15『ヒトガタ』

 ガスマスクの姿が、再び視界から消えた。直後、光のドームのあちこちで弾ける波紋とノイズ。目視の追い付かない多角的連撃。

 フェレットが僅かに後退した。援護に駆けつけてくれたのはありがたいが、流石にガスマスクより遥かに上手うわて──というわけでもないらしい。ドームが突破されるのは、恐らく時間の問題だろう。

 ささめは腕時計を見た。その先に繋がっている相手を想った。シャロはまだベストコンディションではない。ならば、もう、残された手札はしかない。

 鼻から徐に息を吸い、下腹部に力を込めて、尖らせた唇から鋭く息を吐き出す。

 腹は、括った。


 ネイルガンを顔の横へ近付け、キーコードを囁きかけた──そのときだった。


 ドームの外──不意に現れるガスマスクの姿。ただし、その片腕は不自然なほど真横へ伸びていた。まるで、糸で引っ張られているマリオネットのように。続けて伸びるもう片方の腕。そう、糸だ。螺旋状の黒い光輝が、ガスマスクを宙空へ磔にしているのだ。

 光輝の出所を目で追えば、神社で扱う墨書ぼくしょされているような文字が、空中に黒い光をぼうと放ちつつ静止している。

 ささめには読めない。意味もわからない。ただ──禍々しいという印象がある。

 文字の周りには、千代紙のように鮮やかな和柄のはねまとった蝶の群れ。

 ガスマスクが、力任せに千切った。光輝の鎖ではなく、鎖が絡み付いた腕そのものを切り離したのだ。再び突貫──しかし、眼前の障壁が激しく揺らぐことはなかった。寸前で、ガスマスクの首を新たな光輝が捕らえたからだ。

 ささめは、そこで初めて気が付く。


 鎖の発生源となっている呪詛めいた文字。それは、蝶たちが自らの羽ばたきによって虚空に描いているのだと。彼らの飛翔の軌跡そのものなのだと。


 締め上げられ、ガスマスクのこうべが力なく垂れたと思うや、から落ちて。断面から噴き上がる緋々色の柱。否、噴き上がっている、その中に。

 黒いコードの束──露出した筋繊維のような触手が見える。ブレード状の先端が大きく円を描いて、勢いはそのままにささめとフェレットを包むドームを断ち切らんと薙ぎ払われた、その刹那──。


 弾かれた。


 やじり状に姿を変えた蝶たちが、一斉に突撃を浴びせることで触手の軌道をねじ曲げたのだ。

 絶え間なく、落雷のように降り注ぐ蝶たち。ガスマスクが後退り、ついには地面へ両膝を着いた。

 拘束を担っていた蝶たちが、二手に分かれる。一方は右へ。一方は左へ。躰中から原形を失うほどに触手を伸ばして、ドームを攻撃しつつ、蝶の群れをも相手取るガスマスクを中心に据え、文字を走り書きしてゆく。

 文字の羅列が、ガスマスクを包囲した。と、フェレットの全身が輝いた。光のドームが厚みを増す。密度が高まる。ささめから見て、フェレットの姿が半透明になっているのは、躰を維持する分の負力までそれに当てたということか。


 何かが、起きようとしている。


 障壁越しに薄っすらと見えたのは、三六〇度から轟音と共に放たれたいかずちの束。飲み込まれるガスマスク。ささめは堪らず頭を庇って、その場にうずくまって──。

 顔を上げたときには、もう──何もいなかった。ガスマスクも、フェレットも、和柄の蝶も。徐に立ち上がり、ふと足許を見れば、の入ったマスクが転がっている。

 すぐさまネイルガンを向けた。半身を失ってなお復活した怪物だ。この状態からの再生とて大いにあり得る。

 マスクの後頭部は大きく裂けて、中からヒトの毛髪らしきものが覗いている。

 一目見て、だとささめは思った。

 ふと、脳裏に浮かぶ映像。マンションの外壁と寸分違わぬ色をした埃色の空。

 質素なワンピースに身を包み、発疹だらけのスニーカーを手に持った、あの娘の髪は──。

 

「──え?」


 首の付け根から伸びる、焦げたコードが蠢いている。

 ダブルハンド──撃てるだけ撃った。平常時なら決して忘れることのない残弾数が、頭から吹き飛んだ。中身入りのマスクが爆ぜる。跳ねかかってくるヒヒイロゴケが顔面を叩く。ネイルガンに装填された釘の負力が底を尽き、完全な弾切れとなったところで──。

