。


 やがて僕は気付いた。そこまで行くのに、長い時間を要したが。

 多分彼も、僕が気付いたことを察したのだろう。黙っていた。


 キリは父親を殺した日に、既に『ゾーン』と遭遇していたんだ。

 だって、あの日は酷い雷雨だったから。


「――君は」

「そうだ。その通りだ。――言うのは恥ずかしすぎるけどな。だがまぁ、言うぜ」


 そうして彼は、長く、語りはじめた。その口調は一種の音楽のように、穏やかだった。内容とは不釣り合いな。


「俺は――親父が嫌いだった。何もしてくれなかったからな。脱走に失敗して捕まえられて――あんなことをさせられたあの時だって、まるで無視してたじゃないか。酷い奴だ。――――けどそれでも、憎むまではいかなかった。血の宿命ってやつなのかね。本当は、俺は求めてたんだ。親父の愛情ってやつをさ。ありもしないもんを。――だから。だから俺は、親父に、助けて欲しかった。親父に、何か言葉をかけて欲しかった。けど親父は――親父をやってくれなかった。俺は親父を撃った。親父は一言俺の名前を言って、死んだ。そうして俺は親父を失った。永遠に――永遠に」


 キリには――母親が居なかった。キリの父が、どこかおかしくなっていたのも、今思えばそのせいだったかもしれない。しかしそんなことを思った所でキリの父が息を吹き返すわけではなかった。


「俺は親を殺した。この手で。――そう思うとな、ふと、『タガ』みたいなもんが、心の中で外れる音がした。このくそったれな世界と自分を繋ぎ止めていたもんを、自分でぶち壊したんだから。――そうして、お前と同じように願った。『自分なんて消えちまえばいい』って。そうしたら――あの夜」


 あの夜のことを思い出す。

 キリの背中が見える。

 雨の中、雷鳴が二、三回轟いて、キリの姿が消え、現れを繰り返した――。


「『ゾーン』に出会った。『ゾーン』は、綺麗な光だった。俺に優しく手を差し伸べてくれた。死んだ母さんみたいに。――ゾーンは俺に言った。『私と一つになりましょう、そして、喜びと悲しみもない世界へ』って。――俺は『ゾーン』の誘惑に屈した。そして『ゾーン』と同化して、世界と一つになった。今まで消えていった人間の全てが俺の中に流れ込んできた。それが世界だった。すごい感覚だったぜ」


 おどけたように彼は言うが、何か肌寒いものを僕は感じた。

 そしてそれは、混乱と絶望の中で、漠然とした一つの疑問になった。

 唇を震わせながら、なんとかそれを口に出してみる。


「じゃあ君はなんで、居なくならなかったんだ。どうして此処に居るんだ。キリとして。――まだ僕は何も分かっちゃいない。説明されても全然意味が分からない。けれど、それだけは知りたいんだ」


 そう言うと彼は――まるで奇妙な、今まで見たことのないような。

 人間がするようなものではない表情を――浮かべた。

 顔を歪めて、口から奇妙な声を出した。亀裂のように。

 そして彼は――いや、彼らは、言った。


「『キリ』は――シンをとても大切に思ってたのさ。それは『俺達』でも制御できないほどの、異常なまでの執念だった。たかだか20前後の野郎が背負えるレベルじゃねぇほどの、莫大な執念だった。他の人間なら発狂するくらいのな。それが、俺達――『世界』に、ひとつの分岐を創りだした。――それが、今お前の目の前にある、かつてキリって呼ばれた人間の姿。つまり――『俺』だ」


 ――では。

 いや、そんなことが。でも、そうなのだろう。――天と地がひっくり返る感覚を味わいながら、僕は問うた。


「じゃあ、君は――あの日からずっと、キリじゃなかったっていうのか。ずっと、キリのふりをしてたっていうのか。僕を騙して――」

「それは当たってるようで少し違うぜ。『俺』は『俺達』の意思と切り離されたところで、同時に意識を働かせていた。『俺達』が創りだした世界の動きを、『俺』がかき回していたんだ。その『俺』っていうのはお前の考える『俺』とみてもらって間違いじゃない」

