17『Umbrella』

 家の前で立ち往生している。立ち往生とは、本来立ち死にを意味する言葉らしい。確かに、今の私は立ったまま死んでいるようなものかもしれない。

 どうして引き返したのだろう。いや、理由はわかっているはずだ。

 玄関にあった見覚えのあるローファー。間違いなくしずりちゃんの靴だった。

 善い娘なんだってことは、わかっている。

 ただ、目が──私を見る目がどうしても駄目なのだ。

 しずりちゃんはどういうわけか、私のことを尊敬している。自意識が過ぎるのかもしれないけれど、きらきらとした、焦がれるような眼差しを向けてくる。


 私は、あんな目を向けられていい存在じゃないのに。


 つくしちゃんの目が、ありのままの私を映す鏡なら。

 しずりちゃんの目は──美化された私を映す偽りの鏡。

 それはそれで、耐えられなくなる。

 その場にうずくまった。考えていたら、お腹が痛くなってきた。

 後ろから、誰かが近付いて来る。足音の特徴からして家族の誰かではない。それでも、顔は上げなかった。今は誰とも話したくない気分だった。

 あの──と声をかけられる。どこかで聞いたことのある、男の子の声。

 振り向くと、

「誰か、呼んで来ましょうか?」

 心配そうな顔で私を見つめる──島佐竹しまさたけ君がいた。

 つくしちゃんの同級生。つくしちゃんの遺体の第一発見者だった。


 こけしみたいな子だと思った。

 髪型も然ることながら、瞳がつぶらだから余計にそう感じたのだろう。

 初めて佐竹君に会ったのは、佐竹君のお姉さんに当たる依鈴いすず先輩の自宅にお呼ばれしたとき──剣道着姿の佐竹君が、お茶とお菓子を持って来てくれたときだった。

 依鈴先輩の口から落雁らくがんだと紹介されたそれを前にして、さて、これはどうやって食べるのが正解なのだろう、見た目はメレンゲ人形みたいに固そうだし、やっぱり舐めるのだろうか、とりあえず先輩が手をつけるまで様子を見ようかとか、色々思考を巡らせていると、


 ──弟の佐竹だ。大野木のところの末っ子がいるだろう。あの娘にほの字らしいぞ。


 あまりにも、さらりと。

 お盆を脇に抱え、その場を離れようとしていた佐竹君が固まった。

 私は、可哀想だと口にするのは下に見過ぎていると思ったし、一緒になって茶化しているふうにも受け取ってほしくなかったので、

 ──そ、そういうことをからかうのは、お姉さんでも酷いと思います。

 依鈴先輩を真っ直ぐに見据えてそう言った。

 先輩は、どういうわけか幽かに──それでも私から見てわかる程度には身を震わせたあと、ほんのり上気した顔でにんまりと笑って、

 ──ほらっ、こういう気遣いをする奴なんだ。

 面白いだろうと佐竹君に同意を求めた。


 佐竹君と視線が触れ合う。


 頬を果実色に染めて、先に目を逸らしたのは、佐竹君の方。

 何だか──お友だちになれそうだと思った。


 夕暮れの公園には、私と佐竹君以外誰もいなかった。

 私たちは、ブランコに並んで座っている。ベンチに座ろうとは思わなかった。佐竹君が気を悪くしない距離感がわからなかったからだ。

 どうして、声をかけてしまったんだろう。ちょっとお話ししない──だなんて。

 場所は近場の公園を選んだ。家でお話しするって尋ねたとき、佐竹君が僅かに顔を曇らせたからだ。何も私の願望がそう見せたわけではない──と思いたい。

 佐竹君は、ナップサックを背負ったままだ。急ぎの用事でもあるのかなって思ったけど、それだと家の前にいた説明がつかない。私の誘いにオーケーを出したりはしない。

 なら、よっぽど大切な何かが入っているのだろうか。

 ふと、依鈴先輩の言葉が頭をぎる。


 ──末っ子がいるだろう。あの娘にほの字らしいぞ。


「佐竹君は、つくしちゃんのことどう思ってたの?」

 これは──いきなり突っ込み過ぎてやしないか。

 別の話題を振って誤魔化そうにも、まるで言葉は浮かんでこなくて。

 自分の口下手さに、心の中で頭を抱える私の耳を打ったのは。


「好きですよ」


 あまりにも素直な──佐竹君の一言。

 佐竹君の顔は、決して笑顔とは呼べない。けれど、柔らかい顔つきをしている。

 つくしちゃんは、もういないのに。

 ──好きじゃないんだ。

 つい、息を呑む。

 なんか──すごいな。

 佐竹君は、喉の辺りを親指と人差し指で撫でつけながら、言葉を続ける。

「不思議です。アイツがいたときは、いつもこの辺りでつっかえていたのに」

 今では、こんなにあっさりと。

「大野木さんはどう思ってたんですか? アイツのこと」

 問い返されて、言葉に詰まる。頭の中が、真っ白だった。

 唇が、凍えるように戦慄わなないて、ようやっと地べたへ落とすように呟くことができたのは。


「酷い」


 ただの──その一言だけ。

「──酷い?」 

「最近ね、学校から家に帰るまでの間、ずうっと考えてるの。今日、家族と顔と合わせたら、どんな顔で、どんなことをおしゃべりしたらいいんだろうって。つくしちゃんがいなくなって、雰囲気はどんよりしていて、料理はちょっとだけ得意だからせめて頑張って何か美味しいものでも作ろうって思うんだけど、あんまりに手の込んだご飯を作るのも何だかズレてるというか、良くないのかなって」

