18『Paranoia』

 山奥に来ると、蝶まで大きく感じる。何という名前なのだろう。闇色の中でも、はねは鮮やかな青紫に輝いて見えた。

 なだらかな山道を歩いている。三月の下旬、夜はまだまだ冷えるけれど、アウターは春物を選んだ。この寒さだって、どうせもうじき感じなくなる。

 白いマウンテンパーカー。晶に選んでもらった服。パーカーの中腹にはドローコードが付いていて、引っ張ればウエスト部分を絞れるデザインになっている。

 私は、普段から白い服や小物を身に着けることが多い。一時期は、ただでさえどこもかしこも白いのにこれ以上白尽くめになってどうするの──なんて思っていたのだけれど。以前、まこ姉さんが言ってくれたことが、とても腑に落ちたからだ。


 ──ココちゃんはせっかく肌も髪も白いんだから、それを活かした格好がすごく素敵だと思うの。


 その辺の見方はやっぱり芸術家──というより、まこ姉さんらしい。

 ふと、佐竹君と帰り際にした会話を思い出す。

 ──俺が見たとき、つくしは血だらけでした。だから、死んでいるってわかったんです。もう、助からないって。公衆電話まで走って、一一〇番して、警察を案内して、そのとき見つけたアイツは、もう綺麗になっていました。血のあとはなくなって、ベンチに横たわっていたんです。

 ──それは、ちゃんと説明したの? 警察の人に。

 ──ええ、しました。けど、俺自身無傷のつくしを見てしまっているので。事情を聴きに来た刑事さんは、同級生の遺体を見るなんてショックな体験をしたんだから、そういう見間違いは不思議なことじゃない、責任を感じることはないって。

 ──どうして、それを私に言おうって思ったの?


 ──わかりません。ただ、何か意味があることだと思えたので。


 どうしてみんな向こう側の私ばかり。大野木ココじゃない私ばかり必要とするのだろう。

 やがて、風が消えた。寒気が遠のいて。地面の踏み心地は、湿った葉っぱを踏むしっとりとしたそれから、さくさくと小気味良いそれにとって変わった。

 視界を狭めていた日傘を畳む。


 世界が、しゅに染まっていた。


 ヒヒイロゴケに覆われた門の前で足を止める。ブロック塀の向こうには、煉瓦でできた三階建ての建物がある。縦長の窓には、内側から木の板が打ち付けてあって、中の様子は窺えない。何の建物だったのだろう。ただ、もう誰にも使われていないことだけは判る。

 傍には、何故か緑のテープでぐるぐる巻きにされたコーンが放置もとい展示されていた。トーマ君の置いてくれた目印だ。


 ここに、手負いの風梨華が居る。


 ウエストのドローコードをぎゅっと絞った。

 何か──意味があることだと思えたからだ。     

              ※

「もしかしてわざと怪我しているのかしら?」

 私は、包帯を巻かれている脚から、手当てをしてくれている風梨華へと視線を移す。

「私に手当てしてほしくてよ」

 風梨華がおどけたように言った。

 私は、微笑むことしかできない。もう、こんな手当てが要るような躰じゃないのに。

 二人で薄暗い和室にいる。

 ここには、太陽も月もない。季節の移り変わりもない。桜染めの空がその顔色を変えることはなく、赤い苔が降ることはあっても、雪が降ることはなかった。


「斬ったら──相手を斬ったら少しは自分も斬られないと、怪我をしないとおかしい気がして」


 風梨華は目を見開いて、それから呆れたような眼差しを向けてくる。

「ホント、い子ちゃんね。アンタ」

 ああ、違うのに。

 敵とはいえ、誰かに痛みを与えるなら、あるいはすでに与えたのであれば。自分も痛い思いをしなければ、何だか申し訳なくなってしまう性分。

 風梨華は、多分そんなふうに誤解をしている。

「善い子じゃないよ。もうずっと、善い子じゃない。普通がいい」

 私は、そんなんじゃないのに。


「普通の──女の子がいい」


 風梨華が黙って私の後ろに回った。慣れた手つきで私の髪を結ぶと、顔の傍に手鏡を差し出した。そこには、白い大きな花と短い小花下がりのついた髪飾りが映っている。

 風梨華があらっ、とわざとらしい声を上げた。

「可愛い女の子みたいよ」

 私は笑って、元から女の子ですけど──と言って、彼女を肘で小突く。

 幸せとは、言い切れない日々だった。

 ただ、このままでも悪くないと、そう思っていた。             

              ※

 畳んだ日傘を振るった。

 背後にあった壁がえぐれる音がした。飛来した風の刃──その軌道を逸らしたのである。

 日傘には、猿の頭に蝙蝠こうもりの翼を持った小さな異形が群がっている。程なくして、弾けた。現れたのは一振りの太刀。身幅は狭く、刃文は不規則に小さく波打ちながらきっさきへと伸びている。