「なんで――なんでそんなことを」

「だから言ってるだろ。お前のことが大切だからって」


 僕はキリに、迷惑しかかけてないのに。キリの人生を、歪めて、挙句こんなふうにしてしまったのは、全部僕のせいなのに。どうして――。

 雨が強くなる。

 僕は彼のところに歩み寄る。そして胸ぐらを掴み、そのままずるずると倒れこむ。


「どうして」

「――片目で世界を、もう片方の目でお前を見てた。悔いはねぇさ、微塵も」


 僕は泣こうとした。

 しかし、泣けなかった。

 雨の中、『キリの身体』にあるものに、釘付けになったから。

 僕が胸ぐらを掴んだから、服が少しはだけて、見えてしまった。


「……ぁ……ああ……っ」

「――おいおいどうした、そんな顔しちまってさ」

「だって――だって、『キリ』……その……その傷は」


 彼は諦めたように苦笑しながら、上半身の服を脱いだ。


 そこにはおびただしい傷があった。血がまるで河のように流れ、紋章のようになっていた。

 肉がえぐれ、骨が見えていた。

 血が滴り、僕の掌の上に落ちた。温かい、血。――キリの血。

 それは――世界の傷だった。


「世界そのものになって、しかもこうして実体を持って現れちまったんだ、当然のことだ」


 その傷は世界そのものが受けていた傷そのものだった。

 人が命を失うたび。建物が崩壊するたび。世界が悲鳴を上げるたび。

 傷は彼の身体に刻まれたということ。


「それは――自分で、やったのか」

「半分程はな。まぁ、死にはしない」


 死なないんじゃなくて、『死ねない』んだろう。――世界が死ぬまでは。

 彼は両腕で、自分の体をぎゅっと抱きしめた。

 細い、骨のような肉体。

 抱きしめる度に血が滲み、雨と一緒に地面に流れ落ちた。

 あぁ、その雨すらも、世界の一部。――彼の、一部。


「どうして、なんて言ってくれるなよ。――これから全部説明してやる、お前のために」


 彼は語りはじめた。それは長い長い、彼の旅路だった。


「俺は――まだ俺が俺達になったばかりの頃だ――ある力を手に入れた。そいつは他の俺も持ってるものだった」

「――力」

「見えるようになったんだよ、未来が。――数秒後の未来も、数億年後の未来も。物理的な世界じゃなくて、概念としての世界になったからかもしれない。それで俺は――知ってしまった」


 彼はそこで少し声を低くした。中々に芝居じみていた。


「――お前がいつ死ぬかを、完全に知った。というより、その事実を、手に入れてしまった」

「僕が、いつ死ぬか――」

「ちょっとショッキングかもしれないが、それでも、いいか」


 ――何を今更。

 断りはしなかった。

 彼は続けた。


「お前はある日、教団の連中に殺された。そのビジョンが、はっきりと視えた」


 教団に。――ある程度予想はしていた答だったが。


「そして俺達の中の俺――まだ一瞬だけかいま見えただけだった俺は、俺という分岐として確定された。――お前を守ろうと、思った。死なせない様にしようと思った。自分なんて、どうでもいい、ただ、お前をそんな死から救いたかった。ちょっとセンチメンタルかもしれないが、そう思ったから、俺達は――俺を創りだしたんだ。――とまぁこれが、今の状態のタネ明かしだ」

「ふざけて――」

「ふざけてなんかいない。俺はいつでも大真面目だ。もっとも俺達はそんな俺を許さないがな。全く何考えてんだ。正気の沙汰じゃない。わけわかんねぇ奴だな、俺。ざまぁみろ、俺達。ふざけんな、俺。運が良かった、感謝してるぜ、俺達」


