19『死神』

 足許には、さっきまで風梨華だった苔がある。

 手の甲に印されたエンボスを見た。牌九パイガオの梅花牌──そっとそれを撫でてから、目を閉じる。通話機能はすでに復旧していた。


「ボス。今から会いに行って良いかな」


 テレパシーに肉声は要らない。それでも、言葉にせずにはいられなかった。

 と、頬を静電気が跳ねる。

 どうして、このタイミングで──。

 手の甲が、弾けた。エンボスのあった表皮が、血煙と共に消え失せた。続く撃発音に、落ちていた花傘が弾き飛ばされる。

 入口に、こちらへ向かって手を伸ばす、ガスマスクがいた。手許が煙を立てていることから察するに、そこから何かを撃ち出したのだろう。

 ラバースーツによって強調される、骨ばった幼い体躯たいく。腰には、双頭の蛇をかたどった銀のバックル。


 ──ゴーレム・マーズ。


 意図せず知識に、ココは眉根を寄せる。

 ゴーレム? エンボスのセンサーは、確かに負力をキャッチしている。が、この至近距離にしては微弱過ぎる。ギノーではないのか──これは。


 視界が、黒い拳で埋まった。


 首を捻るタイミングを合わせ、頬の上を滑らせるように、回避。肩から懐に飛び込むや、鳩尾を肘で突き上げる。

 僅かに浮いた小さな躰を、すかさず背負い落とす。脳天からの垂直落下。鈍い音がした。ココの目に映っているのは──。

 逆さ向きの古めかしいガスマスク。レンズの向こうに、覗いているのは。

「え」

 ヘッドスピン──大きく広かれた脚が旋回。側頭部を薙ぎ払われる寸前、身を低くする。ガスマスクを視界から外した、ほんの一瞬。

 腕に、痛みが走った。いつの間にか、背後から腕を極められていた。

 空間転移ではない。純粋に、速いだけだ。漂うヒヒイロゴケを追えば、ガスマスクの動きが判る。ジャンプして、天井を蹴った反動で、自分の背後に回って、腕を取った。それだけである。


 指を──握り込まれている。


 壁に叩き付けられた。空いた手をクッション代わりにして、顔面が潰れる事態を避ける。引っ張られるタイミングに合わせて、前宙。片足でガスマスクの腹部を蹴り上げ、強引に極めを解いだ。

 眉間に急迫する爪先。ココは、未だ左踵の上に腰を下ろした体勢。だが、その体勢のまま闘う術なら──。


 すでに、体得している。


 首を倒して蹴りを躱しつつ、伸び切った脚に腕を絡めて、背負い投げる。

 顔面から叩きつけた。大して効いていないことはわかっている。だから。

 取った脚の、膝裏を自分の膝で押さえて、足首をねじ折る。

 背中へ馬乗りになった。後頭部に掌打を一発。頭蓋を砕いた手応え。だが、陥没かんぼつは一瞬にして元通りになってしまう。

 一心に、不乱に、打ち下ろす。なのに。


 死なない。


 背中に衝撃。エビ反りで蹴られたのか。足首は──再生したのか。

 転がった先で花傘を拾うや、水平に構えたそれで手刀を迎え討つ。刃先と腕がぶつかり合った。そのとき、ココの踵はすでにガスマスクの膝を捉えていて──。

 振りかぶりなしで腕を切断。同時に、膝の皿を踏み砕いた。力づくで膝を折らせた。

 花傘で喉笛を貫く。何度も、何度も。

 その度に、ヒヒイロゴケが噴いて。コケ溜まりができて。

 と、花傘が微動だにしなくなった。刀身に、黒いコードが荊のようにまとわりついていた。


 こう──なれば。


 赤い稲光。刀身を伝って、ガスマスクの全身を駆け抜ける。

 ガスマスクが顔面から床に倒れた。もう、動き出す気配はなかった。

 すぐには──苔にならないのか。

 ココは、手の甲を見る。血塗れのピンク色が覗いている。手をくるりと返した。掌にエンボスが移動していた。エンボスの緊急回避システムを使ったのである。

 あの静電気めいたものを感じた直後に。

「──」

 もし、エンボスを失っていたとしたら。

 ボンディングスキンが消えれば、確かに危険だろう。あれは宇宙服のようなものだ。なければ、ヒヒイロゴケに直接触れることになってしまう。だが、周辺にギノーの反応さえなければ、未来界に帰還することはできる。

 この場合、襲われたら自分以上に危険なのは──。


 ハンドラーから、負力の供給を得られないコクーン体のギノー。


 ボスが、危ない。

 ココは、テレパシーを試みて──。

 ガスマスクだった、ヒヒイロゴケの山を見た。マスクやバックルなど、一部は苔化せず元型を留めている。これが出現したときの静電気。あれは──酷く似ていなかったか。


〈ウインチェスターキューブ〉が発動したときの、あの感覚に。


 小人の内緒話みたいなノイズ。その向こうから、聞こえて来たのは。

 ──お嬢。

 本当に、聴きたい声ではなかった。

 ──手荒な真似をしてすみません。俺の見立てじゃあ、今頃貴女は狸との戦いに身も心も磨り減っていて、マーズは必要以上に貴女を傷付けることなく、エンボスを取り除ける手筈てはずだったんですが、どのみち失敗しちまったようで。

「ボスは、近くにいるの」

 ──近くっちゃあ近くですが、まあ目に見える範囲にはいますかねぇ。

 これが中々すばしっこくて捕まりゃしないとトーマが幽かに笑う。

「どうして──」


 ──お嬢は何か勘違いなさっている。俺は貴女のことが好きですよ? ただ、理解されて然るべきだとは到底思っちゃいない。


 テレパシーが切れた。

 どうしてか、蓮華の花が脳裏をぎった。

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