 薄氷花傘うすらいのはながさ──日傘を素体に、ヒヒイロゴケを使って形成したココの愛刀。


「何しに来たのよ」

 壁に凭れて座る風梨華が言った。

 ココは答えない。ただ、花傘を中段に構える。

 風梨華は捨てるように笑って、徐ろに立ち上がった。


 ああ──見抜かれている。


 鋒が揺れていると、腰が浮いていると、眼に鋭さがないと自分でもわかる。

 格好ばかりで貴女と戦う気なんて微塵もないのだと。まして親友だった貴女をこの手にかける覚悟だなんて。

 まるで、できていない。できる気が──しない。

「嬉しいわ。その吹抜け面に目をつぶればの話だけど」

 言い終えるや、風梨華が跳んだ。放物線を描きつつ、ココの目前へ──着地。同時に放たれた下段突きによって、舞い上がる床の破片。


 その一片が、唐突に加速して迫る。


 推進力の正体は、矢のように尖らせた息か。振り上げた刀でそれを弾き、下ろす刀で狙うは、交差する両腕に護られた風梨華の顔面。

 ココの腕に伝わる、受け止められた手ごたえ。それは、ほんの一瞬のことで。仰け反るほどに、刀身が勢いよく弾かれた。

 は知っている。


 ワンノート〈天津風あまつかぜ〉──逆巻く風の刃が構成する攻防自在の籠手こてと脛当。


 左足を軸に回転、遠心力に跳躍の勢いも上乗せした、もう一太刀。袈裟に斬り込んだ。風梨華の前腕にそれが喰い込み、折れた膝が床へと──。


 違う。


 水面蹴り。直感して、床を離れたココの両足が、されど床に着くことはなく。しまった──と思った時にはもう、上下が逆転していて。頭が、床を向いていて。

 そのまま、風梨華の連撃を受ける。受ければ、勢いのままに躰が回る。


〈天津風〉の応用──捕らえた対象の自由を許さぬ風のひとや


 天地左右の把握すらままならない状況で、襲い来る拳足を次から次へ。捌く。かわす。受ける。ただただ、目紛めまぐるしくて──。

 それでも、ココは敵が攻めづらい守りを心得ている。突き出した剣尖は、風梨華のストレートの軌道を僅かに反らしつつ、左目へ。裂いていったのは、それより数センチ下の頬肉。

 風梨華が、ココに背を向けた。

 直後、風の獄が消失する。


 落ちゆくココの身へ急迫するは、地を擦るようなアッパーカット。


 拳を、足の裏で受ける。回転しつつ飛ぶ躰。壁にぶつかる寸前、壁を掌で叩いた。正確には、掌で弾いた空気──〈引飴〉によって。衝撃を殺し、床へと着地する。


 風梨華が、高らかに何かをほうった。


 同じ動作が二回、三回と続いたところで、滑走。間合いを縮めながら、爪先を軸に方向転換。すぐ傍を、轟音と共に墜ちたそれを、ココは──目にせずとも知っている。


 大太刀──ばらまいた小豆の変じた姿。

 