 彼の言葉を聞いて僕は思った。

 ――もう人間じゃない。僕の知っているキリはもういない。


「そこからが大変だった。俺達は俺達を制御出来るわけじゃない。人間式で言うなら、俺達は俺達から離れて一人暮らしを始めた子供みたいなもんだからな。だが俺は――お前を生かすために、俺達の理を変えようとしやがったんだ。――そいつは本当に、まるで手段を選んでなかった。子供だって平気で殺したし、昔の知り合いにだって容赦しなかった。通りすがりの街を何回も襲いまくったのだって、そうだ。お前の目の前で、俺は俺として分岐しておきながら、俺の全てを滅して行動していた」


 今目の前で喋っているのが、キリなのか世界なのか、分からなくなった。――きっと両方なのだ。だから混乱する。


「その度にこうやって傷がついた。本来つけなくていい傷までつけた。――流石に痛すぎた時は、手が震えたぜ」


 ――あの時子供を撃った時も。『彼女』を撃った時も。

 彼は手が震えていた。

 ――それは別に、彼らを撃ったという事実に戦慄したわけではなかったのだ。

 彼らが襲ってきたという事実も世界だったから、それを、つまり自分を傷つけたから、その痛みに震えていただけなのだ。――本当に、感情なんてどうでもよかったんだ。自分の喜怒哀楽なんて。


 彼は本当に、僕以外、全てが、どうでもよかったんだ。

 遅効性の諦観が身体に染み渡った時、僕はいつしか、彼の言うことをただ聞いているだけになった。

 もうすべてが、終わってしまった。

 雨がやんだ。


「ここからが肝心なんだが……俺は俺達がお前を殺そうとするのをどうやったら止められるか、必死に考えた。まぁ人間的に言うなら、自分の右手が殴ってくるのを自分の左手で止める方法を探ってた。――そうしたらさ、とんでもなく荒っぽい方法しか見つからなかった」

「――『ゾーン』の召喚」

「――そうだ。俺達は自分のアイデンティティが揺らいだ人間しか俺達にしようと思わない。お前はそのまま、希望もないが、しかし深い絶望も持たないまま、漠然と生きて、漠然と殺される。それが本来の運命だった。けど、『殺される』状態だけは何があっても避けたい、って俺は思った。だから、お前が絶望して『自分なんて居なくなればいい』と思うように仕向けた。――そうすれば、ひどい博打だが『ゾーンと同化する』もしくは『俺がお前を救う』その二択に固定される。……少なくともお前が『死ぬ』ことは無くなる。俺は、そう思って、そうやった。俺達は俺に欺かれた。取り込めると思ってたのにな、余計なことしやがって、俺。そういう、ことだ」

「……そのために、撃たれたのか。自分で自分を、撃ったってことか」

「……あぁ。全部、自分でやった」

「……酷いやつだ、君は」

「……ごめん」

「いいよ、もう」

「……ごめん」

「いいって」


 僕は別に、自分がキリ自身によって絶望したり、自分の情けなさを再認識させられたことに関して怒りを覚えているわけではなかった。そんな次元はもう過ぎていた。……ただ、キリはもう居ない。キリ自身が、殺してしまった。その冷たい事実が、僕の後頭部に、重く、のしかかっていた。