 だから、家に帰るのが厭になる。

 誰と会うわけでもない、何をするわけでもない放課後を過ごしてしまう。

 ささめ姉さんは。受け入れてくれる親友がいる姉さんは。誰かに受け入れてもらうことに抵抗がない姉さんは。


 だから──ずるい。


「つくしちゃんがいなくなったのに、私自分のことや周りの顔色のことばかり考えてる」

 佐竹君とは違う。喉に言いたいことがつっかえているわけではない。

 私はつくしちゃんのことをどう思っていたんだろう。

 その答え自体がないのだ。真っ白で、どこにも見当たらないのだ。

「なんて薄情なんだろう」

 視界が、端っこから滲んでくる。

 こんなものを流してはいけないのに。流していい立場ではないのに。つくしちゃんの命を奪ったのは、殺したのは、私のようなものなのに──。

 不意に、横から差し出されるブロックチェックのハンカチ。


「薄情だったら、泣いたりなんてしませんよ」


 佐竹君は、前を向いたままだった。

 私は、ハンカチを受け取る。頑なにこっちを見ようとしない佐竹君と、手に持ったそれをしばし見比べて。思わず、笑ってしまった。

「佐竹君。男の子なのにハンカチ持ってるんだね」

「な──」

「すごいね、佐竹君は」

 佐竹君の顔が真っ赤になる。言葉を──紡ごうとしたみたいだけど、きつく結ばれた唇が、結局何かを紡ぐことはなくて、緩々ゆるゆると目を伏せた彼は。

 何故だか──涙ぐんでしまった。

「これは、違うんです。ただ、姉貴──じゃなくて。褒められたのが、あまりに──」

 腰を上げた拍子にブランコが揺れる。私は、佐竹君の向かいに立った。

 日傘を開いた。これで──周りから佐竹君の泣き顔は見えない。

 佐竹君が俯いた。膝上の握り拳にはらはらと涙を落としながら。絞り出すような声で、こう言った。

「大野木さん。俺には、話さなければならないことが、謝っても絶対にゆるされてはいけないことがあります」

              ※

「すみません、送ってくださって」

 いいのよ別に──と言って、格子戸の向こうに広がる世界へ目を向ける。きちんと剪定された松の木に、どっしりとした灯篭とうろうまで備えたザ・日本庭園。

 そう、まだ庭園だ。ここからじゃまだ朝妻邸は見えない。ここに着くまでの塀だって結構な長さだったっていうのに。

 これ──文化財とかに指定されてないわよね?

 しずりちゃんが年のわりに礼儀正しいのは、両親が教職だからって勝手に思い込んでいたけど、この調子だと代々そういう家系なのかもしれない。

「入場料はもらっていませんよ?」

「──私、そんな顔してた?」

「家に初めて来たときのつくしちゃんがそうだったので」

 ──なあ、どこでチケット買ったらいいんだ?

 まさか、あの娘と発想が同レベルとは。

 つくしから、今日はしずりちゃんの家で遊んだ──という話は何度か聞いたことがある。となると、つくしはこの門をくぐったのか。我が義妹ながらイイ度胸してる。

「最近さ、よく眠れてる?」

 しずりちゃんが、小さく目をみはった。

「前に、つくしが言ってたの。友だちにあんまり眠れない子がいるから、何かよく眠れるようないい方法はないか──って。だから、今のはひっかけただけ。それがしずりちゃんだってことは、言ってなかったよ」

「そう──ですか。なら、あの"おまじない"も」

 しずりちゃんが、言葉に詰まった。その瞳が、潤みを帯び始める。

「平気?」

 首が──力強く縦に振られた。こっちを見上げるしずりちゃんの顔は、


「はい、平気です。今は──もうよく眠れています。つくしちゃんが、とってもとっても頑張ってくれましたから」


 まるで、雨上がりの空みたいに晴れ晴れとしていた。

 詳しいことはわかんないけど──つくしはこの娘のために頑張った。そして、この娘もそれを心から感謝してくれている。

 なら、それで良いじゃん。

 しずりちゃんの頬を伝う涙を、人差し指ですっと拭う。

「ねえ、厭なら言わなくてもいいんだけど。ひとつ訊いておきたいの」

「はい」

「さっき、って言ってたでしょ。あれは──」

 何のこと?

 しずりちゃんが、見るからにぎくりとした。申し訳ありませんと言って、勢いよく頭を下げる。

「お答えすることはできません。それは──つくしちゃんとの約束ですから」

 毅然とした口調。一向に上がる気配のないしずりちゃんの頭を前にして、私は、短く息を吐いた。腰に当てていた手を小さな頭にそっと乗せた。

「ホント──いい友だちだわ」

 どこかためらいがちに、私の顔を見るしずりちゃん。瞳はまだ濡れていたけど、もう零れ出してはいなかった。 

「あの、つくしちゃんのこと、信じてあげてくださいね」


 ──ささめねーちん、これほしい。


 あの娘なりの気遣いだったの。優しい──嘘だったの。

 心の中で静かにかぶりを振って。

 しずりちゃんの頭を撫でながら、私は微笑んでみせる。

「もちろん、信じてる」

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