22『Nutrico et extinguo』

ずるくねぇか、このワンノート」

 目前まで迫りくる虎狼狸の足。腹部を、蹴り上げられた。自分の声かと疑うほどに、情けない苦鳴が漏れた。

「八百八狸が俺に命じたのは、煙野郎の抹消だった。番号すら与えられてねぇ下っ端どもとつるんでな。だが、俺はもうあんな連中が、刑部ぎょうぶじゃねぇ、狸ですらねぇ、あんなペテン師どもが牛耳る残党での成り上がりなんざに興味なんてねぇんだよ」

 ──ペテン師ども?

 蹴られる。蹴られる。ネイルガンが手を離れた。どこかへいってしまった。涙で視界がにじむ。

「だから、あの女の誘いに、てめぇを殺す誘いに乗った。あの女の言葉を借りるとすりゃあ志ってモンに従ったのさ。気になるだろう? その女が誰なのか? だが、教えてやらねぇ。それは、とっておきだからな。知ったら、お前は既来界こっちで誰一人信じられなくなる」

 蹴られる。蹴られる。はらから胸にかけてうねるような気配。嘔吐した。耳障りな哄笑こうしょうが聞こえる。足で、仰向けにされた。


 また──


 言葉が、一音一音が。意味あるものとして、頭に入ってこない。

「一つ優しい言葉をかけてやるよ。何の罪もない義妹が自分のせいでおっんだと思ってるようだが、案外てめぇは悪くないんだぜ」

 ささめは、ねぇ──と掠れた声を絞り出す。

「今、私すっごくビビってるわ」

 虎狼狸が、リボルバーを使う気配はまだない。武器のない今、考えなしに奥歯へ仕込んだ気つけ薬セイバーを使えば、すぐさま頭に風穴が開くだろう。きっと──楽しくて仕方がないのだ。まだまだいたぶり足りないのだ。ヒトの痛みや苦しみは、ギノーの糧になるのだから。

 そう、ギノーの糧に。

 この苦痛を、この屈辱を、この恐怖を。

 今目の前にいる虎狼狸よりも、糧として堪能しているのは誰なのか。


「だって、超絶おっかないのが来てるから」


 虎狼狸の顔から、笑みが消失した。

 慌てたように、リボルバーのトリガーに指をかけて。

 その腕が、曲がらないはずの方向に曲がった。鞘で肘を打ち砕かれたのだ。

 抜刀のが閃く。

 虎狼狸の全身が、緋色の霧をまとった。ヒヒイロゴケで組成された躰に毛穴と呼ぶべきものが存在するのであれば、その穴という穴からヒヒイロゴケが噴霧していた。散布する命そのものに、文字通りの抜け殻を踊らせながら──。

 虎狼狸は倒れ、崩れた。


 ワンノート〈清福せいふくの折〉──シャロが刀を鞘から抜いたその瞬間、敵に訪れる末路。


 シャロが、ささめの傍まで来て屈んだ。手には、一振りの太刀を持っている。もうコクーン体ではない。ささめから吸収した負力によって本来の姿を取り戻したのだ。

「怖い思いをさせたようだ」

「──ちっとも笑えないんだけど」

 吐瀉としゃ物で汚れた口元を手の甲で拭い、それでも何とか笑みをつくってみせるささめの耳へ。

 幽かに、届いたのは。

 携帯端末の着信音だった。

                ※

 さっきまで虎狼狸だったコケまり。音は、そこから鳴っている。手を伸ばし、探り当てた。『エイリアン』のギーガーがデザインしたようなスマホには、赤いトカゲのエンブレムが表示されている。

 シャロに目をやった。何も言わないし、何を考えているのかもわからない。表情かおが──読めない。

 エンブレムにゆっくりと親指を乗せて、そっと離す。耳に近付けると、繋がっている気配があった。間違っても声は出さない。これが機能的には普通のスマホだったら、虎狼狸ギノーの声は拾えないはずだ。そう、コイツは会話をするためのツールじゃなくて、虎狼狸のいうあの女とやらが一方的に指示を送るツールとして使っていた可能性がある。


「誓いの言葉を」


 ──は?

 危うく声を出すところだった。内容に意表を突かれただけじゃない。スマホから聞こえてきた声は、機械のように平坦で、発音がキレイで。どこかあどけない感じの残る──女の子の声だったから。


 これが、


 女の子が、小さく息を吸った。

「我は育み我は滅ぼす」

 これは──。

「灼熱の炎に育まれしサラマンドラよ。されど鍛冶の神ヴルカヌスは汝の威嚇を怖れず、業火の如き火焔をものともせず、金青石きんせいせきもまた常夜の闇の炎より生ずる。汝は炎に育まれ炎を喰らいつつ現出す」

 女の子は、そこまで淀みなく言い終えると、

「誓いの言葉を」

 繰り返した。一度目のそれとまるでたがわぬトーンで。

 心の中で──舌打ちをする。アクセントに特徴はないし、環境音も聞こえない。シャロを見た。誓いの言葉とやらは外国の詩みたいだった。物知りなコイツなら続く言葉を知っているかもしれない。女の子が、もう一度リピートすることを祈りながら、音声出力をスピーカーに切り替えようとして──。


「あなたを──同じ志を持たざる者と認識します」


 ──あの女の言葉を借りるとすりゃあ志ってモンに従ったのさ。

 頭の中に響いたのは、ギターの弦を弾いたような音。


 、私はネイルガンを自分の右眼に向けた。


 眼球を貫いた釘は、眼窩がんかを抜けて、脳へと達して──。

 右手に衝撃。はっと我に返ったときには、もうネイルガンはなくて。シャロが、鞘ではたき落としてくれたのだとわかった。

「私」

 今、何を──。

 言葉より先に、手からスマホが消える。代わりに煙草のパッケージがあって、スマホはシャロの手に渡っていた。〈揺蕩ようとうの折〉による物々交換。容易く握り潰されるスマホ。いや、スマホの方から原型を崩したのか? シャロの指の間からぞろぞろと出てくるのは。


 むし


 銀色に鈍く光るウロコめいたもので覆われた、十数匹のオオムカデ。

「シャロ!」

 アイツの手に群がって、多分──みついている。多分と頭につけたのは、当のシャロが全くと言っていいほど動じてないから。淡々と握り潰し、地面に落ちれば淡々と踏み潰す。手袋と靴が青い体液によってけがされてゆく。

 私の足許にも、残党が数匹群がりつつある。掌をかざした。〈水火の折〉で絡めとった。オオムカデたちが、激しく全身をよじっている。確かに──煙によって阻まれては、いる。いるけど、遅くなっているようには見えない。時間干渉を受けているようには見えない。〈水火の折〉が──効いてない? 煙を押し分け、じわじわと這い寄る銀色が。

 シャロの靴の下に消えた。トドメとばかりに踏みにじられた。

 見上げるアイツの表情かおは、やっぱり読めない。読ませないようにしてるのかもしれない。

 けど、何かに怯えているような──。

 白い手袋にできた虫食いからは、ぽつぽつと黒い煙が漏れ出ていた。

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