「俺達に同化だけはさせたくなかったんだ、お前を。……じゃないとお前は、空の上から、俺達に笑われる。そんなの、ふざけてる」


 キリは――空に向かって吠えたんだ。

 それがたとえ、自分に向けられているものであっても。


「じゃあ。……じゃあなんで、君は……その……」

「お前の欲求を受け入れたかって?」

「そうだ。無茶苦茶ばかり言ったのに。何度も何度も、荒っぽいことをしたのに」


 僕に虐げられるようにして、『奉仕』をしたキリの姿は網膜に焼き付いている。僕の欲求を見ぬいて、その度に、キリは僕に――。

 キリはとても美しく、とても淫らだった。

 もうそんなことを思い出した所で、心が痛むだけだった。


「俺は俺として俺達の中の分岐として、独自に動き回れた。けれど所詮は俺も俺達に過ぎない。出来る事も限界がある。……完全に『キリ』なわけじゃない。だから、俺は……」


 彼は僕の目の前に立ち、僕に向かって手を伸ばした。

 そしてそれを背中に回そうとした。

 しかし――そうはしなかった。

 彼はまた、一歩下がった。

 僕は無性に泣きたくなったが、こらえた。


「『実感』が欲しかった。俺が俺だって言い張れる実感が。無駄なあがきでも、せめてもの祈りが欲しかった。――俺は、お前に進んで抱かれた。肉体の接触が欲しかったんだ。……だから、どんな欲求でも、喜んで受け入れられた。本当に、嬉しかったんだぜ俺は。やせ我慢なんて、微塵もしちゃいなかった」


 そんな言い分だから、僕は余計に君を――。

 けどその思いに、彼が何か反応を寄越すことはないだろう。

 どうしようもなく利他的だということが、どうしようもなく利己的であるということにだけは、今や全能となった彼でも気付かない。絶対に。

 だけど、僕はそんな君に。

 

 数カ月ぶりに、空が完全に、晴れた。

 彼の演出なのだろう。

 空が変化したように、僕も。

 変わることにした。それはいささか唐突だったが、これ以上無いように当たり前だった。

 今までの僕を形成していたものの全てが剥がれ落ち、雨とともに気化していく。彼によって。


   ◇

「俺はお前に何か頼むなんてことはしない。けど――もう、わかってるよな、シン」

「あぁ。……分かってるよ」


 今までの話を聞いて、僕は全てを知り、全てを決めた。

 僕は、変わる。彼によって。それはとても素晴らしい喜びだ。それはとても大切な罪滅ぼしだ。僕から、僕の一番大切な人への。これをやり切るまでは、死ぬことなど到底出来ない。これは恩返しなのだ。絶対にやりきらなければならない。いつかは死ぬ。しかしその時までは、何があっても――。


「絶望なんてしないさ。君のおかげだ。――僕は生きるよ、これからも」 

「押し付けるつもりは、無いんだぜ。お前が決めることだからな」

「いいさ。――生きるよ」


 そう聞いた彼は。

 ある表情を作った。それは先ほどと同じように、口を奇妙に曲げて創りだされたものだった。

 晴れ渡る空の下で、僕は知った。

 それは笑顔だったのだと。

 誰の? ――キリのだ。

 

 キリが、其処に居た。

 紛れも無い、キリそのものが。

 キリが、帰ってきた。5年ぶりに。


「――キリ。キリっ」

「……その名前で呼ぶなって、言ったろ」

「――だって、キリが、キリが」

「泣くなよ。……けど、そうだ。俺は今帰ってきた。此処に」

「キリ…………」


 僕はキリに近づいた。

 キリは僕を抱きしめてくれた。

 細く、白い、硬い。女の肌のようになめらかな感触。紛れも無いキリの身体だった。


「ガキじゃないんだから。――――ただいま、シン」


 僕の頭を撫でながら、キリは言った。


「うん……うん、おかえり、キリ」


 キリの服は僕の涙でぐしゃぐしゃになった。けどそんなことお構いなしに、僕達は抱擁を続けた。


 キリは抱擁をそっと解いた。


「……キリ?」

「お迎えの、時間さ」

「……」


 それは、キリが『キリ達』に戻る時だった。


「流石にやんちゃしすぎた。……俺達が、伸ばした芽を引っ込めにきた」

「……別れの時間なのか」

「そういうことだ。……でも、このままだと、俺達はお前を取り込もうとする。こうして俺達がお前の前に居るんだからな。こんな絶好の機会、逃すわけない。……けど、『俺』はそんなことさせる気はない。……だから」

「……」

「唇を、くれ」


 それは最初で最後の、キリからの願いだった。

 僕は聞き入れた。

 