 それが、今から分だけ落ちてくる。

 速度は落とさず、間を縫って、躱し切れないとみるや花傘と〈引飴〉を駆使して弾く。

 近付く。近付く。

 風梨華が跳んだ。今まさに、両者の間に突き刺さらんとしていた大太刀を掴むや、落下の勢いそのままに斬り下ろした。


 スピードをマックスからゼロへ。


 間合いに入る一歩手前、足許に放った〈引飴〉によって天高く身を放つ。眼下には、こちらを見失っているだろう風梨華の姿。

 唐竹割り──。

 頭部を割った手ごたえは、なかった。

 花傘を受け止めたのは、大太刀。されど、刃同士が触れ合っていない。大太刀のまとう旋風によって阻まれている。そして、その柄を──風梨華は握ってなどいない。

 大太刀が真一文字に振るわれる。

 ココは、後方に滑走することでそれを回避。そのまま大きく距離をとった。


 久しぶりに、見た。


 風梨華の傍らには、まるで守護者のように大太刀が浮かんでいる。周辺に墓標の如く乱立する大太刀も皆、〈天津風〉の鎧に身を固めていた。

 風梨華が、にやりと笑った。立ち並ぶ大太刀のうち六本が床を離れ、剣尖をココへと向けた。

 凄まじい刃唸りと共に飛来。

 ココは、花傘を水平に構えるやそのむね目がけて〈引飴〉を打ち出す。


 巨大な三日月状の圧縮波が、全ての大太刀を撃墜した。


 と、ココの足許に急迫する影。地を這うほどに低い、床と躰がほぼ平行なタックル。

 。背中に覆い被さった。それでも、猛進は止まらない。止められない。

 壁を蹴った。その反動で、風梨華を跳び越えて、背後に回る。

 風梨華の振り向き様の裏拳。頭を下げて躱し、懐に飛び込みながら、花傘を逆手持ちに。柄頭つかがしらで上腕を打った。そこは──〈天津風〉による護りが届いてはいない。

 もう一方の腕で繰り出されるフックも同様、掻い潜って、一撃を与える。

 風梨華の両腕が、僅かに下がった。ココからすれば、がら空きに等しい。

 ココは、構えて。


 ──風梨華は、もう生きていないかもしれません。

 きっと、彼女はもう長くはない。


 ただ、構えて──。

 腹部に衝撃。恐らくは前蹴りだろう。負力による局所防御が間に合ってなお、身を押し潰されたような痛み。

 吹き飛びながら、目に映る天井。

 烏が輪を描いて舞うように、上方じょうほうを滑空していたいくつもの大太刀が。

 一斉に、こちらを向いた。

 飛来する。飛来する。

 次から次へと、降り注ぐ。

 轟音が止んで、土煙が薄れて。

 ココは、立ち上がることができなかった。

 痛みは──あるにはあった。


 ワンノート〈木枯こがらし〉──ボンディングスキンへ耐刃特化の属性を付与するそれは、剣という概念から与えられるありとあらゆる衝撃を、それが如何なる曰くつきによるものであろうと激減させる。


 けれど、立ち上がれなかった。躰のどこにも力が入らなかった。

 風梨華を殺そう。

 そう誓って、振り絞った闘志が、もう見当たらない。萎えたのではなく、もうどこにも。完全に、心のどこにも無いのだ。

 ふざけるなと風梨華が声を荒げた。


「ここで手ぇ抜いてどうする。アンタ何しにここへ来たのよ」


 いつかお互い本気で戦いたい。風梨華は以前そう言っていた。

「私は──風梨華を殺したくない」

 だって。

「だって、もう思い出してる」

 わかる。トンネルで戦ったときとは違う。これ以上言葉交わすまでもなく。これだけ打ち合ったのだからわかってしまう。


「思い出してるから何だって言うのよ。アンタが私のしたことをゆるしたとして、私が私を赦せるとでも?」


 風梨華は、何者かに操られていた。とはいえ、加担した。つくしの死に。かつての友である自分の行く手を阻んだ。それは、曇りのない事実。

「今さら生娘きむすめ気取ってんじゃねぇよ。散々殺しておいてよぉ。殺すわよ。ここでアンタが死んだら、アンタの家族も、友達も、皆殺すわよ」

 そんなこと──するわけがない。貴女にできるわけがない。

「ココ」

 嗚咽を殺した声。


「誓ったでしょ。鬼は鬼でも悪い鬼にはならないって。ここで死んだからって、人間の女の子として死ねるわけじゃないの。ここで死んだら、アンタはどちらにもなれなかった、ただの出来損ないだわ」


 いつだって、風梨華はそうだった。自分を女の子として扱ってくれた。女の子でいたい気持ちに理解を示して、ときには慰めてくれた。けれど、認めてはくれなかった。

 当たり前だ。悪鬼あっきにならないと誓った自分は、しかし二度と無知な少女には戻れないのだから。

 風梨華は、添えるように言う。


「もう、逃げないでよ」


 ココは、立ち上がった。

 そうだ。もう逃げられないのだ。家族も友達も、これ以上殺されないためには。大切な人たちの命をこの手で守り抜くためには。

「風梨華」

 名前を呼んだ。

 すんと短く鼻を啜った。


「殺すよ」


 赤い稲光が駆け抜けて──。

 風梨華の身長が、半分になった。

 下半身を失った風梨華に、きっさきを向ける。


「やれば──できるじゃない」


 手から、花傘が落ちた。

 その場にへたり込んだ。

「風梨華──お願いしたいことある?」

「そうねぇ。私の記憶をいじくって、友だちの家族を奪うような悪事に使って、友だちの心をこんなに傷付けて、しまいにゃこの私を使い捨てるような悪党どもをやっつけて──なぁんて、あの頃ならお願いしたかもだけどねぇ」

 風梨華が、ココの肩を引き寄せる。ココに自らの重みを預けるようにして、続ける。


「したいことをしなさいな。お願いなんてカタチでアンタに強要はできない。こうして貴女は私を捨ててくれたし、私は貴女に捨てられてあげたんだから」


 ココは、風梨華の顔が見たかった。けれど、見てはいられないとも思った。だから、そのままでいることにした。

「ねぇ、ココ。ちょっとは本気出した?」

「うん。本気で手加減してた」

 嗚咽をまるで殺し切れていない声で、そんなことを言う。風梨華のよく知る自分は、こういう娘だったから。


「ホント憎ったらしいんだから」


 のし掛かるようだった躰が、腕の中で静かに崩れた。

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