 ささめは、ようやく我に返った。肩を大きく上下させつつ、両手で構えていたネイルガンを下げた。


 もう、ガスマスクが復活する兆しはなかった。


 一気に力が抜け落ちる。べしゃりと不快な音がした。いつの間にか、地面を覆う紅い苔はどこにもなくて。ささめは独り、田んぼの中にへたり込んでいた。

 顔を上げれば、眼前には同じく肩で息をしている鏡花がいる。一体いつからそこにいたのだろう。彼女の両足は泥に浸かっている。どう見ても、汚れることを前提とした格好ではなかった。

「帰りたくない気持ちは、理解を示してあげなくもないけれど──」

 鏡花はそこで言葉を切ると、ささめに向かって手を差し出した。


「駄々をこねるにしてもこね方があるでしょう?」


 呆れ顔をした鏡花の眼鏡には、泥が一滴跳ねている。

 ささめは思う。

 ああ、ココの言っていた通りだ。今、あの娘の言っていたことがよくわかった。


 大野木鏡花は──可愛い。


 ほくそ笑むささめは、怪訝そうに眉をひそめる鏡花に何でもないとかぶりを振って。

 差し伸べられた手をしっかりと掴んだ。

              ※         

 ──おはよう、シャロ。何よ、怪我は大したことないって昨日伝えたでしょ。そっ、もう平気だから。で、送ってくれた山童のタトゥーのデータ。昨日確認してこれだと思うヤツにチェックつけといたから。確認よろしく。うん、うん? いや、寝たってば。時間が少ないだけで、ちゃんと寝ました。はいはい、揚げ足取んなー。は? まだだけど? ねぇ、ご飯の心配までするのは流石に止めてくんない? アンタはお父さんかっつーの。あっ、あと昨日言い忘れてたんだけど、ガスマスクって一九世紀くらいの胡散臭いデザインだったから。とにかく何かわかったら教えて。うん、うん、わかった。ありがと。

 テレパシーによる報告を終えて、大きく伸びをする。

 鼻を通るひんやりとした空気。日がのぼるにはまだちょっと早い。

 ──やっぱ、テレパシーが復旧すると便利だわ。

 このデフォルトの機能が復帰したってことは、それだけシャロの回復も順調だってこと。それはいい。いいことなんだけど、それ以上に引っかかって仕方がないのは──。

 昨夜遭遇したガスマスク。間近で目にしたヤツの生首。マスクの裂け目からはみ出たオリーブアッシュの毛髪は、不自然なくらいツヤツヤしていた。


 まるで、あの存在のそこだけが可愛がられているかのような。


 寒気とは、違う。血のように、粘り気のある何かに、薄い膜一枚を隔ててまとわりつかれているみたいな、そんなはっきりしない気持ちの悪さ。


 マジで──何だったのよ。あのバケモノは。


 くるりと振り返れば、木立の中にたたずむ別荘みたいな我が家がある。ホント──辺鄙へんぴなところに建ってる。こういう田舎っていわゆるお隣さんとの繋がりがもっと濃いイメージがあったんだけど、いざ住んでみたらいやいやお隣さんどこだよ、遠過ぎでしょって感じだし。まあ、ワケあって夜の外出が多い私にとってはそっちの方が好都合なんだけど。

 家に戻ろうとした矢先、ドアが開いた。

 まこが出て来た。昨日の鏡花といい、今の私といい、部屋着かパジャマにアウターだけで外に出るのは、大野木家のブームなのか。

 ──反省。誰も得しない冗談はこれっきりにする。そんだけ皆に心配かけてるってことでしょうに。

 私は、まこにこう訊いた。

「寒くない?」

 まこが小さく目をみはった。それから零すように笑って、

「それ、今言おうとしたところよ」

 と言った。

 しばし、お互いに見つめ合う。先に恥ずかしくなって目を逸らしたのは私の方。

 昨夜の帰り際、シャロに尋ねたことを思い出す。


 私、どんな顔して帰ったらいいと思うって。


 アイツは、それを私に訊くのかねって全く以てごもっともな回答をくれたけど。

「おかえり、ささめちゃん」

「ただいま、まこ」

 さて、私は今どんな顔をしてるんだろう。

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