 キリの薄い唇に、僕の唇を合わせた。

 キスは初めてだった。

 場所とタイミングを合わせるのに苦労した。

 目をつぶる。

 温かい粘り気が、唇に当たった。

 それはキリの血だった。

 僕はキリの身体の心臓の部分に、深々とナイフを突き刺していた。

 僕はキリの血を飲んだ。

 舌など入れなくても、それだけで十分だった。

 

 長い長い、キスの時間が終わった。

 唇を離した時、赤色の混じった唾液が糸を引いた。

 キリは死んだ。

 少なくとも、僕と『彼』にとっては。


 温かい血の感触が、口と手に残ったままだった。

 それを拭かずに、空を見上げる。

 曇り空が、向こうからやって来るようだった。


 僕はそれに向かって、吠えた。

 きっと無駄な遠吠えにすぎないだろう。


 僕がキリを殺せたように見えたのも、結局は『ゾーン』の分岐が用意した気休めなのだから。児戯なのだから。僕が手を下さなくてもこうなっていただろうから。『ゾーン』は再び僕を取り込もうとしたが、やめた。表向きは、たったそれだけの事実。五年前からずっと今まで、世界から見て、キリなんて存在は居なかった。


 それでも僕は吠えた。

 今までそんなことをやったことがなかったから、少し喉が痛くなった。

 けど、その痛いのが、嬉しかった。

 そうして僕は、世界から隔絶されて、今までの僕でも、世界でもなくなった。


   ◇


 今僕は、海辺にある、小さいけれど綺麗な廃屋でこれを書いている。いい書斎が残っていたので使わせてもらっているという次第だ。家主は死んでいるだろうが、感謝を捧げたい。


 『ゾーン』の活動は止まることはなく、一体それの最終目的が何なのかは僕にも分からない。多分『ゾーン』自身にも。けれど、キリが、憎みつつも愛を向けていた父のことを、殺した。そして世界は世界を産み出し、その独り立ちを見守る。その2つの事実から、何かを導き出せる気がした。


 そして教団については、僕から語ることはもう殆ど無い。

 世界の中で教団は、過去も未来も、憎しみも怒りも越えた所で、キリ達によって全てを見つめられていた。

 だから教団は既に、その大義を、叶えていたんだ。

 それは朝日が昇って夕日が沈むように当たり前に起きる、普遍性であり不変性だった。


 けれど僕はそれを知った状態のまま死ぬことが出来る。

 それは本当に嬉しいことだった。

 僕というある種の特異点。それは世界でも一番激しいところかもしれない。けれど僕にとっては、世界で最も優しい場所なんだ。

 もうすぐ教団の人間が僕を見つけて殺しに来るだろう。

 その時までなるべく長く、この優しい世界が続くことを僕は期待する。


 僕は、この手紙を書くことそのものが、世界から隔絶された場所から投げ込まれる何かとなって、誰かに読まれることなどは、微塵も期待していない。そのまま読まれずに、この手紙の価値が僕の存在証明だけに終始することを願う。


 僕のような存在は僕だけでいい。真実を知ってしまうことが幸福とは限らない。静かな、代わり映えのしない、海のように満引きもなく、埋め立てられることもなく、時に雨を降らし、時に雷を起こしたりしても、存在として広がり続けている――そんな、空に抱かれて眠るのが一番幸福であるということを僕は知っているから。


 ここまで書いたあと、僕はペンを置いて、風に当たるために、頬杖をつくことにする。

 カーテンがそよぎ、涼しさが顔すべてに広がる。

 あとでこの手紙を、とびきり綺麗な藍色のガラス瓶に入れて、海に投げ込もうと思う。

 手紙は海中に沈み、ふやけ、砕け、やがて消えてなくなるだろう。――それがいい。


 目を閉じて、また、風を楽しむ。



 やがて僕は、僕の中に、確かなキリの鼓動を感じる。

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僕とキリと、セカイのそこで。 緑茶 @wangd1

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